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日蓮大聖人・池田大作

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唱法華題目抄  (8/16) 国を損じ人を悪道にをとす者は悪知識に過ぎた…
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等・法華経を知り極めたる由をいふに因縁・譬喩をもて釈しよくよく知る由を人にしられて然して後には此の経のいみじき故に末代の機のおろかなる者及ばざる由をのべ強き弓重き鎧かひなき人の用にたたざる由を申せば無智の道俗さもと思いて実には叶うまじき権教に心を移して僅かに法華経に結縁しぬるをも飜えし又人の法華経を行ずるをも随喜せざる故に師弟倶に謗法の者となる。

之れに依つて謗法の衆生国中に充満して適仏事をいとなみ法華経を供養し追善を修するにも念仏等を行ずる謗法の邪師の僧来て法華経は末代の機に叶い難き由を示す、故に施主も其の説を実と信じてある間訪るる過去の父母夫婦兄弟等は弥地獄の苦を増し孝子は不孝謗法の者となり聴聞の諸人は邪法を随喜し悪魔の眷属となる、日本国中の諸人は仏法を行ずるに似て仏法を行ぜず適・仏法を知る智者は国の人に捨てられ守護の善神は法味をなめざる故に威光を失ひ利生を止此の国をすて他方に去り給い、悪鬼は便りを得て国中に入り替り大地を動かし悪風を興し一天を悩し五穀を損ず故に飢渇出来し人の五根には鬼神入つて精気を奪ふ是を疫病と名く一切の諸人善心無く多分は悪道に堕つることひとへに悪知識の教を信ずる故なり、仁王経に云く「諸の悪比丘多く名利を求め国王太子王子の前に於て自ら破仏法の因縁破国の因縁を説かん其の王別えずして此の語を信聴し横に法制を作りて仏戒に依らず是れを破仏破国の因縁と為す」文、文の心は末法の諸の悪比丘国王大臣の御前にして国を安穏ならしむる様にして終に国を損じ仏法を弘むる様にして還つて仏法を失うべし、国王大臣此の由を深く知し食さずして此の言を信受する故に国を破り仏教を失うと云う文なり、此の時日月度を失ひ時節もたがひて夏はさむく冬はあたたかに秋は悪風吹き赤き日月出で望朔にあらずして日月蝕し或は二つ三つ等の日出来せん大火大風彗星等をこり飢饉疫病等あらんと見えたり、国を損じ人を悪道にをとす者は悪知識に過ぎたる事なきか

問うて云く始めに智者の御物語とて申しつるは所詮後世の事の疑わしき故に善悪を申して承らんためなり、彼


の義等は恐ろしき事にあるにこそ侍るなれ一文不通の我等が如くなる者はいかにしてか法華経に信をとり候べき又心ねをば何様に思い定め侍らん、答えて云く此の身の申す事をも一定とおぼしめさるまじきにや其の故はかやうに申すも天魔波旬・悪鬼等の身に入つて人の善き法門を破りや・すらんとおぼしめされ候はん一切は賢きが智者にて侍るにや。

問うて云く若しかやうに疑い候はば我身は愚者にて侍り万の智者の御語をば疑いさて信ずる方も無くして空く一期過し侍るべきにや、答えて云く仏の遺言に依法不依人と説かせ給いて候へば経の如くに説かざるをば何にいみじき人なりとも御信用あるべからず候か、又依了義経不依不了義経と説かれて候へば愚癡の身にして一代聖教の前後浅深を弁えざらん程は了義経に付かせ給い候へ、了義経不了義経も多く候阿含小乗経は不了義経・華厳・方等・般若・浄土の観経等は了義経、又四十余年の諸経を法華経に対すれば不了義経・法華経は了義経、涅槃経を法華経に対すれば法華経は了義経・涅槃経は不了義経、大日経を法華経に対すれば大日経は不了義経・法華経は了義経なり、故に四十余年の諸経並に涅槃経を打ち捨てさせ給いて法華経を師匠と御憑み候へ法華経をば国王・父母・日月・大海・須弥山・天地の如くおぼしめせ、諸経をば関白・大臣・公卿・乃至万民・衆星・江河・諸山・草木等の如くおぼしめすべし、我等が身は末代造悪の愚者・鈍者・非法器の者、国王は臣下よりも人をたすくる人父母は他人よりも子をあはれむ者日月は衆星より暗を照らす者法華経は機に叶わずんば況や余経は助け難しとおぼしめせ、又釈迦如来と阿弥陀如来・薬師如来・多宝仏・観音・勢至・普賢・文殊等の一切の諸仏・菩薩は我等が慈悲の父母此の仏菩薩の衆生を教化する慈悲の極理は唯法華経にのみとどまれりとおぼしめせ、諸経は悪人・愚者・鈍者・女人・根欠等の者を救ふ秘術をば未だ説き顕わさずとおぼしめせ法華経の一切経に勝れ候故は但此の事に侍り、而るを当世の学者・法華経をば一切経に勝れたりと讃めて、而も末代の機に叶わずと申すを皆信ずる事豈謗法の人に侍らずや、


只一口におぼしめし切らせ給い候へ所詮法華経の文字を破りさきなんどせんには法華経の心やぶるべからず、又世間の悪業に対して云いうとむるとも人人用ゆべからず只相似たる権経の義理を以て云いうとむるにこそ人はたぼらかさるれとおぼしめすべし。

問うて云く或智者の申され候しは四十余年の諸経と八箇年の法華経とは成仏の方こそ爾前は難行道・法華経は易行道にて候へ、往生の方にては同事にして易行道に侍り法華経を書き読みても十方の浄土・阿弥陀仏の国へも生るべし観経等の諸経に付いて弥陀の名号を唱えん人も往生を遂ぐべし只機縁の有無に随つて何をも諍ふべからず、但し弥陀の名号は人ごとに行じ易しと思いて日本国中に行じつけたる事なれば法華経等の余行よりも易きにこそと申されしは如何、答えて云く仰せの法門はさも侍るらん又世間の人も多くは道理と思いたりげに侍り但し身には此の義に不審あり、其の故は前に申せしが如く末代の凡夫は智者と云うともたのみなし世こぞりて上代の智者には及ぶべからざるが故に愚者と申すともいやしむべからず経論の証文顕然ならんには抑無量義経は法華経を説くが為の序分なり、然るに始め寂滅道場より今の常在霊山の無量義経に至るまで其の年月日数を委く計へ挙げれば四十余年なり、其の間の所説の経を挙るに華厳・阿含・方等・般若なり所談の法門は三乗・五乗・所習の法門なり修行の時節を定むるには宣説菩薩歴劫修行と云ひ随自意随他意を分つには是を随他意と宣べ四十余年の諸経と八箇年の所説との語同じく義替れる事を定めるには文辞一と雖ど義各異るととけり成仏の方は別にして往生の方は一つなるべしともおぼえず華厳・方等・般若・究竟最上の大乗経・頓悟・漸悟の法門・皆未顕真実と説かれたり此の大部の諸経すら未顕真実なり何に況や浄土の三部経等の往生極楽ばかり未顕真実の内にもれんや其の上・経経ばかりを出すのみにあらず既に年月日数を出すをや、然れば華厳・方等・般若等の弥陀往生已に未顕真実なる事疑い無し、観経の弥陀往生に限つて豈多留難故の内に入らざらんや、若し随自意の法華経の往生極楽を随他意の