Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第30回本部総会 七周年期し王仏冥合の新時代へ

1967.5.3 「池田大作全集」第3巻

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17  そして、世界の民衆からは尊敬と信頼の眼で迎えられ、かつ永遠の歴史に刻まれていくことは間違いない。これが世界広宣流布の一断面であるという方程式を知っていただきたいのであります。アジア、アフリカ、中南米等の想像を絶する貧困と病苦にあえいでいる民衆、機械文明のもとに主体性を喪失し、無気味な空虚の深淵に立たされている欧米先進国の人々、これらを両者とも救いきっていけるのは、新しい世界の宗教たる日蓮正宗以外には、絶対ないと叫びきっていこうではありませんか。(拍手)
 インドの詩聖・タゴールは、かつて、日本に希望を託して次のように謳っております。「私は、目を東のほうに向けている。日はすでに夜明けを迎え、アジアの、最も東の地平線に太陽がのぼったのでないと誰がいえよう。私は、私の祖先がなしたと同じように、全世界を再び照らすべき運命をになう東洋の夜明けに敬礼する」と。タゴールがいかなる意味でそう叫んだかは知りません。だが、アジアの、最も東の地平線に太陽がのぼったとは、日蓮大聖人が顕仏未来記の「仏法必ず東土の日本より出づべきなり」とのご予言のごとく、日蓮正宗、創価学会が、日蓮大聖人の仏法を奉持して、全世界のために立ち上がったことこそ、その実体ではないかといいたいのであります。(拍手)さらに西欧の心ある思想家のなかから、西欧物質文明の危機を嘆き、東洋に新しい偉大な思想を求めている声が、澎湃として湧き起こっていることも事実であります。東洋思想の最高峰は、いうまでもなく、仏法の真髄たる日蓮大聖人の大仏法であります。すなわち、後進国の人々も文明国の人々も、一同に日蓮大聖人の大仏法を、本質においては渇仰しておることを確信しつつ、私どもは、さらに勇気をもってこの人々に応えていこうではありませんか。(拍手)
18  最後に御義口伝下の安楽行品についての一節を申し上げたい。それは「安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり云云、霊山浄土に安楽に行詣す可きなり云云」との御文であります。まず「安楽行の体とは所謂上行所伝の南無妙法蓮華経是なり」とは、安楽行品にある安楽行とは、その実体は釈尊より上行菩薩に譲り与えられたところの南無妙法蓮華経であるとの意味であります。だが、これは一往の解釈であります。再往、生命論から拝すれば、上行所伝の妙法の働きとは、苦に束縛されない自由自在の幸福なる生命活動のことであります。すなわち、この生命活動こそ最高の安楽行であり、その生命活動の奥底を流れる安楽行の実体こそ、南無妙法蓮華経であるとの意味になるのであります。
 それは、環境によって作り上げられる安楽ではない。機械文明から逃避して一時的に自己満足する安楽でもない。破壊や享楽や怠惰につながる安楽でもない。かつて世界を征覇したスペインにせよポルトガルにせよ、享楽のために衰退してしまった。また、虚栄のための安楽でもなければ利害のための安楽でもない。安直な一時的な気まぐれの安楽でもありません。妙法の安楽は、生命の内奥より湧き出でる安楽であります。最も生命力が強く清浄に輝き、生きること自体が楽しみであり、あらゆる価値創造をしていく最高の安楽なのであります。「霊山浄土に安楽に行詣す可きなり」――霊山浄土とは仏国土であり、広宣流布の幸福な社会、平和な世界のことであります。この達成のために振舞うことが最高の安楽であるという意味なのであります。
 広宣流布のため王仏冥合のために邁進して人生は、たとえどんなに苦難があっても、それ自体、最高の安楽に通じていくのであります。ゆえに、誰人たりとも安楽に行詣できないわけがないのであります。死身弘法すなわち安楽となり、不惜身命すなわち衆生所遊楽と変わっていくのであります。
 御書にいわく「此の経文は一切経に勝れたり地走る者の王たり師子王のごとし・空飛ぶ者の王たり鷲のごとし」と。私どもは生涯、いかなる三障四魔の嵐が吹き荒れようとも、地走る師子王のごとく正々堂々と、天空をる鷲のごとく自在闊達に、宗教界、思想界の王者と自覚して、御本仏日蓮大聖人に決して恥じない法戦を貫き通していこうではありませんか。(拍手)
 なお、最後に皆さん方のご健康とご一家の繁栄を心から願い、共に今日まで戦ってこられ、残念ながら中途で亡くなられた同志の方々のご冥福を心からお祈りして私の話を終わらせていただきます。

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