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日蓮大聖人・池田大作

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日本における儒教・道教とキリスト教  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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1  ジュロヴァ これまで日本における仏教の受容の仕方についてうかがってきましたが、次に、日本人が他の諸宗教をどのように受容してきたかをうかがいたいと思います。
 池田 個々の宗教の問題に入る前に、日本人の外来の宗教の受容の態度について、述べておきたいと思います。
 アメリカの宗教学者ロバート・ベラーは、『日本近代化と宗教倫理』の中で、日本は外来の宗教を受容しながら、自分たちの生活に合った独自の「日本宗教」に変質させたと指摘しました。その代表として彼が挙げたのは、江戸時代の「心学」という民間に広まった実践哲学です。
 「天より生民を降すなれば、万民はことごとく天の子なり。故に人は一箇の小天地なり。小天地ゆへ本私欲なきもの也。このゆへに我物は我物、人の物は人の物。貸たる物はうけとり、借たる物は返し。毛すじほども私なくありべかゝりにするは正直なる所也。此正直行はるれば、世間一同に和合し、四海の中皆兄弟のごとし」(『倹約斉家論』柴田実編、『石田梅岩全集』上所収、清文堂出版)
 「道とは自由自在の出来るといふ名ぢゃ。無理すると、自由自在は出来ぬ、無理のない本心にしたがへば、自由自在で安楽にござります、これを道と申しまする」(柴田鳩翁『続々鳩翁道話』冨山房)
 「心学」の第一人者たちの言葉です。ここに出てくる「正直」「道」という言葉は、日本人が好んで使う言葉でした。日本人は人間の本性を「正直」と表現しております。それを「道」とも言ったのです。また、その本質において天(宇宙、神)と人は同じであり、自分を見つめて正直に生きていくならば、それは天の道に通じていくと考えられてきました。
 「いい製品をつくって、それを適正な利益をとって販売し、集金を厳格にやろう。そういうことをその通りやればいいわけである」――これは、世界的にも有名なある大企業の創立者が言った言葉ですが、先ほどの江戸時代の「心学者」の言葉と、本質的に驚くほど似ています。
2  ジュロヴァ 正直に生きるということですね。
 池田 ベラーは、強固な支配体制の維持のために「日本宗教」が果たした役割の大きさを指摘しました。この強固な支配体制が、近代産業社会の興隆に不可欠な要素となったのは、言うまでもありません。自分の生活をきちんと守り、あたえられた自分の仕事をきちんとこなす――それが「道」であり「正直」な生き方なのです。
 これは、本章の「日本における仏教の受容」の項で述べた「共同体」を維持するための「日常道徳」です。つまり、日本に入った時、すべての宗教は「共同体維持のための日常道徳」へと変質させようとする強烈な圧力をかけられる、と言うのです。
3  ジュロヴァ よく分かりました。それでは、具体的な例として、キリスト教についておうかがいしたいと思います。
 キリスト教は、日本には十六世紀に伝えられました。一五四三年に、ポルトガルの船が嵐によって種子島の浜に乗り上げ、その後、一五四九年に、フランシスコ・ザビエルを指導者とする最初のイエズス会の宣教師たちが到着しました。
 最初は、この新たな宗教は、この世の外の世界における救済を約束する仏教徒の一派と考えられました。他の世界、阿弥陀の浄土への生まれ変わりを説く阿弥陀信仰の新たな変形と考えられたのです。西欧文明がもたらした情報や新たな発見と同じく、他国との貿易関係の拡大も魅力的なものであることが分かりました。
 池田 それで、支配階層の人々も、初めは、キリスト教を大いに認めたのです。
4  ジュロヴァ 後に、カトリックの宣教師の活動の結果として、日本の人々は精神的に大きな衝撃を受け、為政者たちは、植民地化される懸念を持ったのです。
 池田 為政者のキリスト教への態度は一変しました。
 ジュロヴァ ええ。キリスト教徒となった日本人が大虐殺されました。その時、将軍みずからが大きな役割を果たしました。苦悩するキリスト教信者たちに冷淡であったキリスト教の神への幻滅から、信仰を捨てる人々も相次ぎました。これらのことはよく知られた事実です。
 私が、このような事実を挙げたのには、もう一つ別の目的があります。私が疑問に思うのは、当時、キリスト教に多くの人が改宗したのは、たんに未知の宗教にあこがれたからだったのかどうか、また、江戸時代に鎖国が行われたのは、国の分裂をおそれる結果だったのかどうかということです。
 十七世紀には、三万五千人のキリスト教徒が殺されました。その後、十九世紀に、明治天皇が反キリスト教的な法令を廃止した時、長崎にはまだ二万人のキリスト教徒がいました。今日、日本にはおよそ百万人のキリスト教徒がいます。
 十七世紀にカトリックに対して非寛容であった理由は、政治的なものだけだったのでしょうか。
 私たちは、十七世紀に起こった諸事件をめぐって、貴国における宗教の寛容について語りあうことができるでしょうか。また、この事件は、永遠の生命の連続、輪廻からの完全な解放である仏教の「救済」よりも、キリスト教の不死への信仰がいっそう魅力的なことを示すものでしょうか。
5  池田 キリスト教、とくに、カトリックの教えと、阿弥陀信仰の類似性は、よく指摘されるところです。当時の日本人にとって、もっとも身近な信仰の一つが、阿弥陀信仰ということもあり、キリスト教の教えは、それほど違和感なく受け入れられたと思われます。西方浄土の阿弥陀仏とキリスト教の神、また、観音菩薩とマリアとの同一視が、人々の心の中におきたことが考えられます。事実、マリアは、一部の強信の人々、多くは“地下”にひそみ、信仰を続けた人々に、マリア観音として伝えられていきます。
 日本を代表する小説家であり、クリスチャンでもある遠藤周作氏に『沈黙』という小説があります。その中で彼は、キリスト教徒への弾圧をあつかいました。遠藤氏は、日本の社会を一人の宣教師の言葉を通してこう評価しています。
 「この国は沼地だ……この国は考えていたより、もっと怖ろしい沼地だった。どんな苗もその沼地に植えられれば、根が腐りはじめる」(『遠藤周作』、『現代の文学』20、講談社)
 “私たちは、長年キリスト教を教えてきたつもりだ。しかし、この国の者たちは自分たちの神々を信じていただけだ”と、その宣教師は述懐しております。
 一五四九年、イエズス会士フランシスコ・ザビエルが日本に上陸して以来、多くの宣教師が来日し、約三十年間に日本人のキリスト教信者は二十四万人ほどになったと言われています。このキリスト教と日本文化との“第一次接触”は、日本とキリスト教の双方にどのような影響をあたえたのでしょうか。
 まず、当時の仏教僧侶のなかには、有力な大名と密接につながり、世俗的な栄華を極めていた者が多くいました。宣教師たちは、その姿にいかり、腐敗した僧侶を批判しました。この批判は、それなりの共感層を日本人のなかに形成していったのです。
 また、神のもとでの平等を説き、「救貧院」や「育児院」「産院」などの慈善事業を行った宣教師たちの言動は、差別され、抑圧された貧しい農民たちに支持されました。これは、キリスト教が日本に受容された大きな理由の一つです。
 このようなキリスト教の考えが、強固な封建社会と相いれるはずはなく、この時から江戸時代まで、キリスト教は弾圧を受け続けたのです。
 先に述べたように、日本人には、共同体維持のため、共通の祖先を崇拝する儀礼を中心とした信仰形態を重視する傾向が根深くあります。キリスト教もこれを無視できず、墓地をつくったり、十一月一日の「諸聖人の日」などを「死者の日」と定め、先祖や死者のためのミサをささげるなどしました。
 江戸時代、厳しい弾圧のなか、ひそかに信仰を保ったいわゆる「隠れキリシタン」のなかには、土着的な先祖信仰をより強くする人々もいました。
 江戸時代の長かった禁教が解かれた明治時代以降、日本の文化にキリスト教があたえた影響は大きいものがあります。世俗権力を「お上」と呼び、それに従属する卑屈な態度、信仰と言うより習俗、儀礼と言ってもよい宗教――よく指摘されるこのような日本の風潮のなかで、世俗権力をこえた唯一の神を信じることが、当時、ヨーロッパから流入してきた民主主義と相まって、内村鑑三など日本の歴史上、特筆すべき人材山脈を形成したことは事実です。
 ともかく、以上述べたように、キリスト教は変質をとげながら日本に受け入れられました。それはキリスト教側の特性と言うより、日本人の特性と言ってもよいのではないでしょうか。しかし、そのような受け入れられ方と並行して、そのような日本人的特性を突破する思想的な衝撃をあたえたのも事実です。
 また、最後のご質問についてですが、日本に入ってきた仏教は、長い年月の間にかなり変質しており、先祖崇拝、そして、その先祖がいる“あの世”という考えをとり入れていました。輪廻からの超克という考えはかなりうすれ、仏は「超越神」のように考えられていたのです。したがって、当時の人々が、仏教の「救済」とキリスト教的「不死」の、どちらを選択したかというご質問に関しては、残念ながら、両方ともに、日本的な宗教観のなかでは、そう異なったものとは考えられなかったと言えましょう。
6  ジュロヴァ では次に、日本に導入された儒教についておうかがいしたいと思います。日本人は、儒教をどのような形で受容したのでしょうか。さらに、儒教と、禅仏教および「武士道」との関係について、おうかがいしたいと思います。
 池田 まず、儒教についてお答えします。儒教に関しては、おそらく四世紀末から五世紀初めにかけて、日本に伝来したと思われます。
 儒教には二つの特徴があると言われています。一つは「忠」や「礼」などの共同体維持のための道徳的側面であり、もう一つは「共同体」維持のためにその共同体の共通の祖先を大切にするという宗教儀礼を重視する側面です。
 まさしく、このような側面は、これまで指摘してきた「日本社会」の特質そのものです。したがって、儒教は考えられているより、深く日本文化に浸透しました。伝来した当時は、氏族国家のイデオロギーとなりました。以来、つねに統治のイデオロギーとなってきました。
 また、民衆レベルでは、現在多くの日本人が仏教に由来すると考えている「葬送儀礼」のほとんどが、儒教に由来していることが指摘されています。
 次に「武士道」の精神についてです。武士道は、ヨーロッパやアメリカではエキゾチックなあこがれの感情を伴って語られることの多い言葉です。逆に、東アジアの国々では、第二次大戦中の日本兵による蛮行の記憶とともにある言葉です。
 正直な気持ちを言わせていただくと、私自身はこの「武士道」という言葉に、あまりよい印象を持っていません。中国に兵役で行っていた長兄が、「日本軍はひどすぎる。あれでは中国の人がかわいそうだ」と語った言葉が、今でも耳朶に残っています。
 私は当時まだ幼く、学校では軍国主義教育を受けていました。
 その時、日本の兵隊には大和魂がある、武士道の精神に満ちている、と徹底的に教えられたのです。
 その武士道の精神とは、死に臆することなく、天皇のために殉ずることに単純化されていました。
 だから、長兄の話を聞いて、心がゆれ、痛みました。今でも、武士道という言葉には、なにか「尊大さ」を感じてしまいます。
 理想的なリーダー像を付与されて、「武士道」は礼節、忠義、克己などの象徴として語られますが、それらの徳目は、日本の武士だけというより、人類普遍の道徳的理想でしょう。
 ヨーロッパに「武士道」という言葉が知られるようになったのは、明治時代の知識人・新渡戸稲造の著作『武士道』(一八九九年)が最初であると言われています。ここで、新渡戸は、明治という新しい近代国家建設の時代の理想的な日本人像を、これからつくられるべき西洋的なモデルに求めるのではなく、日本人のなかに内在するものとして探ろうとします。そして、彼はそのモデルを「武士道」に見いだそうとするのです。
 このような著作の背景を考えると、新渡戸は「武士道」の分析の結果、武士固有の徳目を抽出したというより、彼の理想とする近代人像を、「武士道」に投影したと言う方が適当と言えるかもしれません。
 「武士道」について、江戸時代の記述を見てみますと、斉藤拙堂という儒者は、「武士道」は「私心偏見」も多く、暴力的に強盗を行うことも「武士の習い」であるとする、と批判しています。そして、「聖人の道を明らかに知って、義の至当を求めるのが真の『士道』である」と、儒教による武家倫理の確立を主張するのです。
 (『士道要論』参照)
 ここからも分かるように、「義」や「礼」という「武士道」の特徴とされている徳目は、主に、江戸時代に儒教の影響を受けて成立してきたと考えられます。ちなみに、厳密に申し上げますと、今の斉藤拙堂の言葉にあったように、江戸期には「武士道」ではなく「士道」という言葉が一般的でした。
 「武士道」はそれより以前、日本においては戦国時代という大騒乱の時代の言葉です。それは、生死の瀬戸際での運命共同体としての戦闘集団における倫理でした。ゆえに、非合理性、非日常性が色こいものでした。斉藤拙堂の批判によると、暴力による強盗行為を「武士の習い」とするなど、「私心偏見」に満ちあふれたものでした。死の不安にとなり合わせの緊張のなかでの、日常をこえた主従関係、同胞関係のエートス(習慣や伝統によって形作られた心的態度)が、その根本をなしていた、と言えるでしょう。
 対して、江戸期の「士道」は、いわば国家的秩序の安寧のためのイデオロギーでした。日常的、合理的なものです。
 もちろん、上から強制的に秩序としてあたえられたものなら、戦国の騒乱から、わずかな年月で世界にもまれな強固な幕藩体制をつくり上げることはできません。それは、日本を代表する思想家である丸山眞男氏が指摘したことでもあります(『忠誠と反逆』筑摩書房、参照)が、すでに存在した戦国の武士道のエートスが、何らかの役割を果たしたはずです。
7  ジュロヴァ そうですね。「士道」と「武士道」がどのような関係を持っているかが、有名な「武士道」を考えるための重大なポイントと言えるかもしれませんね。
 池田 そのとおりです。今、申し上げた、戦国時代の戦闘集団における非合理的、非日常的な関係は、江戸時代に入り、人間と人間のふつうの日常的関係には落ち着きませんでした。戦国時代の一時的な関係だった主従関係は年とともに固定化し、「伝統」となっていったのです。
 しかし、非日常的な心情はそのまま残ったのです。このようにして、宗教的と形容するしかないほど「伝統」を重視する心情が形成されました。
 丸山氏の指摘によれば、武士が主君に感じるべき「恩」が「既得権益的性格を濃化し」、その恩を感じて主君に行うべき「奉公」が、人間的な信頼ではなく「伝統への忠誠と癒着する」ようになったのです。
 江戸時代の「士道」に大きな影響をあたえたのは、言うまでもなく儒教でした。幕府の御家人のための正式な学問所は儒教の学問所でした。儒教以外の学問が禁じられたことすらありました。儒教的な「士道」は、戦いのない時代に、軍人というより官僚となった武士の道徳となっていったのです。
 しかし、この儒教的士道は、厳密に言えば儒教とは異なったものでした。
 まずその特徴は、臣下から主君への一方的な忠誠の重視です。儒教道徳の必須の概念に「忠」があります。「所謂道とは、民に忠にして神に信あるなり。上民を利せんことを思ふは、忠なり」(鎌田正『春秋左氏伝』明徳出版社)と、中国の儒教の伝統のなかでは語られていました。
 あくまで天道という普遍的正義、理想の実現の道こそが重要であり、その天道にのっとらない場合は、王ですら捨てられるという「革命」がそこでは語られていたのです。
 しかし、日本の儒教的士道にはその天道の意識が希薄です。むしろ、秩序の維持そのものが目的化したように見えます。江戸時代に武士の心構えとしてよく使われた言葉、「君、君たらずとも、臣、臣たらざるべからず」という言葉がありますが、これなどはまさしく、「秩序のための秩序」という儒教的士道の特徴の一つをよく表しています。先ほど「伝統」と言いましたが、この「秩序のための秩序」を「伝統」と言いかえてもよいと思います。儒教道徳にあった宗教性、精神性が欠落し、世俗的な秩序維持の道徳になってしまったのです。
 さて、以上の官僚的、儒教的な士道に対して、より戦国の非日常的心情、「武士道」を色こく残した「士道」もありました。こちらは、より非日常性、非合理性を鮮明に主張しており、むしろ儒教的士道を、徹底的に非難しました。
 『葉隠』という、この「士道」の精神を代表する、いや、むしろ象徴する書物にこのように書かれています。
 「毎朝拝の仕様、先、主君、親、それより氏神、守仏と仕候也。主をさへ大切に仕候はゞ、親も悦、仏神も納受有るべしと存候」(相良亨、佐藤正英校注「葉隠」、『日本思想大系』26所収、岩波書店)
 主君のことを神仏に祈るのではないのです。主君は神仏と同じレベルの、「祈る対象」となっているのです。
 「此主従の契より外には、何もいらぬ事也。此事はまだなりとて、釈迦天照大神(=「神道」の中心的神)の御出現にて御勧めにても、ぎすとも(=びくとも)する事なし。地獄にも落よ、神罰にも中れ、此方は主人に志立る外は入ぬ也。わろくすれば、神道の、仏道の(=などと)いふ結構なる打上た(=もっともらしい)道理に転ぜらるゝ(=堕落して行く)もの也」(同前)
 ここでは、主従関係が釈迦、孔子、天照大神との関係以上のものと言われています。また、神道、仏道は「もっともらしい理屈である」とまで批判されているのです。
 もちろん、『葉隠』が著された十八世紀初めは、徳川幕藩体制が強固であった時代です。『葉隠』のような非日常的な倫理が受け入れられる時代ではありませんでした。ゆえに、『葉隠』は、むしろ象徴的意味を持つにいたり、「武士道と云は、死ぬ事と見付たり」(同前)という一節が、後の狂信的な軍国主義者に受け入れられるところとなったのです。
 『葉隠』は、その批判精神を見るべきでしょう。宗教的とも形容できる、みずからの藩の主君に対する感情は、幕府体制擁護のイデオロギーと化した仏教、儒教、神道などに対するものとして理解すべきと思います。
8  ジュロヴァ 非常に複雑な歴史を、簡潔に説明していただき、ありがとうございました。では、日本では、道教はどのような形で受容されたのでしょうか。
 池田 道教も、先に述べたような日本独特の受容の典型のような形をとりました。全体として、別の文化と出あい、トインビー博士の言葉を使えば「応戦と挑戦」をすることによって、自国の文化のアイデンティティーを確認したり、大きく文化が変化していくという過程を、日本文化はなかなかたどれなかったのです。
 教義の一部の要素が、それまでの文化に組み入れられるという形で、道教は日本に受け入れられました。まず、陰陽五行説や暦法が当時の科学技術として受け入れられ、日本古来の民間信仰と結合し、占星術などを行う「陰陽道」が成立しました。
 また、古来の民間信仰である山に聖性を見る山岳信仰と相まって、「修験道」の成立の一要素になりました。
9  ジュロヴァ かつて私が、日本ではどのような階層の人々が仏教、禅宗、神道、儒教を実践しているのかとたずねた時、何人かが次のように答えました。それは、日本人は神道の祖先崇拝を支持する以外にも、家庭や自然の近くにあっては道教徒や神道の氏子であり、労働の場では儒教徒であると。こうした考え方について、先生のご意見をおうかがいしたいと思います。
 池田 数年前、世界三十七カ国を対象にした宗教意識についての調査が報告されていました。(「37カ国『世界価値観調査』レポート」電通総研、余暇開発センター)
 その調査によると、「生活にとっての宗教の重要度」を問う質問に対し、「非常に重要」「かなり重要」と答えた回答は、日本は調査国中、中国に次いで二番目に低いものでした。しかし、宗教的行動を問う質問に対する回答で、非常に奇異だったのは、「しばしば祈る」と答えた人は当然少なかったのですが、「困った時だけ祈る」と答えた人は、調査国中最高だったのです。
 報告は、「宗教的自覚は低く」、しかし「『神だのみ』はしばしばするという、わが国独特の神観念が浮き彫りになった」と分析していました。
 日本にはどこの都市にも、結婚式専門の教会があります。結婚式は教会で、葬式は仏式、初詣では神社、という風潮が日本では一般的です。また、ほとんどの週刊誌に、占星術のページがあります。クリスマスとバレンタイン・デーには、街中がプレゼントの商品であふれます
 。しかし、その日が何の日であるのかは、ほとんど忘れ去られている状態なのです。
 なぜ、このような状態になったのか。ある研究者たちは、日本人には自然信仰が根強く、豊穣を祈願し、共同体の繁栄を願う祭式中心的な宗教観が、いまだに生き続けているために、教義等への関心が少ない、と指摘しています。また、自然信仰が強いため、キリストやムハンマド、釈尊など、創始者が存在する宗教のイメージがピンとこない、と指摘する人もいます。しかし、とくに、江戸時代に行われた宗教政策による影響が大きいことは、疑問の余地のないところです。
 先に博士も指摘されたように、徳川幕府はキリスト教を徹底的に弾圧しました。そのために、さまざまな悲劇が日本各地で起こりました。
 その弾圧のための宗教政策が、「檀家制度」と言われるものです。キリスト教徒を絶滅させるために、寺とその周辺地域の人々とに契約を結ばせたのです。それまでは、人々は自分の信じている宗教を実践することができました。遠くはなれた寺に、信頼できる僧侶がいるならば、その僧侶のもとに人々は集うことができたのです。幕府はそれをきらいました。信仰の自由を認めていると、だれがどの宗教を信じているかがつかめず、一人一人を管理できないからです。
 この「檀家制度」によって、事態は根本的に変わってしまいました。全員が地元の寺院に強制的に所属することになったのです。
 キリスト教徒であるかどうかの判定権は寺院側にありました。まさに、「村落における寺の住職が果した役割は、まさに幕藩領主の下級役人的役割であり、民衆の人身支配の最前線に立ったところに、『近世的』檀家制度の本質がある」(圭室文雄『日本仏教史―近世』吉川弘文館)と言えます。
 地域の人々がキリシタンでないことを領主に提出するのは、寺の役割でした。寺によるキリシタンでないことの保証を「寺請」と言います。一六三〇年代の中ごろに、全国でこの「寺請」は実施されました。つまり、人はたとえ地元の寺の宗教を信じていなくても、その寺の信徒になり「寺請証文」を書いてもらわなければ、キリシタンとされてしまうことになるのです。この証文は「戸籍」の役割を果たすことにもなり、寺請をしてもらわなければ、人としての生きる権利を失うのです。あえて言えば、この時、日本から「信」がなくなってしまったのです。
 ある意味で、布教は宗教の生命線です。布教によって、民衆の赤裸々な悩みや苦しみとふれることができます。布教こそが、宗教を開かれたものにしていくことができます。
 しかし、幕府によって布教は固く禁止されてしまいました。
 「町中にて諸出家とも法談説候儀、無用につかまつるべき事」(『町掟』)寺を出て布教することは、このように幕府によって禁止されていました。同じ命令では、集会も禁止しています。幕府はただ葬祭儀礼のみを、所属する地元の寺院で行うことだけを、日本で許される宗教の形としたのです。
 先祖の年忌に所属寺院の僧侶に法要を依頼しない者、先祖の法要に寺院に参詣しない者を、キリシタンとして報告する、というような内容の文書が、徳川幕府の創始者の徳川家康の名で出されました。
 当時は寺院の中に民衆に読み書きを教える施設がありましたので、この文書が、書き方の手本、音読の教科書として用いられて、日本中の人々が幼いころから、そのような信仰の形を「常識」としてたたきこまれたのです。
 葬儀や年忌の儀礼によって強化されたのは、寺院への従属意識だけではありませんでした。葬祭儀礼によって、人は先祖に対する意識をより強くしていきます。徳川幕府の民衆支配政策として、「家系」による集団の系列化が言われています。
 近世以前は複合的大家族集団が、日本の民衆の集団のふつうの形でした。そこには、姓を同じにする濃い血縁関係だけではなく、姓の異なるうすい血縁関係や友人たちも、一つの集団としてまとまりを見せていたのです。
 幕府は、人々の団結をおそれ、単婚小家族を支配の単位としました。そして、同じ姓、つまり家父長――長男という系統を極端に重視しました。先祖崇拝は、儒教の中心概念でした。
 江戸時代に儒学が幕府の公認の学問になったこともあり、先祖崇拝の意識は民衆の間に浸透していき、「家系」重視と先祖崇拝がたがいに影響しあいながら、葬式、年忌により民衆を草の根レベルで支配するという幕府の政策は、驚くべき執拗さで日本の人々に浸透していったのです。
 非常に残念なことに、現在の日本では、自分の信じている宗教の教えを学んだり、他者に語ることなどは、それこそ“異端”のように考えられてしまいます。
 日本の多くの人は、自分の所属する宗派の名は知っています。しかし、その宗派の教義を知っているかどうかを問うと、まず、ほとんどの人が知らない、と答えるでしょう。
 数年前、日本国内で行われた別の宗教意識調査でも、僧侶をたずねる理由は、「法要のお願い」七五・三%、「仏教の教えを聞く」九・五%、所属する宗派の本尊を、「知っている」一八・三%、「知らない」七六・〇%でした。残念なことに、まだ、江戸時代の檀家制度の傷跡がいやされてはいないのです。
10  ジュロヴァ なるほど。これまでの展開を受けて、宗教と深い関係にある倫理、道徳についてうかがいたいと思います。ブルガリアで“良心”を話題にするように、日本でもそれを話題にするのでしょうか。
 ヘーゲルは次のように述べていますが、私としては、教育の過程において東洋人と西洋人に徐々に染みこんでいった思考方法の違いを示すものであり、“公平な見方”であるとは思えません。
 彼は、「東洋では、生命は誕生するが、個としての主体が存在しない。というのも、一般に見受けられる態度……良心と道徳が存在しない……その結果、東洋人の思想は、哲学の歴史からは除外視すべきである」と述べているのです。
 この言葉に反映しているヘーゲルの見解に対して、先生のご意見はいかがでしょうか。
 池田 今のヘーゲルの言葉は、「オリエンタリズムとは、オリエントを支配し再構成し威圧するための西洋の様式なのである」(板垣雄三・杉田英明監修『オリエンタリズム』今沢紀子訳、平凡社)と言うE・W・サイードの批判の対象となるでしょう。
 「東洋(オリエント)」と言っても、インド、中国、朝鮮半島、東南アジアなど、さまざまです。また、「東洋の宗教」と言っても、仏教、儒教、道教では、かなりその様相が違います。
 さらに、同じ仏教と言っても、地域によって、また時代によって、かなり変化した部分もありますし、変化を受けなかった部分もあります。その変化の諸相を丹念に見なければなりません。博士が指摘されたように、そのヘーゲルの言葉は「公正さを欠く」ものです。
 その上で、日本における倫理と道徳の問題を歴史的に概観しますと、「共同体倫理」の発達のわりには、「自立的な倫理」「主体的な良心」の成立が不十分であったことがよく指摘されます。
 また、個の自立を図るような信仰形態が未成熟だ、と言われております。日本古来の宗教――「神道」も、これまで述べてきましたように、水田耕作における共同作業と豊作を祈ったり、共通の祖先を祭ることによって「共同体」意識を形成しゆく農耕儀礼中心の宗教でした。
 単純な類型化は避けねばなりませんが、キリスト教的な態度と比較するならば、キリスト教的な倫理は、唯一の神の前での倫理です。一人一人が、神に対して誓う倫理です。この場合、世俗共同体的な道徳をこえることができます。私たちがキリスト教の歴史において、世俗的権力に抵抗することができた「自立した良心の人」を見ることができるのは、このためであると考えております。
 「仏教の倫理」についてはどうか。これについても単純な類型化は避けなければなりませんが、あえて言うならば、仏教の倫理は、外なる神のもとでの倫理ではなく、内面からの倫理です。“内なる仏性”をみがく倫理です。その倫理性は、具体的には、「不殺生」「不妄語」などの戒律の形をとっております。
 しかし、キリスト教の戒律が、“神との契約”によって成立するのに対して、仏教の戒律は、生命に内在する煩悩や悪心との対決によって可能になります。つまり生命の“内なる仏性”を開発することによって、嗔恚、貪欲、愚癡――これを“三毒”と言います――を制御し、慈悲や知恵、意志力に変えていくのです。
 たとえば、嗔恚が慈悲心に転換するところに、あらゆる生命の尊厳を守る“不殺生戒”が実行されることになります。仏道修行は、煩悩を善心(菩提)へと転換していくための実践なのです。まさしく、それは、「自立的な良心」をみがく道徳・倫理の形成と言えましょう。
 しかし、残念なことに、この仏教の倫理は、日本に入ってきて、かなり磨滅し変質していきました。農耕儀礼や先祖崇拝の儀礼が混入してきたのです。とくに、何度も言うようですが、江戸時代、多くの人々は自分が本来、所属していた宗派との関係を絶たれたのです。そして人々は、政治権力によって地域の寺院や神社に帰属することを強制され、日本的な「共同体」儀礼の海に沈んでいったのです。

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