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日蓮大聖人・池田大作

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教学からみた仏法民主主義  

1964.10.12 「会長講演集」第12巻

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1  小平 御書の中に、政治に関する御文が数多くあります。それらの御文は、すべて王仏冥合の依文であり、仏法民主主義の原理が示されていると思いますので、それらを、どのように拝していったらよいか、おうかがいしたいと思います。
 最初に、立正安国論の御文から、お願いいたします。
2  政治と宗教を論ず
 帝王は国家を基として天下を治め人臣は田園を領して世上を保つ、而るに他方の賊来つて其の国を侵逼し自界叛逆して其の地を掠領せばあに驚かざらんやあに騒がざらんや、国を失い家を滅せば何れの所にか世を遁れん汝すべからく一身の安堵を思わば先ず四表の静謐を祷らん者か
 会長 この立正安国論の御文に、王仏冥合が厳然と示されているのです。この「帝王」とは、いまでいえば政治であり、議会であり、また政治家です。
 その使命は、あくまでも「国家を基として」、日本の国にあてはめるならば、日本の国を基として、天下を治め、天下泰平な平和な世の中をつくっていくことがその眼目です。ともに民衆は、「田園を領して」、この当時としては田園が主体になるけれども、いまでいえば、社会にあって幸福生活を営んでいく、文化的生活を営んでいく、それが政治の使命であるというのです。
 そうであるのに、他方の国より賊が来て、日本の国を侵略されてしまったならば、そのような幸福生活はできない。
 「自界叛逆して、その地を云云」は、結局は、日本の国の中で、もっとも重要な頭脳ともいうべき政界において、自界叛逆してしまったならば、他国侵逼難と同じように、民衆はなげき苦しむではないかと。
 したがって、自民党と社会党との紛争も、自界叛逆にあたり、また、自民党のなかの個人の野心、利害による派閥抗争、社会党、民社党、共産党のなかの派閥抗争も、ともに自界叛逆です。
 このように御金言に照らして見た場合には、日本の現状は、ぜんぶ自界叛逆難になっている。ゆえに世上は安穏でありえないのです。
 それから、「他方の賊来って云云」のところも、これはまた、第三次世界大戦、原水爆の恐怖、これも他国侵逼難と同じ方程式と考えてさしつかえないです。
 小平 すべて現代の世相を予言なされたと拝してよいでしょうか。
 会長 そうです。特に、日本の国だけは、世界に先き立って、武器を放棄した国です。他国からいろんな点で侵略された場合には、もっとも早く滅亡せざるをえない運命の国になっています。
 その点から冷静に考えた場合にも、ひじょうに危険な国です。一日たりとも、安穏に暮らせるわけがありません。それを、安穏に暮らしているのだか、ヤケクソになっているのだか、自暴自棄になっているのだか、行くところまで行ってしまったような姿が、いまの日本の国の現状と言わざるをえません。
 そこに、新しく王仏冥合を旗じるしとして立ち上がった創価学会、公明党の進出というものは、民衆のとうぜんの要望であり、時代の要求であるということは、疑う余地がないといえます。
 結局、国を失い、家を滅亡してしまったならば、どこに逃れていくことができるであろうか、逃れるところはありません。
 個人の幸福のためには、国家が安穏であり、平和でなくてはなりません。
 国家を安穏にする直接的方法は何かといえば、それは政治です。したがって「宗教のための宗教」ということはいけない。正しい宗教を持ったものが、政界に進出して、国家の安穏を築くということは、この立正安国論の御文に照らして、とうぜんの使命なのです。
 したがって、一身の安堵を思えば、すなわち個人の幸福を思うならば、一家の和楽を思うならば、四表の静謐を祈らなくてはならない。四表とは、国家と約し、社会といってもいいでしょう。つまり世界の平和を守っていかなければならないのです。
 何によって祈るかといえば、それは、末法今時においては、三大秘法の御本尊によるしかありえない、という結論になります。
3  真の政治家
 小平 帝王についてですが、現在では政治家と解してよいのでしょうか。
 会長 通途の仏法における帝王論、国王論は一応の義です。文底から大聖人様の御書を拝した場合の、帝王論、国王論というものは一重深い意義が存します。
 結局は、広く眼を開いて御書を拝してみるならば、今日においては「一国の政治」と訳さなければならないでしょう。
 小平
 しかし仏教では、そういう支配する指導者というものは、過去に善根を積んでいる、それだけの素質をもって生まれてきた人であると考える。
 会長 そうです。そうでなければならないのです。ですから、一つは、正法によって福運を積んだ人が、王にならなくてはならない。すなわち政治家にならなくてはならない。正法によって正しい理念を持ったものが、為政者になっていかなくてはならないといえます。
 こう考えれば、暴力革命、流血革命によって、権力をにざるなどということは、間違いであるといえるわけです。
 ですから、現実において、福運をもち、それから偉大なる理念をもった人が、為政者になることが自然といえます。この御文のとおりになりきっていけばいいわけです。
 ロシアのツァーとか、それからフランスのルイ十六世というような帝王も、一応は帝王と言えます。しかし、福運のない、人徳のない帝王であった。
 ですから、悪い帝王が治めた時代は、かならず民衆が不幸であって、そして暴動などが起こっています。
 今は、時代がかわって、民主主義ですから、主権在民であって、ひとりひとりが無冠の帝王ともいえるのです。
 真実の政治家は、真実の政治は、こうあらねばならないと、その家竜点晴として与えるべきものはなにか、持つべきものはなにかといえば、これは「正法」しかないというわけです。
 小平 「祷らん者か」ということが、そういう正法でなければできないということですね。
 会長 そうです。
4  個人の幸福と社会の繁栄のために
 小平 ここのところで、一身の安堵と四表の静謐というのは、一身の幸福と社会の繁栄というものが一致していくということでしょうか。
 会長 そうですね。これは、「一身の安堵」が、個人の幸福、それから「四表の静謐」が社会の繁栄です。戸田先生の理念が、この御文からでていると理解してよいのです。
 それから、これを宇宙にあてはめていえば、一身の安堵は自転であり、四表の静謐は、公転です。自転と公転がマッチして、はじめて、宇宙の法則が成り立つといえます。
 現在の日本の社会は、一身の安堵だけを思って、四表の静諸をまったく考えない。悪い利己主義に落ち入ってしまっています。
 小平 ですから、たまに国家のことを考える人がでてくると、変なふうに思われてしまう。(笑い)
 会長 超国家主義だとか、古い愛国者とか、思われてしまう。しかし、現実に中共の国民にしたって、もっとも祖国を愛している。党のため、祖国のためと言って行動している。アメリカだって、いざという場合には祖国愛を根本として戦っています。
 日本人も自分の国を大事に思うのは、あたり前です。ところが、そう思わせない思想になっている。そこに、大きい思想の混乱があるというか、惰弱になりきっているという、誠に悲しむべきことです。
 小平 また宗教は、その個人が満足すればいいのだという考え方は、この文証から見ても間違っていると思います。
 会長 いままでの宗教観というものが、どれほど根本的な誤ちがあるかがわかりますね。あくまでも、宗教本来の使命は、社会、国家、世界を幸福にするための、活躍でなくてはならない。カある祈りでなくてはならない。実践でなくてはならないのです。
5  勝負と賞罰
 小平 次のような御文もありますが、どのように拝したらよいでしょうか。
 夫れ仏法と申すは勝負をさきとし、王法と申すは賞罰を本とせり、故に仏をば世雄と号し王をば自在となづけたり
 会長 この御文も、王仏冥合の依文になります。「仏法と申すは勝負をさきとし」とは、所詮は、幸福になるか、成功するか、平和をつくるかという戦いなのです。
 賞罰になった場合には、賞するか罰するかで、なんらそれは真実の本源的幸福論ではないのです。どちらかといえば慣習論、常識論みたいなものです。あの人はよくやったから賞する。あの人はマズイから牢獄へいれる、罰する。表面的といいますか、現状の尺度でしか考えてない。
 仏法の場合には、もっと一段と深く、幸福になったか、ならないか、成功したか、しないか、丈夫になったか、ならないか、広範囲における、より本源的な幸福を説いていらっしゃるのです。「故に仏をば世雄と号し」世雄ということは、社会、全世界の雄、大指導者という意味になるのです。
 「王をば自在」、これは王は政治。政治が自在ということは、その時代々々に応じて、政策をつくって、民衆の幸福、社会の繁栄のためへの政治を、また時代の要求による政治を自由に実行することです。
 権勢、権力による自在とは別の意味です。
 小平 この賞罰というのは、人為的に、賞するとか、罰するとかというふうに、とってよろしいでしょうか。
 会長 そうです。実際は、人が人を罰するということについては、不公平があります。
 仏法のうえでは、もっと根源的な因果の理法から判断し解決されています。
 ここでも、やはり、王仏冥合になって、仏法は世雄で、あらゆる階層の土壌となり、大地になる。
 そのうえに、政治が社会の繁栄のために、政策をもって、自在に、実践し、確立していく――こういう関係になるのです。仏法民主主義の依文です。
 小平 ですから、仏法なしで、賞罰だけの王法でいいという、その考えが、ずい分おかしな考えになるわけですね。
 会長 賞罰を行なう、そのもとの理念を仏法が与える立ち場ですから、法がもっとも大事であり、その優劣は勝負になるわけです。
 悪法が基準になった場合には、賞罰が、一個の政治家の権力の乱用になってしまうのです。
 全体の幸福のためへの、繁栄のためへの、仏法を根幹としている勝負が大事になるわけです。
 賞罰は、法律、政治の世界であり、その法律、政治を正しく運営する理念が、仏法になります。したがって、その法の正邪は、勝負と現われてくるのです。
 「王をば自在となづけたり」ということは、王は政治の意味ですから、時代時代で政策は変わってもいいというひとつの定義になります。
 小平 自在とは、思うようになるという意味だけではありませんね。
 会長 ですから、王仏冥合論の立ち場から読めば、自在というのは、政治によって、思うように繁栄させてゆく。その時代時代における政策も、実行も、自在になしていくことができる、これが政治である、と読んでいかねばならないと思います。
 小平 ただ、自由だというだけでは、単なる王の専制みたいになってしまう。
 会長 そうです。専制になってしまいます。独裁です。
 小平 王法と仏法と相対した場合、仏は、世雄という指導者であり、王のほうは、自在に民衆を統治していく、賞罰を本として民衆を統治していくというのですね。
 会長 そうです。時代時代に応じてね。大事な文証です。御書は、生活、政治の鏡であり、原理なのです。
 小平
 会長 それを広げれば、社会につうずるのです。良い政治にするためへの勝負も仏法しかない
 のです。
 個人が幸福になるか、国が興隆するか、その根幹は仏法の法則しかないのです。その法則にのっとった場合には、勝つのです。太平洋戦争の場合には、結局は、正法を根底にしなかったから、これは負けです。
 いくら賞罰を法律で決めても、戦争に負けたならば負けです。人間が不幸になったならば負けです。社会が撹乱されたならば負けです。
 勝っていくための源泉――個人も、社会も、国家も、勝たしていく、興隆させていく源泉が、仏法になるというのです。
 そう読まないと、この勝負論というのは浅くなってしまうのです。
 小平 また政治と仏法について、次のようなおことばもあります。
 国家の安危は政道の直否に在り仏法の邪正は経文の明鏡に依る
 会長 「政道の直否」これは政治です。国家が繁栄するか、乱れるか、それは政治の使命です。
 どういう政治家が政治をとっていくか、それによって繁栄か衰亡かが決定される。
 今度は「仏法の邪正は経文の明鏡に依る」文証、理証、現証のうえから判じ、または依法不依人のうえから判じて、その仏法が正法であるかどうか、決定しなくてはならないのです。
 ここも王仏冥合です。ですから、仏法の正邪を分別して、正を立て、邪を排し、その正の仏法によって、その指導理念によって、はじめて、政治の常道を達成することができる。こう読んでいくのです。
 仏法は体、世法は影ですから、体まがれば影まがるで、その根底の理念になるべきものが、正であるか邪であるかを、まず究明しなくてはいけないのです。
 その土壌のうえに立った政治家であるかどうかということを見ていくことが、正しい見方なのです。
 小平 この政道ということですけれども、政治と考えてよろしいでしょうか。
 会長 政治でよろしいです。また、この御文は、政治だけではいけないという文証です。
 どうしても、そこに正しい仏法による指導理念がなくてはいけない。「法妙なるが故に人貴し」です。
 いかなる政治においても、その根底の理念がなければ、真実の政治はありえない。そのように解釈できます。
 ですから、公明党が、国家の安危を決定する時に至って、正法を根底にして、理想社会を建設するという意義は、この御文から拝察できるわけです。大確信をもって、前進すべきです。
6  明王は社会の現状を見つめ
 小平 王仏の関係を明王と聖人という立ち場から次のように述べられています。
 明王は天地に因つて化を成し聖人は理非を察して世を治む
 会長 「明王」はやはり政治、政治家、為政者です。ここも王仏の関係になってくるわけです。
 小平 「天地に因って化を成し」というのは、宇宙のリズムに合致したということですか。
 会長 そうです。天地は、とうぜん一往は宇宙のリズムととれますが、再往は、社会です。社会にあって化をなす――どのように社会を繁栄させていくか、どのように民衆を統治していくか――ということをいつも考えなくてはならない。「化を成し」でそうなるのです。化というのは具現された事象ですから、そこに「天地に因って」ということは、結局は宇宙の法則、再往は、社会の現状を見つつ、どう手を打つか、どう政治を行なっていくかということを考えなくてはいけないということになるのです。
 自分のことだけを考えて、民衆と直結しないことはいけない。ですから、今の政治家は、まったく民衆と遊離していますから、政治屋といわれてもやむをえないでしょう。
 民衆と離れた政治は、民主政治の根本義に反します。
 小平 民衆のなかに立脚して、政治をなすということですね。
 会長 「聖人は理非を察して世を治む」聖人は、これは仏と約し、または仏法のことです。理非とは、道理ある法理であるか、邪義であるか、それを明確にわけて、それを政治の根本理念としていかなくてはいけないという意味です。また「世を治む」とは、あくまでも民衆の生活の安定を目標としていくということです。
 現在は、政治の乱世なるがゆえに、理非より、利害にのみ生きている社会です。それに、評論家、学者等も、まったく宗教の正邪を知らない状態ですから残念でなりません。
7  福運のある民衆・福運のある政治家
 小平 政治家と民衆との関係について、
 夫れ天地は国の明鏡なり今此の国に天災地夭あり知るべし国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を諍うべからず国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を
 会長 「夫れ天地は国の明鏡なり」の「天地」は、宇宙の現証、宇宙のリズム、再往は、社会の姿、実相ということです。これをもって国の明鏡としなくてはならない。こう読んだ方が良いのではないですか。
 小平 要するに、天地に変化があれば、社会はとうぜん変化があるわけです。
 会長 「今比の国に天災地天あり」これは天変地天、すなわち正嘉の大地震、ならびに文永の大彗星、日本の国に天災地天がある、これで知りなさい。
 「国主に失ありと云う事を鏡にうかべたれば之を謡うべからず」禁誌覇の定理にあてはめれば、本が国主、政治ですから、末である国に天災地天があるということは、結局は、まちがった政治家であり、政治であるということが明瞭になるではないかと、訳してよいと思います。
 今の日本なんか、新聞の社会面を見ても、明々白々です。地震、爆発事故、水キキン等々。それから世界を見まわしても、いずこの国でも自界叛逆難、また、いつ戦争が始まるかわからない。キプロスの紛争、ベトナムの泥仕合い等々。世界の指導者が、ぜんぶ、仏法の鏡に浮かべてみて、よく社会の実相を見て、反省しなくてはならないという依文です。
 世界のことは別にして、日本の国の内閣総理大臣をはじめ、為政者が、頭をたれて、大聖人様の教えを、心から拝していかなくてはならない時代に入っているのです。しかし、党利党略にあけくれ、野心をもっている彼らなどには、わかるわけがない。どうしても、公明党によって、大聖人様のお嘆きを、喜びにかえるように努力する以外にないと断言できます。
 「国主・小禍のある時は天鏡に小災見ゆ」政治に小さいあやまちがあるときは、社会に、小災すなわち、小さいわざわいが見える。
 「今の大災は当に知るべし大禍ありと云う事を」すなわち、正嘉の大地震、文永の大彗星、天変地夭のこの大災は、どれほどか、時の為政者が、邪宗を信じ、正法を誹謗し、また大聖人様を迫害したかということが、鏡に照らしてみて、明瞭ではないかと。
 小平 大災の中の大災は、国が亡びるという事件ですね。
 会長 そうです。
 小平 そうしますと、国によって、こちらの方が、善国であれば、天災地夭はなくて、あちらの国にはとががあって、天災地夭がある、ということもありうるわけですか。
 会長 ありえます。
 小平 仏法はいずれの国にも片寄らず、宇宙の法則として存在している……。
 会長 永久に存在します。それから総じては世界の国々について考えられますが、別しては、個人についても考えることができます。
 個人で正法をたもったものは、やはり、しあわせな平和な生活をする。正法をたもたないものは、結局は、自動車事故にあったり、病気になったり、夫婦げんかしたり、災難が多い。
 それから今度は、衆生世間という立ち場から見、また国土世間という立ち場から見て、その一国の中心者が、代表者が、政治家として、政治をとり、そこに間違いがあった場合には、その現証は社会にでてくる。大きく見た場合には、世界を指導すべき、その指導国家、指導者が邪法を信じていれば、間違った理念であったならば、世界にやはり天災地天がある。こう、拡大して考えられます。
 小平 昔は儒教でも、国王に徳がないから国が乱れる、洪水がおきる、という考えがあったそうですね。
 会長 そうです。今でも同じです。おなじ内閣総理大臣といいましても、大分違いがありますもの。会社などを見ても、やっぱり、徳がある社長の場合には、社員もいいです。社長が悪いところは、社員もみんな悪いです。似たりよったりです。これは普遍的に考えられるところです。
 今の日本の政治にしても、政治家が、ほんとうに民衆のことを考えている政治家であれば、十倍はよくなります。
 小平 今度の東京の水キキンなども、水だけの問題ではなくて、都政全般がよくないということを、この日照りが証明してくれたわけだと思いますが。(笑い)
 会長 そうですね。
 小平 水だけよくしても間に合わないのではないかと思います。ちょっとなにかあれば、すぐガタついてくる。
 会長 そういう関係です。
 小平 やはり、政治家が、福運がある政治家でなければ、だめだということになりますね。
 会長 根本問題です。福徳のある政治家でなくてはいけないのです。
 小平 それは、いずれの時代にあっても、またどこの国にあっても……。
 会長 同じ原理です。ところで、徳のある政治家をつくるには、末法においては、正法を信ずる以外にはないのです。社会が悪いから、少しぐらい徳がある人間が政治家になっても、同化されて、すぐよごれてしまう。ハンカチが、ぞうきんになってしまう。(笑い)
 今の世は民主主義の世の中ですから、主権者である民衆が自覚し、今度は、正法によって、人間革命する以外にない、という結論になってきます。
 小平 民衆自体が、福運のある民衆が集まらなければ、だめですね。
 会長 その基本としては、正法を信ずる以外にない。御本尊様を拝む以外にない。その上にできあがった政治家、政治、これが理想的な民主政治、福運のある政治になります。
 小平 結局、折伏しかない。
 会長 そう、折伏しかないのです。
 小平 信心がなければ……。
 会長 いくら政治家がたくさん、学会からでても、信心がない政治家になっていくようなことがあれば、重大問題です。大事なのは信心です。
8  民衆は平和を願う
 小平 次の安国論の御文については、
 (客の白く)所詮しょせん天下泰平国土安穏は君臣の楽う所土民の思う所なり、夫れ国は法に依つて昌え法は人に因つて貴し国亡び人滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや、先ず国家を祈りてすべからく仏法を立つべし若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す。主人の曰く、余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず唯経文に就いていささか所存を述べん、そもそも治術の旨内外の間其の文幾多ぞやつぶさに挙ぐ可きこと難し、但し仏道に入つてしばしば愚案を廻すに謗法の人を禁めて正道の侶を重んぜば国中安穏にして天下泰平ならん。
 そこで「所詮天下泰平国土安穏は君臣の楽う所」とはどういうことでしょうか。
 会長 まず天下泰平、国土安穏とは、日本の国においても、平和である。全世界においても平和である。なぜかならば、個人の安穏と、それから世界の饗との関連にならねばならない。
 同じように、今の時代においては、日本の国だけが、しあわせであって、世界が不幸であった場合には、やはり波動がある。こう二段構えに読めます。個人と国、国と世界、そのうえの天下泰平、国土安穏でなければならないのです。
 所詮、天下泰平、国土安穏ということは、現代でいえば、日本の国の平和、世界の平和です。そしてまた最高の文化国家、文化世界、すなわち第三文明です。天下泰平、国土安穏は、このように訳していいのです。
 「君臣の楽う所土民の思う所なり」指導者も民衆も、ともに願う根本は平和のみである。それを、今日の指導者たちが、自分の金もうけのために戦争などをして、国民を犠牲にするということは、大なる誤りであるという文証です。
 人間であったならば、親子兄弟のことを考え、自分もながく生きて、しあわせに暮そうという考えは、とうぜんです。それを、民衆を犠牲にして、自分だけうまくやっていこうという考え方は、修羅道、畜生道です。人間以下の生命活動にほかなりません。
 「夫れ国は法に依って昌え法は人に因って貴し」これはやっぱり重要な原理です。客の方がいっていることばですけれども。
 「国は法に依って昌え」ということは、国の興隆、繁栄は、かならずその根底になるべき法によって、決定されるということです。
 また今度は「法に因って貴し」法をたもっている人が、興隆するか、しあわせになっていくか、または人間革命されて、福運をつんでいくかによって、法の偉大さが、明瞭になるので、す。
 ここのところは、御本尊様をたもった人も、反省しなければならないところですね。法華経をたもった人は、たとえ乞食になっても、法華経にきずをつけてはならないのです。かならず幸福になるという確信に立ち、また、幸福になった姿を示す使命があり、責任があります。
 小平 「国亡び入滅せば仏を誰か崇む可き法を誰か信ず可きや」
 会長 これはまだ客の質問のところです。政治が表で、仏法は裏でよいではないかとの所です。たとえば原子爆弾で国が亡び、人が死んでしまえば、人類が滅亡してしまえば、仏をあがむべき人もなくなるし、法を信ずる人もいなくなってしまうというのです。
 したがって、正法をたっとんでゆけば、戦争などは起こりません。だから、大事なことは、法であり、理念です。
 そして、法を大事にするか、しないかということは、今度は、人によって決まるのですからその人間を、人間革命していくことが、重大問題です。
 小平 「先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし若し災を消し難を止むるの術有らば聞かんと欲す」
 会長 これは、このとおりです。
 小平 「余は是れ頑愚にして敢て賢を存せず」
 会長 これは、ごけんそんの立ち場です。
 小平 「唯経文に就いて……天下泰平ならん」
 会長 大事なところですね。ですから、「経文に就いて柳か所存を述べん」経文は仏説ですから、そのへんの指導者やへっびり腰の評論家のやからが言っている言々句々とは、ぜんぜん違います。
 宇宙それ自体の本質を、ぜんぶ悟っていらっしゃる仏の言であるがゆえに、真理です。宇宙の大法則ですから、絶対的なものです。
 さて、治術の旨は、内道外道の間に、たくさんある。だけれども結論をいうならば「仏道に入って数ば愚案を廻すに」これは、日蓮大聖人様のお悟りの立ち場です。すなわち、御本仏というお立ち場です。
 謗法の人をいましめて、正道の伯、すなわち、正宗の僧侶、正法、または正宗を信心している人たちを、重んずるならば、国中安穏にして、天下泰平にすることができる。
 反対に全日仏(全日本仏教会)なんかを大事にして、日蓮正宗を圧迫すれば、国中安穏にならない、正反対のことをやるわけですから。
 太平洋戦争のときの学会弾圧の二の舞いをしないよう、今の指導者は、この原理を知るべきです。
 結局、日蓮正宗、大聖人様の大生命哲学、また大聖人様の弟子檀那を大事にして、意見を聞きながら、政治をやっていけば、国中が安穏になるというおおせです。
 だけれども、根性まがりやヤキモチの多い指導者ばかりで、聞くわけがないのです。そこでやむにやまれず、正法をたもった人々が政界に出て、政治をつかさどっていくならば、国中安穏にして、天下泰平となる、こういう結論です。
 小平 この客の「先ず国家を祈りて須く仏法を立つべし」ですが、この客は、やはり政治家ですので、まず国家を第一に考え、仏法を二の次にして……。
 会長 そうですね。質問の方はそうなっています。
 客の立ち場、つまり、北条執権の立ち場だから、政治の方が前に来て、仏法は二の次になっているのです。
 小平 それに対して日蓮大聖人様は、仏法を根本にしていくならば天下泰平になる。
 会長 そういう意味ですね。
 小平 この「国亡び入滅せば仏を誰か崇む可き」ですが、原子爆弾で三十万人も焼け死にして日本の国が亡んでいるにもかかわらず、もし大石寺の仏法が、広宣流布もしなければ民衆を救ぅヵもなかったならば、大聖人様がうそつきになるというふうに、戸田先生がおっしゃっていました。その原理なのでしょうか。
 会長 それは、そうです。悲しくも、日本の国は亡びました。それから、死者も全体では三百何十万出ました。創価学会も国家の弾圧によってつぶれているわけです。
 だけども、大御本尊様はきちんと空襲にも焼けず、大石寺におわしましたがゆえに、戸田先生が、厳然と広宣流布の指揮をとられたではないですか。法がどれほど強いかということです。
 ここに令法久住ができるという根本法則があるのです。
 だから、どんなことがあっても。令法久住が、全民衆、全人類の根本です。だから私は御観念文のときに、日蓮正宗の令法久住、それから創価学会の令法久住を祈念します。――なぜなら、外護の立ち場から、創価学会によって、日蓮正宗の令法久住は間違いないと確信するからです。
 その法さえあれば、人はいくらでも革命できるのです。ですから釈迦が大法勝劣、すなわち人が劣り、法が勝るといった意味もわかります。
 大聖人様は人法一箇です。結局は法即人になるけれども。その人は、それでは何を教えるかというと、法を教えるのです。法がなければ人に魂がないことですから。今、政治で大事なことは法です。心ある人は、たいてい理念がない、理念がほしいと言っています。
 小平 最近、先生が人が大事だということを話されていますが。
 会長 それは法を持った上の人なのです。人法一箇の上の人ですから。いまの御書に「法は人に因って貴し」という原理があるでしょう。そこを一つの原理としていっているのです。
 御本尊様を持って信心している学会員は、公明党員は、たいしたものだな、力があるな、頭がいいな、幸福だな、こう感じさせなければなりません。「或説己身、或示己身」とは身をもって示していかなくてはならないという経文なのです。
 小平 つまり、日蓮正宗の仏法は七百年変わらないですけれども、法が宣揚されなかったならば、結果においては、わるいということでしょうか。
 会長 そうです。そのままでは諸法になります。「法は人に因って貴し」といった場合に、なるほど、御本尊様の力はすごいなあ! という実証を世間に示さなかったのですから。
9  亡国の原因を論ず
 小平 次に亡国の原因について論じた御書があります。
 世間の法には下剋上・背上向下は国土亡乱の因縁なり、仏法には権小の経経を本として実経をあなづる、大謗法の因縁なり恐る可し恐る可し
 その「世間の法には下剋上・背上向下は国土亡乱の因縁なり」とは。
 会長 結局、下剋上も、背上向下も、ぜんぶ、いまでいえば革命です。しかし、暴力によって権力をたおす者は、また、暴力によってたおされます。
 そして、ひとたびは権力をとった指導者も、何万何十万の民衆を犠牲にしたことは、これは亡乱の因縁です。流血革命したという、多数の人を不幸にしたということは、未来もかならず不幸をまねく、亡乱があるという瑞相です。
 また、日本の政界をみても、ドングリの背くらべで、中原鹿を争っている。それが、義理や人情や(笑い)………なんかはいい方で、買収や策略やなんかで天下をとっても、また、それは国土亡乱の因縁をつくります。自民党には理念がない。ボス的、教祖的な人本尊しかないのです。社会党は反対に、機構だけを理念と考え、いわば法本尊だけです。人間でいえば、骨だけ研究して、血・肉・精神を考えない。共産主義は、暴力革命の法を信奉しているがゆえに、最近の除名問題など、分裂がくりかえされている状態です。どこまでいっても悪循環です。大聖人様からみれば、権力闘争は子供のケンカです。人間の才智は限りがありますから、したがって、大聖の智をいただいて、はじめて、多数の人々が納得し尊敬してくるのです。
 小平 「仏法には権小の経経を本として実教をあなづる。大詰法の因縁なり恐る可し恐る可し」
 会長 その根底になるべき仏法においては、権小の経経を根本として、法華経をあなどることは、大謗法の因縁であると。恐るべし、恐るべしです。
 仏法上で、混乱のやり方をしているがゆえに、世間、社会の上においても、下剋上、背上向下の、国土亡乱の姿をていするのだというのです。
 ですから、これは王仏不冥合です。(笑い)
10  一人の犠牲者も出すな
 小平 暴力革命を起こせばよいという考え方は、ダメなわけですね。
 会長 いけません。われわれは平和革命です。裏襲誹実現には一人の犠牲者もない。ぜんぶ幸福になることが眼目ですから。
 小平 そういう点からいきますと、フランス革命は、いちおう民主主義の出発として、高く評価されていますけれども、根本的にはよくない……。
 会長 仏法からみればよくないわけです。
 小平 けれども、あのときとすれば、やむをえなかったということですね。
 会長 そう、やむをえなかった。歴史の必然性からいえば、やむをえない。
 ですから、価値観から、当分においては、善であったといえます。最大多数の民衆の幸福のためには、よかったけれども、もう一歩掘りさげてみた場合には、方法は悪です。ひとりたりとも民衆を犠牲にすべきではありません。真実の革命のあり方ではないわけです。価値観からみる以外にないでしょう。当分的には善、跨節的には悪です。
 小平 革命を起こした人たちが、また殺されています。次から次へと。
 会長 ソ連もそうでしょう。結局、流血革命を起こさなければならなかったということは、根底の理念が、宇宙のリズムに合ってない、低級哲学だったからです。
 小平 いっさいの国王は、みな過去の世に五百の仏に仕えたるに依って、帝王主となることを得たりという、こういう意味からいっても、政治家が福運をもって、世を治めていかなければならないのであって、暴力対暴力で革命するということ自体、根本的にまちがっている、ということですね。
 会長 そうです。
 もう、末法今時においては、その福運を積むことは、正法でしかできないのです。ですから、帝王、指導者――これも仏法のうえからみれば、過去において、なんらかの格好で、仏に供養し、仕えていたことになる。また、十善をなしたという福運があっても、世の中が悪いから、少しぐらいの福運では消されてしまう。依正不二ですから。
 そういう考え方もできるでしょう。いまだって、ほんとうに安定している国は、世界中に、どこもないのではないですか。
 小平 そうですね。
 会長 世界がなんとなく不安定であることは、大聖人様の大目法を、世界のいっさいの民衆が根底にしていくべき、また指導者もそれを仰がなくてはならないという大瑞相でしょう。
 そう確信するのです。それは、三年や五年の先きでは、わからない点もあるかもしれないけれども、何十年、何百年先きになり、ふり返ってみた時に、たしかにそうであったという、確証ができるでしょう。
 小平 次の文についてはいかがでしょうか。
 国主は但一人なり二人となれば国土おだやかならず家に二の主あれば其の家必ずやぶる
 会長 これは、このとおりです。たしかに、天に二日なしです。
 小平 政党の分裂なども、二人の国主がでるということでしょうね。
 会長 そうです。よく民主政治だから、政党の分裂とか、政権を交代するとかいいますけれども、これは、なにやかや行き詰まって、結果的にできあがった姿であって、本来の正しい姿とは言いきれないでしょう。
 だから、どの政党も、大政党になろうとして、選挙のときは、血みどろになっているではないですか。
 したがって、たとえ分かれてみても、また交代したとしても、無能であっては、民衆に安穏な平和な生活をもたらすことができないのです。
 みんなが野心がなく、いかなる政党も民衆の幸福を第一に考えて話し合いをするならば、りっばにやっていけます。
 ほんとうならば、次の総理はあの人にやってもらおう、あの人がとうぜんいいと、混乱せずに、有能、高潔な人を指名できるはずです。
 家だって、まあ、長男があとを継ぐ、それを三男坊、四男坊が、長男、次男と争いをして、あの財産は、おれがもらうのだというような一家では、安穏ではないのです。おだやかではなのいです。
 自民党だって、社会党だって、責任ある党として、次は大体、いろいろな功績のうえから、人徳のうえから、政治力のうえから、この人にすべきだと、複雑性なく、混乱なく、やってもらいたいと思います。
 小平 この二人というのは、互いに争いあう、憎み合うという、対立の二人と考えていいわけですか。
 会長 そうです。
 小平 一人ということは、皆が同じ目的に向かって、いろいろと意見があっても、そこに指導者がいるということ。それは、一人といえるわけですね。
 会長 そうです。
 また、一人になると独裁政治にとるのですね。根性まがりは。(笑い)
 ぜんぜんそういう意味とは違います。あくまでも、一人を中心として、みんなで合議すればいいのだ、ということです。一家も、お父さんを中心にして、それで、皆がいろいろと協議しあって、一家を守っていく。それを拡大して国家にすればよいのです。
 それで、お父さんが亡くなったならば、長男なり、勝れた人が中心となって、皆で仲よくやっていこうではないか。一家を繁栄させていこうではないか。これを拡大して国家にすればよいわけです。
 学会の本質、公明党の目的等を、内外ともに、深く深く知っていただきたい。だれびとも大賛成する前進なのです。
 未曾有の教団、政党の出現といえましょう。したがって、いろいろ言うことは、なにか過去の観念にあてはめて批判しようと考える人が多いわけです。
11  学会は随自意
 小平 とにかく、何をやっても何か言われますし、といって、言われたからといって、別にちっとも困らないと思うのですが。
 会長 そうです。また、いう本人が、理念も確信も、何もないのです。
 人の口には戸が立たないのですから、何かいいます。(笑い)
 「猶多怨嫉」の経文どおりです。
 政策のうえにおいては、王仏冥合実現までは、いろいろな良い意味での政策協定はあるでしょう。政策に、そうとっぴなものがあるわけがありません。
 しかし根幹のいき方は随自意でいくのです。そうでなくてはならないのです。りっぱな鉄筋コンクリートの建物ができるのに、古い材木を少しずつ運んでもらっているのでは、かえって面倒になる場合があります。
 小平 どこの国でも、国が平穏無事、泰平なときは、二大政党対立などと、のんきなことをいっているけれども、実際に、国が亡びるか、どうするかという時には、もうおのずから、挙国一致して、団結してやっていますね。
 会長 それを、こんどは、平和な時にも、実行できれば得するわけです。
 民主主義、民主主義といいますけれど、実際は、衆愚主義、衆愚政治になっている場合が多いのです。それを民主主義と錯覚しているのです。
 またこの場合、もう一つには、「国主は但一人なり」の「国主」を、大仏法、日蓮大聖人様ととってもいいのです。
 最高の大指導者はひとりでいい。または最高の仏法はひとつでいい。あとはその根幹の理念を中心として、いろいろと協議しあって、民衆の幸福と社会のために戦っていかなくてはいけないともいえます。
 実際問題、自民党には理念が何もないでしょう。
 それから社会党も構造改革派だとか、それから右派であるとか、左派であるとか、根幹、理念がない。結局は、ひとりでなくてふたり、三人です。共産主義だって、たくさんあるでしょう。中共派だとか、ソ連派だとか。そうなった場合には、民衆はおだやかでない。
 ここで、民主主義、もしくは民主的ということを、もう少し深く掘りさげて考える必要があります。
 小平 フランスが、だんだん大統領の権威を拡大したというのも、やはり行き詰まるから、やむをえずやったのでしょうね。
 会長 そうです。一往、自然の推移なのでしょう。独裁民主政治といわれますが、一応大事なところです。
 学会だって、会長がふたりになったならば、おだやかではないですよ。(笑い)
 独裁政治の一番いけないのは、やはり財力や権力を欲しいままにする、独裁はいけません。
 そうでなくして、理想に向かっていく意味の正論を吐き、公平であるべき中心者というものがなかったならば、進まないし、張り合いがないです。
 無責任な人が多勢集まって、ガヤガヤ批判し合っているよりも、ひとりの、心から民衆を思う指導者が、責任をもって断行する方が、国家の危機を救い、民衆を幸福にする場合があります。しかも、その指導者が全民衆から信頼され、支持されているならば、それはりっぱな民主主義といえるでしょう。
12  信心がなければ福運がつきる
 小平 次に信心がなければ福運がつきるといわれますが、
 若し王の福尽きん時は一切の聖人皆為に捨て去らん、若し一切の聖人去らん時は七難必ず起らん
 会長 「王」は政治家です。為政者の福運が尽きるときは、「一切の聖人皆為に捨て去らん」これは「仏」の立ち場です。
 福運のない政治家であれば、正法は弘まらないし、正法を用いないということです。
 ですから「一切の聖人去らん時は七難必ず起らん」、結局、国土が乱れてしまう。為政者というのは、ひじょうに大事な立ち場になってくるのです。
 為政者こそ、正しい仏法を尊敬しなくてはならない、福運を消してはならないのです。
 ということを具体的に言えば、宗教の正邪、思想の正邪を賢明にみわけていける政治家でなければ、真実の政治家として、国家を安穏にさせきることができないということになります。
 いまの政治家は、せんぶ失格です。
 このところは、体内に約せば、公明党が政治をとるときも、信心がなくなった場合は、福運も尽きてしまうと読めます。大罰をうけるわけです。
 ですから、王仏冥合を成し遂げたあとでも、どれほど、きびしいかというところですね。
 公明党が、どんなに発展しても、他の政党、政治結社と根本的にちがうところは、さびしい信心があるゆえ、堕落なんかしないといえます。その依文です。
 もしか、堕落をするようであるならば、大罰をうけ地獄へ落ちていくということです。
 ここは議員にとっても大事なところです。
 小平 仏法の乱れが亡国の原因であるとおおせられた御書があります。
 仏法の邪正乱れしかば王法も漸く尽きぬ結句は此の国・他国にやぶられて亡国となるべきなり
 会長 これは、太平洋戦争で明瞭です。そのとおりです。
 また、立正安国論奥書に「既に勘文之に叶う、之に準じて之を思うに未来亦然る可きか」すなわち、この法を持たなければ、未来においても、同じような亡国の憂きめにあうと予言されています。
 したがって、仏法は、永久不変の大法理であるがゆえに、いま広宣流布を成し遂げていかなければ、折伏しきっていかなければ、第三次世界大戦が起こって、日本の国は、さらに悲惨な亡国にならざるをえないのです。
 よくよく心しなくてはならない依文です。まったく、いまの指導者連中は、無責任であり、卑怯です。
 日本の国をどうしよう、民衆をどうしようなどということは、片鱗も考えない姿でしょう。
 もし、考えたとするならば、創価学会に対しても、どうして日蓮正宗が正しいのか、それをよく教えてもらいたいと、そういう態度で臨むべきです。
 その謙虚さもなければ、探究心もなくして、皮相的な面だけみて、わざわざ法華経の行者をマジメに戦って社会のために活躍している人々を、小馬鹿にして撹乱しているということは、堕地獄の因です。信心をやめさせるという罪がいちばん重いのです。
 そんなことをやっている指導者連中だとか、学者、評論家ばかりですもの、日本の国はよくなるはずがありません。それでは本人は、どれだけ仏法を知っているかといえば、何も知らないのです。
 まったく、なげかわしいことです。
 小平 次の一節については、
 王法の曲るは小波・小風のごとし・大国と大人をば失いがたし、仏法の失あるは大風・大波の小船をやぶるがごとし国のやぶるる事疑いなし
 会長 日本の国が、敗戦になりながら、これだけ栄え、なにやかやといわれながら、経済成長をし、繁栄しているということは、大仏法が存しているからということがいえるでしょう。
 少しぐらい政治家が馬鹿でも、学会さえしっかりしていれば、きちんと世界の国に伍していけるのです。
 民衆が、正法をたもって進んでいけば、少しぐらい政治の失敗があっても、補ってあげられる。日本の国は栄えることはまちがいない。大事なのは民衆です。
 その根本理念たる仏法を令法久住させていくことに尽きるわけです。もちろん、王法も曲がっては困るけれども。(笑い)
 小平 ええ。
 会長 人間がやることは、多少は、これだけ広範囲の複雑性の組織であり、機構ですから、間違いということもあるでしょうけれども、これは、大聖人様の大慈悲です。
 根本理念があるならば、変毒為薬できる。補ってあげるからよいとのおおせです。
 いくらダムをたくさんつくったって、根本問題が狂っていれば、雨は降らない。小河内であろうが、大田区であろうが、杉並区であろうが、同じです。
 王法は、社会の問題、機構の問題です。
 仏法は、生命の問題、宇宙全体、いっさいの法則の源泉です。その根底の仏法をまちがってはいけない。正法を持たなくてはいけないのです。
 三国志などを読んでも、劉備玄徳にしても、諸葛孔明にしても、関羽にしても作戦を講じ、戦って戦って戦いぬくけれども、大砂塵にあい、いっぺんに、本陣が移動しなければならなくなったりする。やはり、大宇宙の現象にはかなわない。大宇宙の法則は恐ろしいと、欺いているところがあります。
 また有名な哲人が、いろいろ議論する。だけれども、あの星はいったい誰がつくったのだろうとね。(笑い)
 小平 個人においても同じことがいえるわけですね。
 会長 いえます。人間はおろかですから、それは間違える場合もあるでしょう。だけれども、根底に仏法があれば、ぜんぶ生かされてくるのです。
 小平 共産党と自民党といえば、ずいぶん政策も違うように思いますけれども、たいしてかわりはないですね。仏法の矢があるということにおいては。
 公明党の場合は、もう根本的に違う。
 会長 そうです。王法の場合は、自民党、社会党、共産党といっていても、これも同じ日本人、だから、共産主義者、資本主義者といっても、同じ日本人のためではないかと言いたいのです。もっと大事なことは大仏法を根本にすれ.ば、そんなことは、おのずから答え、がでる。
 小平 現在、ひじょうに社会が混乱し、社会が不安定であるということは、これは政治が悪いという面もあるでしょうけれども、また方法的にもまずい場合もあるだろうけれども、それよりももっと根本的には、仏法の矢による。それをたださないと、現在の社会、世の中というものは絶対によくならないといえますね。
 会長 そうです。その御文です。
 「仏法の失あるは、大風・大波の小船をやぶるがごとし、国のやぶるる事疑いなし」
 結局は、日本の国が、太平洋戦争でまけるという予言です。
 「国のやぶるる事疑いなし」と。日蓮正宗を弾圧したがゆえに国は破れた。反対に大仏法を弘めていくならば、国の繁栄は疑いなしです。論より証拠です。
13  今の評論家はイナゴか
 小平 次の御文の大塩虫等とは、
 国の大蝗虫たる諸僧等・近臣等が日蓮を讒訴するいよいよ盛ならば大難倍来るべし
 会長 「国の大蝗虫」とは、イナゴです。いまの評論家、学会批判の連中。これが大蝗虫と同じです。
 「近臣等が」とは、その当時の為政者、指導階層、それで、さっきの御文に土民とありました。それは、民衆のことですから、ここは指導階層と訳してよいと思います。
 「日蓮を讒訴する」日蓮大聖人をいじめれば、いよいよ大難が来る。
 いまでいえば、日蓮正宗創価学会をいじめれば、大難はいよいよ来るし、日本の国は安定するわけがありません。
 なぜ大難がいよいよ来るかといえば、これは、大宇宙の法則に反するからです。
 さっきの話ではないけれども、実際問題、すべてが因果の理法となる。やはり、良い人を守っていけば、よくなり、悪い人を守っていけば悪くなります。その判断のけじめがつかないほど乱れている世の中ですけれども、御本尊だけは、これは仏様ですから、間違いはありません。
 八万法蔵をぜんぶ、ひもといてみて、妙法は、最高法則であることは、絶対に間違いない。それを打ち破ろうとして批判しているのだから、いいことはないです。
 われわれは、自分だけの利益のためではないし、どこともヒモが付いているわけでもないし汗水流して、悪口言われながら一生懸命、根性曲りや、自殺寸前の人や、不幸な人たちの味方になって、朝な夕な守っているのです。国家が、指導者たちが、ほめるのがあたりまえです。
 それをヤキモチをやいて、とやかく言う。なんと小さな指導者かと、おかしくなる。それなら自分は何をやっているのか。何もやってはいないのです。批判だけです。
 小平 次の仁王経の文について
 仁王経に云く「国土乱れん時は先ず鬼神乱る鬼神乱るるが故に万民乱る賊来つて国を刧かし百姓亡喪し臣・君・太子・王子・百官共に是非を生ぜん、天地怪異し二十八宿・星道・日月時を失い度を失い多く賊起ること有らん」
 会長 これは、国が乱れ、亡んでいく根本道程、過程を論じていらっしゃるところです。
 一番大事なことは、思想です。
 この「二十八宿・星道・日月時を失い云云」これは、三災七難のところに詳しくでておりますが、要は、民衆の心の反映が、全宇宙に感応し、また宇宙の生命の働きが、われわれ民衆にぜんぶきびしく感応するということです。
 小平 この「鬼神乱る」ですが、生命のにごりととってよろしいでしょうか。
 会長 それは、そうともとれます。しかし、普通、鬼神という場合には思想のことです。思想が乱れた場合に政治が乱れるということです。
 小平 この「臣・君・太子・王子・百官共に是非を生せん」ですが、これは、良いの悪いのといって争いを生ずるということですね。
 同じような文で、仁王経に「よこしまに法制を作つて仏戒に依らず是を破仏・破国の因縁と為す」というのは、勝手に法律をつくるという意味のことですね。
 会長 そうです。
14  正法を弾圧すればかならず破滅
 小平 正法を弾圧すればかならず破滅するという御文があります。
 主持者を誹謗ひぼうせば位を失い臣民行者を毀呰きしすれば身をほろぼす一国を挙りて用いざれば定めて自反他逼出来せしむべきなり
 会長 これはきびしい御文ですね。
 国王は為政者、持者はわれわれです。この場合には、とうぜん、大聖人様になります。総じては、御本尊様を持った持者を誹謗すれば、その位を失うというお言葉です。
 どんなえらい人間でも、かならずその位置を取られてしまう。
 ですから、戸田先生、牧口先生をいじめた検事は、結局はノイローゼになってやめてしまいました。
 われわれをいじめた検事長は、昨年選挙違反でつかまってしまったではないですか。主任検事だって左遷でしょう。その他の検事も右へならえです。明瞭です。
 それから、やっぱり調べた刑事は、ひじょうに懺悔して、申しわけないことをしたといってました。
 いま出てないみたいであっても、これからでることは間違いないことです。
 小平 岸なんかどうですか。
 会長 いえますね。
 小平 石橋湛山もですか。
 会長 同じといえましょう。たった二か月で首相を止めなければならなくなってしまった。
 小平 ハッキリしていますね。大なり小なり。
 会長 それから「臣民行者を毀呰すれば身を喪す」
 さらに「一国を挙りて用いざれば云云」とは、正法を用いなければ、自界叛逆、他国侵逼難が、かならず起きるとおおせです。
 小平 知らないふりをしていても、いけないのですね。
 会長 いけないのです。きびしいですね。
 小平 どうしても、向こうから聞きに来なくてはならないわけです。それから、他の国の指導者が、日本の国、創価学会を迫害して来た場合も同じですか。
 会長 同じことです。
 台湾がそうではないですか。弾圧したでしょう。やがて、フランスが中共承認して、悩んだではないですか。それから韓国もデモで悩まされました。
15  日本は大乗の国
 小平 治病大小権実違目に「小乗の国が大乗の国に肩を並べようとするならば、その国の民衆に諸病が起こる」(996㌻)という意味のことがありますが、結局、この大乗の国が日本で、小乗の国は他国で、大乗の国に肩を並べようとする、あるいは攻めようとすると……。
 会長 そうです。
 なんだかんだといいながらも、日本の国は安穏ではないですか。
 これだけ四面から経済的、思想的、外交的に攻められていたって、守られて生活している。いじめてくれば、われわれ法華の持者は、かえって福運をつけてしまうのです。
 その反対に、相手方に内乱が起きるのです。だから、この御文で絶対の確信をもてばいいのです。ただし、謗法が多ければいけない。
 どんなことがあっても、御書のとおり確信もって生きられれば、大聖人様の大精神に生きたことになるのです。
 ですから、政策や何かというのは、日蓮大聖人の仏法の何百分の一とも言えます。その具現ですからね。ちょっと政策でもうまくやれば、たいした大政治家にでもなったように思うのは、とんでもないことです。
 小平 悪知識については……。
 国を損じ人を悪道にをとす者は悪知識に過ぎたる事なきか
 会長 これは、いまの評論家です。「国を損じ」の、ひとつの姿としては、正法をもって国の繁栄を願っている人を、悪道に落とす、批判し、信心をやめさせようとする動き、これは悪知識です。
 国の繁栄を考えた評論であれば、善知識に変わるわけです。
 ですから、馬鹿もいいけど、才能のある馬鹿ほど大馬鹿はいない。
 邪智のあるほど恐ろしい馬鹿はないのです。
16  守護付属を論ず
 小平 守護付属について述べられた御文について、
 涅槃経に云く「今無上の正法を以て諸王・大臣・宰相・及び四部の衆に付属す、正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」
 会長 無上は有上に対して無上です。
 だから、無上の正法とは南無妙法蓮華経になるわけです。
 諸王、それから大臣、宰相、及び四部の衆となっていますね。四部の衆に付嘱するのですから、われわれです。
 また、「正法を毀る者をば大臣四部の衆当に苦治すべし」これは、釈迦、そして天台、伝教、末法の日蓮大聖人様のご命令です。
 ひとつには、末法以前において、これは封建時代ですから、その形態で説かれていたといえます。上の方から、という意味で。上部広宣流布という形態です。
 いまは、主権在民で、民衆が主権者ですから、全民衆に付属されていることになるわけです。
 その中から、こんどは、諸王、大臣、宰相、四部の衆が出現すべきだと読むべきです。それで、諸法を対治せよとのおおせです。
 小平 会社やなんかで、学会員をいじめたりするとしますね。そういう会社に猛省を促がし、正しく理解させるということも守護付属になる、と考えてよいでしょうか。
 会長 とうぜん、そうとも言えるでしょう。この文は、いまの議員が、諸王であり、大臣なのです。
 諸王、大臣というのは、政治家ということです。為政者という意味です。また、かならず正法護持の総理、大臣が出現すると拝することができる。まあ、会社の方は、お願いしますよ。(笑い)
17  創価学会に付属あり
 小平 創価学会と守護付属の関係についての御文は、
 仁王経に云く「仏波斯匿王はしのくおうに告げたまわく・是の故に諸の国王に付属して比丘・比丘尼に付属せず何を以ての故に王のごとき威力無ければなり」
 会長 これも大事な御文です。
 力ある創価学会に付属がある。なぜかならば、広宣流布のために戦っていける。不自惜身命で前進していける。僧侶には、そうした威力がないから、付属がないということです。
 小平 ハッキリしていますね。
 会長 国王の付属です。所詮は、創価学会です。どうして、比丘比丘尼には付属しないかというと、王のごとき威力が無いから、広宣流布に突進していく勇気が無いから、ということになります。
 折伏するカもない。そしてまた、国を治めていくカもないのです。
 結局、この場合には、なんといったって、民衆に御本尊様を持たせ、民衆を引っぼっていく力という意義です。
 小平 次の文はどのように拝したらよいでしょうか。
 善悪に付て国は必ず王に随うものなるべし。世間此くの如し仏法も又然なり、仏陀すでに仏法を王法に付し給うしかればたとひ聖人・賢人なる智者なれども王にしたがはざれば仏法流布せず、或は後には流布すれども始めには必ず大難来る、迦弐志加王は仏の滅後四百余年の王なり健陀羅国をたなごころのうちににぎれり、五百の阿羅漢を帰依して婆沙論二百巻をつくらしむ、国中総て小乗なり其の国に大乗弘めがたかりき
 会長 善悪に付て、かならず国は、政治を中心にする以外にない。王は政治です。
 小平 政治が悪ければ、悪国になるし……。
 会長 善ければ善国になる。
 政治はどこの国でもかならずあるものです。
 世間も法理もそうです。仏法もまた同じように、その法理になるのです。
 小平 「仏陀すでに仏法を王法に付し給う」
 会長 王仏冥合です。仏法を王に付属すれば王仏冥合になるのです。
 日蓮正宗が仏、創価学会が王。また、創価学会が仏、公明党が王と、わかりやすく、区別できます。
 小平 「しかれば……大乗弘めがたかりき」
 会長 結局は、日蓮正宗を弘めていくのは創価学会しかありません。
 そのカを説かれているのです。
 小平 聖人、賢人がいても、智者がいても、国王がいなければ流布できない。ということは、政治家がでて、やらなければいけないのですね。
18  後には必ず流布する
 会長 「或は後には流布すれども始めには必ず大難来る」と、国王が、すなわち、その国の政治家が、仏法を擁護しなければ、順調に流布はされないのです。
 悪王であるならば、聖人、賢人を、すなわち、正法流布の人をいじめる。
 ですから、そこのところは、おもしろいですね。
 「後には流布する」結局は、いい政治家が、かならずいつかは出るということなのです。
 法の威力のゆえに、そうなるのです。
 小平 仏陀すでに仏法を王法に付し給う…。この文を事実行なったのは、迦弐志加王のときであったと。こういう御文ですか。
 会長 迦弐志加王も、仏陀が仏法を王法に付属した、その方程式にあてはまっているのではないかというのです。
 その例として引かれたのです。
 小平 王様によって左右されたという例なのですね。
 その次に発舎密多羅王が、僧の頸を切ったという例がでています。悪い例ですね。
 太宗は賢王だけれども、玄英三蔵をして、法相宗を弘めさせた。
 小平 守護付属について、
 三には守護付嘱、謂く国王檀越等如来一代所有の仏法を時に随い機に随い能く之れを守護し法をして久住せしむる也、浬菜経第三に云く、如来今無上の正法を以て諸王大臣宰相比丘比丘尼優婆塞優婆夷に付嘱す、是の諸の国王及び四部の衆当に諸学人等を勤励して成定憲を増長するを得せしむべし等云云、又浬葉経に云く内に智慧の弟子有って甚深の義を解り外に清浄の檀越有って仏法久住す等云云、比の中に辣雑報は一代及び三時に通ずる也、若し末法に在っては文底深秘の三箇の秘法也、具に依義判文紗に曾て之れを書する如し、故に之れを略するのみ(撰時抄文段富士宗学要集第四巻343㌻)
19  仏法はもともと政教分離
 会長 われわれは、守護付属です。
 小平 よく政教一致、祭政一致ということをいいますけれども、仏教では、僧とわれわれの働く場所をわけて考えていて、王様が即神であるとか、仏であるとか、そういう一致した考えはないということが、守護付属でいえるのですね。
 会長 これは大事なことです。これは、政教一致ではないという明確な論拠になります。御書を拝読しても、経文の上でも、ぜんぶ明瞭にわかれています。
 小平 仏教の場合は、分離しています。キリストの場合には、政教一致が多いようですが。
 仏法の場合は、一致しないで、はじめから、ハッキリ分かれています。
 会長 分かれていますね。.
 小平 有徳王、覚徳比丘の話によっても、分かれていることがわかります。
 会長 有徳王、覚徳比丘は、たしかに、分かれているのです。これは、いまの日蓮正宗と創価学会との関係と、まったく同じです。
20  世法と仏法について
 小平 次の文について
 天晴れぬれば地明かなり法華を識る者は世法を得可きか
 会長 「天晴れぬれば」が仏法で、「地明か」が世法です。「法華を識る者」が御本尊様受持の人であり、「世法を得可きか」が、すなわち政治です。真実の政治を行なうことができると読むのです。
 また、別しては、「法華を識る者」は日蓮大聖人。「世法を得可きか」は、一切法ぜんぶ仏法です。
 「天晴れぬれば地明かなり」とは、妙法を持っている人でなければ、真実の社会の指導者にはなれない。
 「法華を識る者」すなわち、大聖人様の仏法を身口意の三業で実践した者でなければ、世法の指導はできないのです。真実の大指導者とはなりえないということです。
 小平 世法と仏法との関係について
 仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり
 会長 いまは、ようやく顛倒ではないですよ。顛倒しきってしまっています。(笑い)
 すなわち、仏法が体で、世間が影であり、仏法が仏で、世間が王です。これも、王仏冥合を説いている御文です。
 その反対に、王仏不冥合なるがゆえに世の中が素乱しているといえます。
 小平 家庭や会社などにもいえますね。
 家庭なども、仏法を根底にすればよいのに、退転するから、生活がすぐダメになってしまう。
 会長 そうです、そのとおりです。
 確かに信心をやめた人などは、形相が変わってしまいます。生活が乱れていく。
 それで、やることなすことが、捨てばちです。
 信心が進んでいるときは、いっさいの仕事でも、指導でも、ひじょうに元気いっぱいに効果が上がるでしょう。
 それが何となく信心が止まっているときは、原稿を書いても、なかなかのらないし、それから人の言うことを聞かないし、おこってばかりいるし、仕事の方は順序正しく運営できないし同じ方程式です。
 小平 勤行の姿が、ぜんぶ一日の生活を現わしているのですね。
21  会長 そうです。それと同じく、政治の根底に仏法をおけば政治は良くなります。
 いまの政治は何をやっているのかわからない。政治の本義、政治の根本使命というものを見失っています。
 ですから、もういっぺん、ここで声を大にして、大聖哲の理念を教えねばならないのです。
 小平 天台も経文を引いて、世法と仏法についてのべている。
 天台云く「金光明経に云く一切世間所有の善論皆此の経に因る、若し深く世法を識れば即ち是れ仏法なり」
 会長 「一切世間所有の善論」いっさいの良い思想、哲学等は、みな三大秘法の御本尊の中に含まれている。
 「若し深く世法を識れば」ということは、真実の政治、政治家、政治の使命等を探究していけばすなわち、仏法に入ってしまう。
 ですから、アインシュタインにしても、湯川さんにしても、これは世法を識ったわけですがどうしても宗教は必要であるといっています。宗教のない科学はピッコであると。政治も、その根底には、宗教が必要であると言いきれます。
 ある財界の人が、「経済なんていうものは自由に操作できる。大事なのはその根本理念である。それが必要な時代に入った。それがなければ砂上の楼閣だ」といって、慨嘆しておりました。
 小平 ここで「一切世間所有の善論皆比の経に因る」ということは、現在ある一切の思想というものは、ことごとく、大聖人様の仏法に依ってあるのだと、そう確信して、ぜんぶ用いていけばいいのだということですか。
 会長 ちょっと違います。信心根幹として、絶待妙の立ち場で、一切の所有の善論が生かされてくると、理解していきなさい。こう読まなければいけないですね。
 信心根本にして、大聖人様の仏法を根底にして、いっさいの政策はでてくる。政治があるのだと、こう読んでいくことです。
 大政治家になっても、大事なのは、仏法です。仏法を離れた大政治家はありえないということです。したがって、いままでの政治や政治家は迹間であり、仏法根底の政治家は本門の政治家です。
 小平 次の御文も政治と仏法という立ち場から拝せると思いますが。
 一切世間の治生産業は皆実相と相違背いはいせず
 会長 治生産業は政治、それから実相は仏法。王仏冥合です。
22  正法は動乱のときにひろまる
 小平 この文についてはどのように拝したらよいでしょうか。
 妙楽大師云く「仏教の流化実に茲に頼る礼楽前きに馳せて真道後に啓らく」
 会長 このところは、「礼楽前きに馳せ」は、儒教を指していうけれども、これが仏法流布の序分なのです。「真道後に啓らく」が仏法です。
 いっさい仏法を離れた礼楽はありえないし、唯物論もキリスト教も実存主義も、いっさいの経々は、せんぶ、序分、流通分となるというところです。
 また、邪宗の雑草がはえているところを刈りとって、正法をうち立てるという意味にもなります。
 したがって、学会の出現により、戦後もっとも多くの宗教法人があったときからみると、三千以上の宗教法人がなくなったことも、その証拠です。
 小平 「後に啓らく」ということは、礼楽を生かすということですか。
 会長 そのとおりです。
 インドでは、九十六派の外道が出現して、争っており、国の中に動乱がつづいたときに、仏法が現われた。こんどは、中国では、諸国に分裂して対立していたときに、やはり孔子等が出て、先きに礼楽を弘めていった。仏法が弘まる下地をきずいた。そのために、儒教が先きに弘まっているのです。
 孔子の以前も、動乱時代があったわけでしょう。
 小平 ありました。孔子が出たときには、もうすでに七か国に分裂していたのです。
 会長 ですから、かならず聖人の出るときは平静ではないのです。中国でも仏法が渡ったのは後漢の永平十年、西紀六七年といわれていますが、当時は、儒教中心の政治をしいていたが、社会は混乱しており、民衆は苦しんでいたのです。
 キリストが出現したときでも、平静ではなく、独裁主義のひどいときであり、民衆は塗炭の苦しみだったのです。
 ですから、公明党の出現も、日本の政界が戦国時代の時です。
 ちょうど、戸田先生の出現のときが、日本の国の宗教の戦国時代だったのとまったく同じです。それを治めたのですから、公明党の出現も、大きな意義があると言えます。
23  生命の尊厳
 小平 はじめに、生命の尊厳ということがなければ、民主主義は成り立たない、政治の要諦もまず生命の尊厳というところから出発すると思うのですが。
 会長 とうぜんのことですね。政治、経済、教育、文化、等々、近代社会において、合理的な社会機構、経済機構が、大事なことは、きまっている。しかし、機構面のみ重要視して、人間が、その機構の奴隷になってはたまらない。われわれのいっさいの活動は、生命より出発し、生命の幸福に、帰着することが、最大の願いです。生命の尊厳を、あくまでも根本とすべきです。
 いかなる、哲学書や、社会主義や民主主義の理論体系も、みな、民衆の幸福、人類の幸福をめざしていると思う。しかし、ほとんどが、観念論であるか、また、人間性を忘れ、生命を掘りさげていない。したがって明確な結論もなく、満足な解答も与えていないのです。
 しかし、誰人たりとも生命が大事なことは、本能的に狂人でない限り考えています。(笑い)、結論していうならば、その尊厳を、本源的に自覚できうるのは、東洋仏法の真髄である。色心不二の、日蓮大聖人の生命哲学による以外にない、と私どもは主張しているわけです。
 小平 御書にも、各所に、尊厳について説かれておられますね。
 いのちと申す物は一切の財の中に第一の財なり、遍満三千界無有直身命とかれて三千大千世界にてて候財も・いのちには・かへぬ事に候なり
 嗚呼受け難き人界の生をうけ値い難き如来の聖教に値い奉れり一眼の亀の浮木の穴にあへるがごとし
 有情の第一の財は命にすぎず此れを奪う者は必ず三途に堕つ
 会長 各国の、責任ある為政者たちが、権力の奴隷にならずに、真に生命の尊厳に、目覚めた指導、指揮をとってゆけば、戦争は、ありえない。完全軍縮も可能です。現在の哲学思想は、力がなくなっているのです。
 絶対の力がある、大生命哲学を裏づげにする以外に、人類の理想は、成就できえません。
 われわれは愚かであり、力がない。しかし、大聖哲の仏法は、絶対に間違いがない、完全無欠の哲学です。十年二十年先を自覚し、勇敢に戦う以外にない。いな、百年二百年先まで自覚して、前進してゆくのみです。理想社会、仏国土建設までは前進あるのみです。われわれのこの前進は、最大の正義の戦であったことを、後世の歴史家たちが証明することは、明々白々と思いますね。
 小平 科学文明が、進めば、進むほど、生命の問題が大事であると、世界の、心ある学者は、みな考えている……。
 会長 そうです。「三千界に遍満して難詳龍いするもの有ること無し」の御聖訓を、第一義としての前進のみが、世界平和の絶対の要諦です。そこにのみ、慈悲の政治がありうると思います。
 ある学者が、「政治の基調は、権力を核とすることは、当然であるが、政治の本来の使命はできるだけ、権力を遠ざけ、生命尊重、平和、幸福の方向に進まねばならぬ」という意味の論文を書いていましたが、その通りだと思います。
 小平 世間でいう尊厳と、仏法で説く尊厳と、どうちがいますか。
 会長 世間のは現世論。仏法は永遠論。世間は、性善説、性悪説のように、生命観の一端を、漠然と把握して、全部と思っている。仏法は二念三千、濫鞘厨の三身と、その本質、究極まで説きあかしている。
 小平 爾前経などは、応身のみとか、法身のみを説いているわけですね。法華経以外は三身常住は説いていない。
 会長 そうですね。古今東西、幾多の生命論がありますが、冷静に、日蓮大聖人の生命哲理と、相対してみれば、浅探勝劣は、明確にわかります。仏法に説く報身論は、唯心論と、やや共通点を感じさせますね。唯物論は、応身論に近づいていることがうかがえます。
 小平 谷口雅春が、「生命の実相」とかを出して、売っていますね。(笑い)
 会長 まるで、小説屋の作文、(笑い)子供だましですよ。(笑い)
 小平 あっち、こっちから、法を盗用して、(笑い)鳩山一郎などが、傾倒していたとか。
 会長 一国の総理も、生命観はおそまつですね。(笑い)
 小平 キリスト教民主主義では、自由、平等、博愛とたてていますね。
 会長 しかし、自由、平等、尊厳のほうが、はるかに深い定義です。仏法民主主義は、実に深い哲理に根ざしているのです。
 小平 人民民主主義は、平等しかない。
 会長 一般的には、民主主義の原理は、自由、平等、主権在民、革命の権利などであるといわれています。
 小平 尊厳については、カントなどが、よく説いていますね。
 会長 カントは、人間はたんなる手段ではなく、目的であり、世界の内なる他のいっさいのものは、それ自身の価値をもつものだ。人間のみは、人格として価値を持っている。この人格の内なる人間性の尊重の価値感情が尊厳であると、定義づけています。
 パスカルは、人間の尊厳は、考えること、自己の状態を知ることにあると、いっていますね。わかったような、わからないような……。(笑い)
 小平 そうはいってみても、いったい何を考えるのか。いかなる状態の自己を知ることなのか。結局は観念論ですね。
 会長 生命を論ずるには一念三千が根本となる、そうして自己の生命に十界の状態をみる。その方法は、大御本尊の鏡に照らされるよりほかはない。
 小平 御書は、通じて、生命の尊厳論ですね。
 会長 そうです。「自体顕照」とは最高の自己の生命の働きです。立派に生活に生きた、現実の、尊厳なる生命の働きを指している。「己心と仏身と一なりと観ずれば速に仏に成るなり」と。また、「一切の諸仏己心は仏心と異ならずと観じ給うに由るが故に仏に成ることを得、比を観心と云う」と。みな、具体的に、生命の尊厳論に解答を与えてくれています。
 小平 四菩薩の四徳も尊厳論ですね。
 会長 生命の尊厳論の根本です。「輔正記の九に云く「経に四導師有りとは今四徳を表す上行は我を表し無辺行は常を表し浄行は浄を表し安立行は楽を表す、有る時には一人に此の四義を具す二死の表に出づるを上行と名け断常だんじょうの際をゆるを無辺行と称し五住の垢累ごじゅうのくるいを超ゆる故に浄行と名け道樹にして徳まどかなり故に安立行と曰うなり」と今日蓮等の類南無妙法蓮華経と唱え奉る者は皆地涌の流類なり」と。
 ゆえに、妙法受持の者こそ、四菩薩の四徳を表し常楽我浄の人生を生きているとの御文となるわけです。これが、尊厳の最高のものではありませんか。
 小平 過去において、尊厳の思想、すなわち宗教を根底にした政治を行なって、成功、繁栄した国は、やはり、イギリスでしょうか。
 会長 そう思います。多田君が話していましたが、イギリスのある学者が、終戦後書いた本に民主主義の根本は、生命の尊厳ということである。イギリスと、日本の明治時代の政治状態を比べてみた場合、イギリスも長い間独裁政治であったし、日本も長く幕府政治を行なって来た。明治に入って、イギリスより一歩おくれて、日本も同じく、立憲君主国家になった。
 しかし、まったく、日本には民主主義は発達しなかった。両国ともに、それ以前は、同じく絶対主義国家であったことにかわりはない。その原因は、日本には、偉大なる宗教がなかったというのです。イギリスは、生きた、民衆に根ざした宗教をもち、生命の尊厳が根本になって民主主義の発達があったと、論じているわけです。
 結局、日本では、儒教のような、低い思想が、政治理念となったり、念仏等の宗教が、御用宗教となって、政治の道具にされていた。そのために、生命の尊厳とか、個人の尊重とか、民主主義とかが、発展しなかったと、結論されていると。……
24  永遠の生命観と尊厳観
 小平 大聖人の仏法、釈迦仏法、キリスト教の生命尊厳の相違は?
 会長 大聖人の生命論は、無始無終。これ以上に完成された生命論は、永久にない。常不軽品の、御義口伝を拝しただけでも、「常の字は三世の不軽の事なり、不軽とは一切衆生の内証所具の三因仏性を指すなり仏性とは法性なり法性とは妙法蓮華経なり云云」と。内証所具の三因仏性こそ尊厳となるわけです。その湧現体得が信仰の実践となります。その信心の対境の本尊が、もっとも大事になるわけですね。
 また、得大勢菩薩の事の御義口伝も、「得とは応身なり大とは法身なり勢とは報身なり、又得とは仮諦なり大とは中道なり勢とは空諦なり円融の三諦三身なり」と説かれております通り三身常住が大聖人の生命の尊厳論といえます。
 釈迦仏法は、己心の永遠の生命観。五百塵点劫の生命論では、有始有終です。完全無欠の生命の尊厳とは、いいきれない。
 キリスト教では、霊魂不滅説、観念論です。因果の法則を説いていない。本因、本果、本国土が、明かされていなければ、真実の生命の本質論とはならない。仏法にくらべて、非常に低いわけです。開目抄にも「此等の賢聖の人人は聖人なりといえども過去を・しらざること凡夫の背を見ず・未来を・かがみざること盲人の前をみざるがごとし」云云と説かれています。
 しかし、キリスト教の思想を根底とした民主主義でも、今日まで、りっぱな文明を築きあげて来た。しかしいまは、人民民主主義にクサビを打たれ、互いに勝負をしているわけです。また、今ここに、両者が、仏法民主主義に、クサビを打たれたかっこうですね。
 小平 永遠の生命観がなくては、生命の尊厳はない、と考えてさしつかえないでしょうか。
 会長 結論は、そのとおりと思います。時間的に拡大して考えれば、生命は永遠である。縮少していけば一瞬の存在であるが、その生命が尊厳なる実在です。
 当体義抄に「正直に方便を捨て但法華経を信じ南無妙法蓮華経と唱うる人は煩悩業・苦の三道・法身・般若・解脱の三徳と転じて三観・三諦・即一心に顕われ其の人の所住の処は常寂光土なり」とは、真実の中の真実ともいうべき尊厳論です。
 「能居所居。身土・色心・倶体倶用・無作三身の本門寿量の当体蓮華の仏とは日蓮が弟子檀那等の中の事なり」とは、真実の永遠論と考えられます。
 小平 御本尊を拝んでいない人は、毎日尊厳な生活を送っていないわけですね。(笑い)
 会長 そう。毎日の新聞をみればわかります。(笑い)
 小平 尊厳どころか、泥だらけ、色心共に。(笑い)
 会長 修羅界、畜生界、よくて天上界です。仏界を湧現してゆく以外に尊厳はありません。
25  平等について
 小平 尊厳が確立すれば、平等ということが論じられるわけで、その確立なくしては、自由も平等もありえないと思いますが。
 会長 そのとおりです。
 尊厳は、自我の問題ですし、個人確立の範疇です。平等は、一般論としては、身分、財産、基本的人権など、人間と人間との間に、価値の相違はないと論じられます。したがって、仏法では、尊厳は、五陰世間、平等は、衆生世間に、わけて考えることができます。
 小平 一般にいわれている、平等と、仏法に説く平等とは、おのずから違うと思いますが。
 会長 一般社会にいう平等は、依報の立ち場、仏法は正報の立ち場。したがって仏法は、あくまで民主主義の根本原理です。妙法を受持することによって、老若男女を問わず、悪人も善人もー人ももれなく、成仏することができる。絶対に平等の大哲理です。依正不二になって、理想的平等が確立される。
 ゆえに、仏の慈悲は平等です。法華経には「平等大慧」と。この妙法を信じ、実践するならば、いかなる宿命も打開でき、生きる幸福を与えきっていく。これほど大切な原動力はない、エンジンはないわけです。その上に、民主主義の理想たる、社会上の、平等、自由が、成立、運営、完成されるわけです。
 小平 その根本原理なしに、どれほど制度、法律をかえても、平等はありえないと思いますね。
 会長 幾次元もの宿命の差異を、みな背負っている。それが個人差、民族差、国土差、貧富の差等々、限りない差別となっています。
 小平 かりに、徹底した共産主義社会になって、物を平等に分け与えることができても、個人個人の受ける価値には差別があると思いますが。
 会長 そこで、平等の価値を創造し、一人残らず、最高の幸福を獲得することが究極の理想です。プラトンやアリストテレスは、根本的には、身分、財産等における平等は、ありうると考えようとしていた。
 キリスト教思想では、一人一人が神につながるという教えから、本質的には、人格の平等といわれている。だが、これも、生活上の人間と人間との上の平等観とは、意味が違う。
 小平 平等についての御文も、たくさんあります。
 たとひ何なる賢人聖人も人に生るるならひは皆あかはだかなり
 華経を持つ男女の・すがたより外には宝塔なきなり、若し然れば貴賤上下をえらばず南無妙法蓮華経と・となうるものは我が身宝塔にして我が身又多宝如来なり
 末法にして妙法蓮華経の五字を弘めん者は男女はきらふべからず、皆地涌の菩薩の出現に非ずんば唱へがたき題目なり
 凡此の経は悪人・女人・二乗・闡提を簡ばず故に皆成仏道とも云ひ又平等大慧とも云う
 凡そ妙法蓮華経とは我等衆生の仏性と梵王・帝釈等の仏性と舎利弗・目連等の仏性と文殊・弥勒等の仏性と三世の諸仏のさとりの妙法と一体不二なる理を妙法蓮華経と名けたるなり
 問うて云く法華経の第一方便品に云く「諸法実相乃至本末究竟等」云云、此の経文の意如何、答えて云く下地獄より上仏界までの十界の依正の当体・ことごとく一法ものこさず妙法蓮華経のすがたなりと云ふ経文なり
 如来爾の時に、便ち是の念を作さく、我無量無辺の智慧、力、無畏等の諸仏の法蔵有り。是れ我が子なり。等しく大乗を与うべし。人として独り滅度を得ること有らしめじ、皆如来の滅度を以って之を滅度せん(法華経譬喩品220㌻)
 会長 仏法では、遠くは、三千年前、近くは、七百年前、民主主義思想、男女平等論が叫ばれていたわけです。しかるに、現代ですら、民主主義の確立もなければ、また、本当の定義が、くだされていない。
 いつだか、理事長のところに、宗教評論家が来て、学会のみる、民主主義とは、どうなのですかと。理事長があなたは定義をどうきめているのですかと反問したら、だまって、赤い顔をして、では、次の問題をお願いします。(笑い)自分に定見なく、人のあげ足のみ取って、生活をしている、あわれさです。
 日本の国は、とうぜんながら、これから全世界に向かって、真実の民主主義の定義を教え、またその確立をなす大思想は、大聖人の生命哲学なりと、強く強く確信をもって断言しながら、前進をしていきましょう。
 小平 平等ということは、おもに社会制度、政治制度の上で問題になると思うのですが、会社には社長と社員があり、国には統治者と被統治者があり、家庭には親と子の区別があるのは当然であって、そういうものを、なんでもかんでも平等に扱うという意味ではないと思います。
 会長 そうですね。インスタント民主論者は、なんでも、かんでも、平等とわめく。(笑い)
 小平 終戦後、社長も、新入社員も、給料を同じにしろと。(笑い)
 会長 自由、平等を叫んで革命を起こす。しかし、多数の生命をうばうこと自体、不平等ですね。どうしても、無血革命でなければならない。
 小平 民主主義を自己の有利に利用するのが多すぎます。
 権利のみ主張して、義務を忘れる不平分子の、材料にされがちです。そうであっては、りっぱな民主国家はできない。政治家自身が、一世紀遅れた頭で、民主主義の世界に、うろうろしているのですから。(笑い)
 会長 ある学者は「政治屋は、つぎの選挙のことを考え、政治家は、つぎの世代のことを考える」と。(笑い)真の政治家であるならば、平等の原理たる大思想は何かと、真剣に、求めるべきです。ところがこれだけの乱世に、秩序ある学会の大行進を知りながら、かえって怨嫉をしているだけである。やっぱり、期待するのは公明党と、その議員です。
 ロでは、りっぱそうに、自由、平等を叫びながら、身は自己の勢力、利害に終始している政治屋の小人物なることを悲しく思います。
 小平 平等ということが理想であるけれども、そこにはやはり宿命というものがあって、白人と黒人とか、あるいは、統治者と被統治者とか、その他の差別がある。そういうことを、仏法の上から、十界互具二念三千を確立した上から、平等というものを考ええていかなければ、ただ政治的に頭から平等を押しっけようとしても、できないと思いますが。
 会長 内外相応しなければ目的は達成されません。内とは、仏法哲理により、人間革命、人格完成、即身成仏をすることで、すなわちこれ仏法。外とは、社会革命、政治革命により、制度の改革をする、すなわちこれ王法です。王仏冥合の達成、樹立のみが、これを完成しきる、唯今までの宗教は、ことごとく、内面のみで、社会、生活と遊離してしまった。政治は、機構制度のみにとらわれ、人間性の確立や探究を、おきわすれてしまった。政治と宗教との関係について、巷間では、とやかくいっているが、浅薄な、なさけないような批判にすぎない。批判が正しいか、学会が正しいか、それは歴史が、りっばに解決するでしょう。しかし一方では、すでに、見識ある、勇気ある人々は、学会の行き方が正しいと、きちんと思っていますから。
 小平 いま、国連では、民族の平等というのが、権利的に一応は実現しているようですが、個人個人の感情としては、平等観がない。
 会長 アメリカの、黒人問題だけみても、わかりますね。政治理論などで形ばかりの平等をおしつけようとしても、無理が生ずる。最大要件は、平等思想を、本源的に、自覚せしむることですね。
26  自由について
 小平 自由というのは、フランス革命の場合などは、はじめ、「言論の自由」とか「集会の自由」とか主張しています。そういうところから来ているわけですね。そう思います。近代民主主義の基調は、言論の自由、集会の自由、信教の自由等々が、とうぜん時代の要求だったわけです。仏法の上の自由は、さらに本源的な自由論です。結論すれば、仏の境渡です。また、生命力豊かに、大福運にみちみちて、この一生を、衆生所遊楽しきっていく。日本ほど、自由な国はないでしょうね。
 会長 そうですね。だけど、不幸な人々は、たくさんいます。不幸な宿命の人が多い。
 小平 制度の上で、自由であっても、やはり苦悩にしぼられてしまう。
 会長 煩悩即菩提というひとりひとりの幸福が確立されなくてはなりません。
 小平 自由と放縦とを間違えて、とんでもないことをすると、一生を、だいなしにしてしまう。
 会長 いままでの自由主義や民主主義の理念では、どうしても行きづまります。その結果は各方面に矛盾となって現われてくる。つまり裏づげの哲学の、不完全によるわけです。カントも「汝の自由によって、制限されていることを忘れてはならない」といっています。またある学者は「一つの規制があって、はじめて自由はある。規則のない自由は、放縦である」とのべている。とうせんの道理です。
 小平 自由だからといって、生徒が学校に行かなくてもいい(笑い)、朝寝坊しても勝手だ(笑い)などということはできません。
 会長 戸田先生が、笑いながら、我儘な坊ちゃんに「お前がそんなに自由、自由というなら、俺が生んだものだから、俺が自由にしてもいいか」などと、息子さんのことについていってましたね。
 われわれの、信仰で得る自由は、自由無擬です。生命は、所詮は主観。外面的には、一往みえなくとも、実に幸福な人がある。また、外面的には、社会的には、りっぱそうであるが、非常に悩み、不幸な人がいる。政治家や、俳優なんか、花やかであるが、権勢欲、人気、有名欲などにしぼりつけられて、たいへん不幸な場合が考えられますね。
 戸田先生は、よく、自由に、責任をもって、人生を生きよ。しかし、決して、他人に迷惑をかけてはならぬ、と指導してくれました。
 小平 自由についての御書は
 一切の法は皆是れ仏法なりと知りぬれば教訓す可き善知識も入る可らず思うと思い言うと言い為すと為しふるまいとふるまう行住坐臥の四威儀の所作は皆仏の御心と和合して一体なれば過も無く障りも無き自在の身と成る此れを自行と云う
 会長 裟婆とは、勘忍と訳す。勘忍とは、今の社会です。かならず誰人たりとも、生活の上で、何らかの、拘束障害があるという意味です。
 したがって、仏をば、能忍という。いま、自由のもつ、基礎的条件は、現実の行動において外的な拘束、障害がないと、きめるところに成立するのです。しかし、その拘束、障害等がある、ないと決定するのは、内部の意識ですから、境涯が、まず大事になります。御本尊は、三世に通じ、宇宙大の、仏の生命の縮図です。
 ゆえに、信心によって、偉大なる境涯を得、その人々によって民主主義の土壌を作るのが、仏法民主主義といえる。文化生活、幸福生活のため、外部の拘束を、最大限に除くのが「王」、内面の業因を、根本的、究極的に除くのが「仏」。王仏冥合の必然性を、よくよく考えなければなりません。
 小平 自由について、天野貞祐氏が「束縛のないことだ」と言っています。そして外部的束縛と内部的束縛にわけて、外部的束縛とは、環境などであると、内部的束縛とは、いわゆる欲望である、我欲であると言っているのですが、それに対して「克己」ぐらいしか説いていないのですが……。
 会長 克己は、苦しい。行き詰まってしまう。仏法は、随自意です。随自意とは、信念。その信念も、人を救いきっていく、社会に価値創造を与える、そうしながら、自己も楽しみきって、わが道を、悠々と生ききっていくことです。
 小平 大聖人様は、鎌倉幕府の政治的な権力、あるいは国家というものに対しては、「身は従えられても、心は従えられない」と言われましたね。
 会長 このような境涯に、私どもも、ならねばならないのです。宇宙全体が、仏様のものです。北条幕府が、日本の権力を握って大聖人を、迫害するなど、生意気です。(笑い)
 小平 佐渡御書に「善戒を笑へば国土の民となり王難に遇ふ」ということがありますけれども、やはりそういう束縛のある国土に生まれるというのは、善戒を笑った結果でしょうね。
 会長 因果の理法はきびしい。正法は、生命科学です。われわれは、非科学性、非論理性を、もっともきらうのです。学会に、青年の多いのも、この仏法の正確さを、証明します。
 結局、この複雑窮まりない生命問題を解決しない限り、いかなる民主主義国家といえども砂上の楼閣です。
 小平 大聖人の仏法における根本的自由、それから論語の「心の欲するところに従ってのりえず」という少し低級な自由、それから日本の現在にみられるはきちがえた自由、また共産主義で言っているような自由、これらは相当差別があると思いますが。この点について。
 会長 どうしても、その人のもつ思想、哲学、理念によって、大なり小なり、決定されてしまうでしょうね。その人の持つ個性、技術も、多分には、ありますが。大聖人の生命論では、生命の現象、数量を、数学的に、三千に説いています。天上界、すなわち幸福論も、大別して、三十三数に明かしている。いわんや、自由論も、最高であるわけです。結局、最大な自由主義の大理念を根底にした為政者にして、初めて、理想的な、平等、自由の社会、世界が創造されるのです。
 小平 いままでの、自由運動は、圧制への反発……。
 会長 ルイ十六世やツアーらの暴政に対する、悲愴な叫びから、行動を起こした。しかし、自由を勝ちとった今日、真の自由があるかといえば、そうともいえない。自由諸国は、共産勢力のある限り、自由とはいいきれない。共産圏諸国もまた同じです。
 また、人間の欲望は限りない。どこまでいったら、はたして、自由があるかなかなかむずかしい問題です。あるアメリカの小説家が、まったく自由になったら、お能の面のようになって生きる歓びがなくなってしまうといっています。
 小平 北欧諸国は、早く社会保障が徹底された。しかし、自殺者が多い。文化の発達、生活水準の向上が、かえって、人間を怠惰にしてしまう場合もあるわけですね。
 会長 結局は、正法の研究はもちろんのこと、今や初代牧口会長の、利善美の価値論を、世の指導者たちが学ばなくてはならない時が来ているのです。
 小平 それでは、今までに説く民主主義と仏法民主主義との関係、相違は。
 会長 さきほどから話したとおり、キリスト教民主主義、人民民主主義等は、社会、経済機構のみに、重点がかかってしまった。仏法は、人間復興、すなわち、生命の浄化、自由自在の、事の一念三千の生命の確立を、根底におきます。それが、人間性。その上にたって、社会機構の改革、合理化をはかる。これが新社会主義です。
 具体的内容は、公明党の政策に、るる述べられているとおりです。社会現象は、常に変化の連続です。恒久性がありません。その社会を動かして、繁栄ある社会に進む、根本的ともいうべき、人間を、確立することが急務です。人間性社会主義、仏法民主主義の主張の柱は、ここにあると思います。
27  法が中心
 小平 民主主義の原則は、法を中心としなくてはならないと思いますが。
 会長 当然のことです。法といっても、さまざまです。悪法は、いけない。書法でなくては。大別すれば、世間法、国法、仏法。世間法は、慣習法。国法は、社会規制の法律。仏法は因果の法。
 小平 法律は、各国により、また時代でかわっておりますね。
 会長 時代により、コペルニクス的転回のようにかわる、といった法律学者がおりました。民主主義の原則は、法治国家でなくてはならない。日本の憲法の第十条(国民の要件)日本国民たる要件は、法律でこれを定めると。人間のつくった法律を、人間が運営していくことは、なかなか、むずかしい。
 小平 解釈がまちまち。まっ先に第九条など。(笑い)
 会長 個人、民族、人類に、普遍妥当性の、根本法が必要です。これなくしては、安泰の平和社会は、できるわけがない。
 小平 根本法は、南無妙法蓮華経しか絶対にない。大聖人も、一間浮提の大仏法とおおせです。この法を、民族、世界の根底、骨髄の法としてゆけば、平和は早い。
 会長 そのとおりです。妙法こそ、永久不変の大法則です。共産主義の法では、資本家たちは救えない。キリスト教の法では、信じない者はこれまた永久に救えない、信ずる者だけが幸いだから。大聖人の仏法は、順逆ともに救済できうる。
 小平 法が大事なことは、当然ながら、観心本尊抄の原理によれば、法といっても、詮ずるところ、また人が大事になる。人法一箇でなくてはならない。
 会長 大聖人の仏法を、自覚してゆけば、法治国家は、理想的に、運営される。仏法の実践があれば、楽にできうるのです。
 小平 政策なども、一種の法ですね。
 会長 そうなるでしょう。ぼた餅の画のような法。(笑い)
 これからの、政治家は政策そのもののみを最上の看板にするだけではなく、いかなる政策、主義、主張をも、勇敢に実行しうる人でなくてはならぬ。公約した政策(法)を、かならず、責任と、誠実と、精魂とを、傾けて、実現してゆく政治家でなくてはならない。これこそ、人法一箇の具現です。
 小平 「法妙なるが故に大貴し」の原則ですね。「人貫きが故に所尊し」で、初めて、良い社会の実現が、できうるとの、方程式ですね。
 会長 法を中心としている御書、御文は。
 小平 法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し
 伝教大師の云く「国主の制に非ざれば以て遵行じゅんぎょうする無く法王の教に非ざれば以て信受すること無けん」
 一、身軽法重の行者に於ては下劣の法師為りと雖も当如敬仏の道理に任せて信敬を致す可き事。
 一、弘通の法師に於ては下輩為りと雖も老僧の思を為す可き事。
 一、下劣の者為りと雖も我より智勝れたる者をば仰いで師匠とす可き事。
 一、時の貫首為りと雖も仏法に相違して己義を構えば之を用う可からざる事。
 一、衆議為りと雖も仏法に相違有らば貫首之を摧く可き事。
 会長 仏法はあっても、正しく伝持、実践してゆく人が大事になります。平和憲法が、いかにりっばでも、その法を、国民一人一人が、自分のものとして、勇敢に、実践してゆかねばならない。
 小平 憲法を、よく知っているのは、全国民の二腎以下だといっていた人がありました。
 会長 すでに、国民と遊離しています。それで、一方では、違憲だ、改憲だとさわいでいる。(笑い)
 小平 日蓮大聖人の大仏法は、すでに二千万以上の人々が理解し、功徳をうげ、謹啓はげんでいる。日本の指導階層の猛省が必要です。国民の上にあぐらをかいている。その証拠として憲法が国民に浸透していない。
 会長 結局、日本の国に、日本の政治家に、政治理念がないのが、最大欠陥ですね。大生命哲学を、政治理念として、公明党が、活躍をはじめれば、大衆はよろこび、政界は、新潟地震のようにあわてている。(笑い)
28  法の独裁とは
 小平 前に、法の独裁ということを、聞きましたが。
 会長 一国の憲法は、独裁的位置です。司法の社会では、刑法は、独裁のカをもつ。資本主義体制では、商法が、学校運営では、学校法大法が、宗教の世界では、一往は、宗教法人法等のごとく、考えていけます。交通には、交通法。いかなる世界でも、かならず法が優先して、社会活動の秩序をもたらしている。
 小平 仏法では、経中の経王である法華経、三大秘法の大御本尊が、独裁となる。
 会長 文証、理証、現証の上から、大御本尊は、全宇宙の大王であり、独裁です。いままでの独裁者のあり方は、自分勝手の振舞いです。あくまでも、法を中心にして、その法のもとに、議会、社会の運営をなすことが、民主主義のルールです。法が、独裁であることは、一向にさしつかえないのです。
 小平 二十六箇条は、日蓮正宗にとっては、もちろん、あらゆる社会の、民主主義の根本を示されていると考えられます。
 会長 そうですね。
 一、「身軽法重の行者」とは、仏法を指すことは、とうぜんですが、所詮、最高の主義のため、また、社会の法のため、勇敢に実践しきる者は、尊敬すべきであると。
 一、「弘通の法師」とは、折伏行、王仏冥合へ、戦いきってゆく者は、組員であれ、組長であれ、誰よりも偉く、大事にしなくてはならぬ。
 あらゆる、社会にあって、よくよく考えねばならぬ。組織上の地位や、肩書などで評価するならば、りっぱな民主主義は、なりたたない。
 一、「下劣の者為りと雖も」とは、学歴がなく、組織的に下積みであっても、智慧勝れ、力あり、国のため、民衆のために活躍している者は、師匠とすべきである。
 これこそ、現在の不幸の癌である学閥、派閥等を解決してゆく根本であり、民主主義の方程式といわざるをえない。
 一、「時の貫主為りと雖も」とは、その中心者は、いくら、権威をもっていても、自己の利益や感情等で、根本法に従っていなければ、用いてはならない。誰人も、用いる必要はない。
 学会でいえば、いくら会長の指導、指示だからといっても、仏法に相違し、自己の利害のみを考えての指導であれば、誰人も、聞く必要はないという、じつに厳しい御金言です。
 以下、いかなる幹部であっても、後輩はまた聞く必要はないわけです。皆よくよく注意しましょう。(笑い)
 いかなる社会も、これでゆけばよい。これが民主主義です。
 国民のひとりひとりが、この強い確信で進めば、強いのです。一、「衆議為りと雖も」とは、いくら、宗会の議決だ、重役会議、総会の議決だ、議院、議院の議決だといっても、最高の目的に違っていれば、時の最高責任者は、これを、採用する必要はない、敷衍的にたとえていえば。
 学会においても、理事会、大幹部会、その他、たくさんの議決機関がありますが、それが、根本法にそってなく、各々の名聞名利のみであれば、私は聞く必要ない。(笑い)
 いくら会員が、いわんや信心ない人が批判し、うまいことを言っても、御書に照らし、みなのいうことが違っていれば、絶対に、従い聞く必要はない。(笑い)
 社会の責任者たちは、この信念でゆくべきです。いまは、ひとたび、金の問題になったら、大変な、かわりようだ。
 小平 だから、いつまで、たっても、政治家たちは、国民に、馬鹿にされてしまう。(笑い)
29  広宣流布は必ず実現する
 小平 仏の予言は、いままで、はずれたことはありませんね。
 会長 池田総理の所得倍増などは、完全にはずれた。(笑い)天気予報も、よくはずれる。(笑い)
 小平 今までの聖人賢人の予言も、当分には、当たり、跨節では、全部、まずいと思います。
 会長 凡夫と仏との根本的な違いです。いわんや、何千年先、何万年先は、到底わかるものではない。三世を通暁した、仏以外には、わかるわけがないのです。
 小平 広宣流布実現の予言書は、数多くあります。最初に
 日蓮一人はじめは南無妙法蓮華経と唱へしが、二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし、是あに地涌の義に非ずや、剰へ広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし
 会長 現在の、学会の発展は、この証拠です。日本一同に云云とは、王仏冥合の達成のこと。いつかは、かならずできるのだから、あわてることはないのです。(笑い)だが、われわれの手でできるとは、光栄この上ないことです。
 小平 いま、われわれがやらねば、後世、誰かがかならずやる……。
 会長 そうなります。時はいまです。
 小平 諸条件からみて、そう思いますね。次に
 梵天・帝釈等の御計として日本国・一時に信ずる事あるべし、爾時我も本より信じたり信じたりと申す人こそおほくをはせずらんめとおぼえ候について。
 会長 梵天・帝釈とは、御仏意。二往は指導階層および、主権在民のゆえに、民衆ともいえるでしょう。再往は、妙法受持の権力者。結局、公明党の議員となる。「一時に信ずることあるべし」とは、化儀の広宣流布。二十年を目標に、全力を尽くして、頑張るべきです。あとは、御仏意におまかせすればよい。
 小平 「我も本より信じたり」のところは、再建、建設当時は、要領よく、弱く逃げていた。だが、いざ広宣流布となると、はじめから信心していたような顔をする(笑い)その時に、後悔するなと。(笑い)
 会長 そうです。今日でも、同じようなことは、いえます。最初に、参院選に三名落ちた時退転した人がいた。いま後悔して、もどって来ている。(笑い)新聞で批判された。すぐ退転してしまう。あとで、後悔しないでもらいたいですね。(笑い)
 小平 そういう人は、どこへいってもつかいものにならない。(笑い)次に法華経の大白法の日本国並びに一閻浮提に広宣流布せん事も疑うべからざるか
 会長 法華経の大目法は、三大秘法の大御本尊は、日本国の広布のみでなく、全世界にかならず広宣流布するという予言書です。すでに、海外にも、数万世帯の学会人がいる。りっばに、成長して、もらいたいです。
 小平 そうですね。南米。北米に本部ができ、ヨーロッパ東南アジアにもできた。豪州にも、支部が誕生したことは、世界広布の序幕が、おとされたことになりますね。
 会長 キリスト教さえ、全世界の過半数まで流布した。共産主義もおなじ。大白法が流布されないわけがない。広まっていくと、学会は宗教で、世界を征服するのではないかとか、日本だけのときは、選挙のためにやるのではないか(笑い)とか、いろいろと、批判してくる。広まらぬ宗教は、努力してないのか、すでに力がないのか、民衆から捨てられているのか、よくよく考えるべきです。(笑い)男が、やきもちなんかやいて、なんの、指導者といえますか。
 小平 選挙もおなじですね。宗教独裁、一党独裁をねらっているとか、(笑い)まったく、子供のようですね。いままで、自分達が、保守独裁、万年野党をしていながら、(笑い)学会の大行進にうろたえた姿は、満都千万です。(笑い)
 会長 騙る平家、久しからずが、学会によって、決定されてきた。どこの政党だって、第一党になりたいのは、あたりまえではないですか。(笑い)また、学会人が多数になってきた。するとあわれな根性曲りは、多数のカをかりて布教しているなどと、(笑い)批判している。これこそ民衆の力であり、声であり、民主主義ではないか。
 小平 まだまだ、広布実現の御書はたくさんあります。
 日蓮が法華経を信じ始めしは日本国には一たい・一微塵のごとし、法華経を二人・三人・十人・百千万億人・唱え伝うるほどならば妙覚の須弥山ともなり大涅槃の大海ともなるべし
 国土乱れて後に上行等の聖人出現し本門の三つの法門之を建立し一四天・四海一同に妙法蓮華経の広宣流布疑い無からん者か
 月は西より出でて東を照し日は東より出でて西を照す仏法も又以て是くの如し正像には西より東に向い末法には東より西に往く
 大事には小瑞なし、大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし
 戒壇とは王法仏法に冥じ仏法王法に合して王臣一同に本門の三秘密の法を持ちて有徳王・覚徳比丘の其の乃往を末法濁悪の未来に移さん時勅宣並に御教書を申し下して霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か時を待つ可きのみ事の戒法と申すは是なり、三国並に一閻浮提の人・懺悔滅罪の戒法のみならず大梵天王・帝釈等も来下してふみ給うべき戒壇なり
 日本・乃至漢土・月氏・一閻浮提に人ごとに有智無智をきらはず一同に他事をすてて南無妙法蓮華経と唱うべし
 天竺国をば月氏国と申すは仏の出現し給うべき名なり、扶桑国ふそうこくをば日本国と申すあに聖人出で給わざらむ、月は西より東に向へり月氏の仏法の東へ流るべき相なり、日は東より出づ日本の仏法の月氏へかへるべき瑞相なり、月は光あきらかならず在世は但八年なり、日は光明・月にまされり五五百歳の長き闇を照すべき瑞相なり
 会長 すでに上潮です、学会は。いかなるものが、抗しても、時代の潮流に反する、むだな努力になりますね。
30  国土平和論
 会長 最後に、自由、平等、尊厳の、民主主義ができても、地震ばかりあったり、(笑い)洪水ばかりあったり(笑い)しては、なんにもならない。人災は、政治でもふせげる。天災は、防げない。ここに、大宗教の絶対必要性が存するわけです。
 小平 大宇宙の法則に、合致せしむる、妙法の根本法が、どうしても、なくてはならない。
 人間のつくった法律だけでは、どうにもならないものがありますね。
 大きくいえば、天災、小さくいえば、各人各人の、宿命。
 会長 妙法は、根本法、大綱法ともいえる。国法、社会の法は、網目。宇宙の根本の、一端、一端の法則を、それぞれ顕現、成文したものが、法律とならねばならない。
 小平 国土平和論の御文は、有名な、
 天下万民・諸乗一仏乗と成つて妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨つちくれを砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり
 仏法流布のみぎりには天下静謐なり神明仰崇ぎょうその界には国土豊饒ぶにょうなり
 会長 中国古代の、理想平和社会を、お引きになっているわけです。泥棒なんかひとりもいなかった。(笑い)
 小平 デンマークなども、いないそうですね。
 会長 最近は、いるように聞いている。(笑い)
 小平 こちらは、だんだん良くなってくるのに、模範のデンマークは、悪くなってくると…。(笑い)
 会長 伏義、神農時代より、幾千万倍も、根性も悪く、機構も複雑、知識も進んでいるから、彼らの時代の、幾千万倍もの、力ある哲学と、政治とが、必要なわけです。
 小平 結局、王仏冥合のカしかない。
 会長 生命の尊厳・自由は五陰世間、平等は衆生世間、最後に、国土世間の安穏、安泰となるわけです。これで、初めて、新社会、大衆福祉国家、仏法民主主義が、完成されるわけです。
 仏法民主主義の裏づけがあってこそ、いまの平和憲法もいかされる。世界の範となって、指導憲法といえると思う。
 小平 そうでなければ、美辞麗句におわってしまいますね。
 会長 せっかく勝ちとった憲法にうたう、法のもとの平等、個人の尊厳と両性の平等。また思想、良心の自由、信教、集会、結社、表現の自由、学問の自由も、永久に、生かされてくる。
 小平 保守党は、改憲をねらっている。社会党は、自党の憲法を、草案してきた。共産党も、過去に、独自の憲法をもくろんで、識者の猛反対をうけた。じつにずるい。
 会長 妙法流布、妙法根底に進めば、いきづまりは、決してない。われわれこそ、最高に崇高な、いき方をしているのです。
 小平 公明党結成について、世間では、まだあまり、騒いでいないようですが。
 会長 衆議院に、出てからでしょうね。将来は、たいへんでしょう。みな、しっかり勉強して、世界の大政治家に育っていただきたい。民衆から、信頼され、尊敬される、指導者になっていただきたい。
 司会 どうもありがとうございました。

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