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日蓮大聖人・池田大作

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壮年部、婦人部、青年部の合同研修会 仏法と哲学に説く幸福論

1986.10.26 「広布と人生を語る」第10巻

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21  さらに、戸田先生は「幸福論」(昭和二十四年)のなかで”生命力と幸福”について述べておられる。
 「幸福を感じ、幸福な人生を営む東泉は、われわれの生命力である。この生命力と外界との関係カを価値といい、この価値が幸福の内容である。……もし生命力が家庭の事件を解決するだけの生命力なら、家庭内のことでは行き詰まらないが、町内、市内の事件にはすぐ行き詰まる」と。
 いかに家庭内の幸福が築かれたとしても、激しい社会の荒波にあえば、その幸福は崩れてしまう場合もある。また現実社会の生活が幸福にみえても、より広い次元からみるならば、耐えていけない不幸が待っているかもしれない。それらのすべてを乗り越えていける大きな境涯と強い生命力をもつための原動力が信仰である。そこに絶対的な幸福を築く基盤があるといってよい。
22  また御書に「仏法はあながちに人の貴賤には依るべからず只経文を先きとすべし身の賤をもつて其の法を軽んずる事なかれ」と。これは聖愚問答抄の有名な御文である。
 仏法の正邪は、それを持った人が貴い、また賤しいという違いによるのではない。社会的地位や財産があるとか、ないとかで決まるものでもない。
 財産があるためにかえって不幸になる例はいくらでもある。また財産がない人の方がかえって気楽で幸せな場合もある。(笑い)ゆえに、つねに法門を根本の基準とすべきであり、社会的地位や財産のいかんによって人を軽んじていくようなことがあっては絶対にならない。
 また、開目抄には「仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」と仰せである。
 私どもも、長い人生のうえにあって、また長い広宣流布の旅路にあって、さまざまな苦難の日があるかもしれない。いな、あるのがとうぜんなのである。しかし、大聖人が、流罪は今生の「小苦」であり、やがて「大楽」にかわるとされたごとく、難があればかならず次には「大楽」の次元に入っていくことができると、深く信心をとるべきである。
 私もつねにそう心がけてきたし、そこに正しき信心の精髄があると確信している。以上をもって、本日の研修会の指導とさせていただく。

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