Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第30回本部総会 七周年期し王仏冥合の新時代へ

1967.5.3 「池田大作全集」第3巻

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18  最後に御義口伝下の安楽行品についての一節を申し上げたい。それは「安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり云云、霊山浄土に安楽に行詣す可きなり云云」との御文であります。まず「安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり」とは、安楽行品にある安楽行とは、その実体は釈尊より上行菩薩に譲り与えられたところの南無妙法蓮華経であるとの意味であります。だが、これは一往の解釈であります。再往、生命論から拝すれば、上行所伝の妙法の働きとは、苦に束縛されない自由自在の幸福なる生命活動のことであります。すなわち、この生命活動こそ最高の安楽行であり、その生命活動の奥底を流れる安楽行の実体こそ、南無妙法蓮華経であるとの意味になるのであります。
 それは、環境によって作り上げられる安楽ではない。機械文明から逃避して一時的に自己満足する安楽でもない。破壊や享楽や怠惰につながる安楽でもない。かつて世界を征覇したスペインにせよポルトガルにせよ、享楽のために衰退してしまった。また、虚栄のための安楽でもなければ利害のための安楽でもない。安直な一時的な気まぐれの安楽でもありません。妙法の安楽は、生命の内奥より湧き出でる安楽であります。最も生命力が強く清浄に輝き、生きること自体が楽しみであり、あらゆる価値創造をしていく最高の安楽なのであります。「霊山浄土に安楽に行詣す可きなり」――霊山浄土とは仏国土であり、広宣流布の幸福な社会、平和な世界のことであります。この達成のために振舞うことが最高の安楽であるという意味なのであります。
 広宣流布のため王仏冥合のために邁進して人生は、たとえどんなに苦難があっても、それ自体、最高の安楽に通じていくのであります。ゆえに、誰人たりとも安楽に行詣できないわけがないのであります。死身弘法すなわち安楽となり、不惜身命すなわち衆生所遊楽と変わっていくのであります。
 御書にいわく「此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし」と。私どもは生涯、いかなる三障四魔の嵐が吹き荒れようとも、地走る師子王のごとく正々堂々と、天空をる鷲のごとく自在闊達に、宗教界、思想界の王者と自覚して、御本仏日蓮大聖人に決して恥じない法戦を貫き通していこうではありませんか。(拍手)
 なお、最後に皆さん方のご健康とご一家の繁栄を心から願い、共に今日まで戦ってこられ、残念ながら中途で亡くなられた同志の方々のご冥福を心からお祈りして私の話を終わらせていただきます。

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