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日蓮大聖人・池田大作

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第五章 生活環境の保障こそ健全な社会  

「子供の世界」アリベルト・A・リハーノフ(池田大作全集第107巻)

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6  慈悲の行動は言葉を超えて通じあう
 リハーノフ まったく同感です。
 私は重傷を負った子ども、病んでいる子、助けを必要としている子の占めるべき位置を、自分なりに定義してみました。それは、不幸に見舞われた子どもは、民族の枠を超え、主権を超越した存在だ、ということです。
 これはどういうことかを説明いたします。子どもを助けなければならないときに、「うちの」子どもも「よその」子どももない、ということです。
 私がわざとカッコでこの二つの言葉をくくったのも、助けられようとする子どもにとって、よそであろうが、うちであろうがそんなものは関係なく、時として「よその」人のほうが「うちの」人よりもはるかにしっかりと助け、守ってくれる場合があります。いずれにしても、救い手がだれであろうと、子どもが待っているのは、ひとえに助けるという価値行動なのです。
 子どもに当たった弾丸を取り出す医師が何語でしゃべろうと関係ないし、看護師さんあるいはふつうの女性が、わけのわからない言葉だけれども慰めの言葉をかけてくれている、運転手さんが自分の綿入れでくるんで寒さから守ってくれているときに、言語の別など関係ないのです。
 救いの手を差しのべてくれる人そのものが、確かな守りと善意の象徴であって、そこには精神的な主義やスローガンもアピールも、信仰さえも云々する余地はありません。ですから、不幸に見舞われた子どもは民族を超え、主権を超越しているとは思いませんか。
 池田 そうしたセンスというか、共感能力を身につけるということは、人間であることの不可欠の条件と言ってよいでしょう。
 先ほど、現代人の安楽志向にふれましたが、安楽のみを追い求め、苦しいことや悲しいことを避け続けていくと、本当の意味の喜びさえ味わえなくなってしまいます。なぜなら、真の喜びや充足感は、苦しみ、悲しみを正面から受けとめ、それを乗り越えたところにのみ開けてくるものだからです。
 安楽志向が手にすることのできる喜びは、はかない幻のようなものです。その意味からも、現代人が、洋の東西を問わず、おしなべて共感能力の衰弱におちいっていることは、まことにゆゆしき問題であると、私は憂慮しています。
 有名な仏典(「涅槃経」)には、「一切衆生の異の苦を受くるは悉く是れ如来一人の苦」(大正十二巻)とあり、これを受けて、私どもの宗祖は「日蓮が云く一切衆生の異の苦を受くるはことごとく是れ日蓮一人の苦なるべし」と仰せになっています。
 ここから明らかなように、共感能力の衰弱という現代病は、まさに仏教の精神と対極にあります。ゆえに、私どもの仏法運動は、苦しみや悲しみ、喜びをともにする生命力をよみがえらせながら、生きて生きぬいていく、共生運動でもあるのです。
 リハーノフ 本物の宗教というのはいずれも、善と愛、同苦を説いていると思います。そういう意味では、異なる信仰をもつ人々にも、多くの全人類的な共通点があると言えるでしょう。
 私たちはグルジア人やタジク人、ロシア人、モルダビア人、チェチェン人の子どもたちを、治療のために世界各国に送り出していますが、言葉がわからなくても、子どもたちと救助員の心がいかに通いあうかを自身の経験から知っています。
 その心のふれあいを助けてくれるのは、笑顔やジェスチャーであり、また泣き声であります。残酷な暴力、戦争とは違って、慈悲には国境も民族の違いも、民族的野心もないのです。

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