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日蓮大聖人・池田大作

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日本における儒教・道教とキリスト教  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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10  ジュロヴァ なるほど。これまでの展開を受けて、宗教と深い関係にある倫理、道徳についてうかがいたいと思います。ブルガリアで“良心”を話題にするように、日本でもそれを話題にするのでしょうか。
 ヘーゲルは次のように述べていますが、私としては、教育の過程において東洋人と西洋人に徐々に染みこんでいった思考方法の違いを示すものであり、“公平な見方”であるとは思えません。
 彼は、「東洋では、生命は誕生するが、個としての主体が存在しない。というのも、一般に見受けられる態度……良心と道徳が存在しない……その結果、東洋人の思想は、哲学の歴史からは除外視すべきである」と述べているのです。
 この言葉に反映しているヘーゲルの見解に対して、先生のご意見はいかがでしょうか。
 池田 今のヘーゲルの言葉は、「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式なのである」(板垣雄三・杉田英明監修『オリエンタリズム』今沢紀子訳、平凡社)と言うE・W・サイードの批判の対象となるでしょう。
 「東洋(オリエント)」と言っても、インド、中国、朝鮮半島、東南アジアなど、さまざまです。また、「東洋の宗教」と言っても、仏教、儒教、道教では、かなりその様相が違います。
 さらに、同じ仏教と言っても、地域によって、また時代によって、かなり変化した部分もありますし、変化を受けなかった部分もあります。その変化の諸相を丹念に見なければなりません。博士が指摘されたように、そのヘーゲルの言葉は「公正さを欠く」ものです。
 その上で、日本における倫理と道徳の問題を歴史的に概観しますと、「共同体倫理」の発達のわりには、「自立的な倫理」「主体的な良心」の成立が不十分であったことがよく指摘されます。
 また、個の自立を図るような信仰形態が未成熟だ、と言われております。日本古来の宗教――「神道」も、これまで述べてきましたように、水田耕作における共同作業と豊作を祈ったり、共通の祖先を祭ることによって「共同体」意識を形成しゆく農耕儀礼中心の宗教でした。
 単純な類型化は避けねばなりませんが、キリスト教的な態度と比較するならば、キリスト教的な倫理は、唯一の神の前での倫理です。一人一人が、神に対して誓う倫理です。この場合、世俗共同体的な道徳をこえることができます。私たちがキリスト教の歴史において、世俗的権力に抵抗することができた「自立した良心の人」を見ることができるのは、このためであると考えております。
 「仏教の倫理」についてはどうか。これについても単純な類型化は避けなければなりませんが、あえて言うならば、仏教の倫理は、外なる神のもとでの倫理ではなく、内面からの倫理です。“内なる仏性”をみがく倫理です。その倫理性は、具体的には、「不殺生」「不妄語」などの戒律の形をとっております。
 しかし、キリスト教の戒律が、“神との契約”によって成立するのに対して、仏教の戒律は、生命に内在する煩悩や悪心との対決によって可能になります。つまり生命の“内なる仏性”を開発することによって、嗔恚、貪欲、愚癡――これを“三毒”と言います――を制御し、慈悲や知恵、意志力に変えていくのです。
 たとえば、嗔恚が慈悲心に転換するところに、あらゆる生命の尊厳を守る“不殺生戒”が実行されることになります。仏道修行は、煩悩を善心(菩提)へと転換していくための実践なのです。まさしく、それは、「自立的な良心」をみがく道徳・倫理の形成と言えましょう。
 しかし、残念なことに、この仏教の倫理は、日本に入ってきて、かなり磨滅し変質していきました。農耕儀礼や先祖崇拝の儀礼が混入してきたのです。とくに、何度も言うようですが、江戸時代、多くの人々は自分が本来、所属していた宗派との関係を絶たれたのです。そして人々は、政治権力によって地域の寺院や神社に帰属することを強制され、日本的な「共同体」儀礼の海に沈んでいったのです。

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