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日蓮大聖人・池田大作

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壮年部、婦人部、青年部の合同研修会 仏法と哲学に説く幸福論

1986.10.26 「広布と人生を語る」第10巻

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1  本日の合同研修会には、「板橋仏教哲学研究会」、「板橋仏教懇話女子連盟」、婦人部「白樺会」、また海外の代表など、各部の多数の方々が参集されている。心からおめでとう、ご苦労さまと申し上げたい。
 研修会は、広宣流布の人材を育成する場であり、使命ある地涌の友がたがいに切磋琢磨しゆく信心錬磨の場である。その意味をふくめて、本日は若干のお話をし、指導にかえさせていただきたい。
2  青春時代に人間の”骨格”を
 現在、私は「高校新報」紙上で連載小説『アレクサンドロスの決断』を執筆している。最近は、テレビなどの影響で、小説はあまり読まれないという風潮もあるが(笑い)、私は次代を担う高校生のために大切なことを書き残しておきたい、との信条で筆をとっている。一人でニ人でも、この小説を塩として、将来の偉大な広宣流布の指導者に育ってもらいたい――そういう思いで心をくだいていることをご了解いただきたい。
 私がこのように高校生に期待をかけるのは、今までも学会の最高幹部となり、不退転の立派な指導者となっている多くの人たちの”骨格”が、だいたいその高校生時代に培われているからである。
 現在は、いわゆる学歴主義、進学主義、または知育偏重主義の傾向があるが、私は大切な未来の指導者を育てていくためには、けっしてそれだけではならないと思っている。人間としての骨格づくりが必要である。知識はとうぜんのことながら、人間としての深い哲学と信念をもった人格をどう築いていくかという観点を忘れてはならないであろう。
3  連載の『アレクサンドロスの決断』は、紀元前四世紀なかごろの古代ギリシャや小アジアを舞台に、アレクサンドロス(アレキサンダー大王)にまつわる史実をもとにした小説である。
 先日、私は、若き日のアレクサンドロス皇子と親友のフィリッボスが、他の少年たちとともに学問所に行き、新任の教師アリストテレスの教えを受けるところを書き上げた。アレクサンドロスの十三歳のときの話である。
 アリストテレスは、ご存じのようにプラトン門下の最優秀の弟子で、論理学、政治学、詩学等、あらゆる学問に通じた偉大な哲学者である。
 なぜ、アリストテレスのことを申し上げるかというと、このアリストテレスの哲学、思想と、戸田先生の指導を此較してみるときに、相通ずるところが多々あるからである。
 とうぜん、戸田先生の指導は、すべて日蓮大聖人の仏法を根底にしたものである。仏法とアリストテレスの哲学とは深遠さの違いはあるが、それはそれとして、戸田先生の指導と、アリストテレスの主張とが、相通じていることは、彼の哲学がまた仏法の偉大さを基づけているといってもよいであろう。
4  ――アレクサンドロスをはじめとする少年たちは、アリストテレスの名声を聞き、たいへんなあこがれと尊敬とをいだいていた。
 アリストテレスは、授業のとき、「皆で外に出てみょう」と呼びかける。実際、学問所のある村は、美しい自然のなかにあった。折から初草の季節で、青々と草原が広がり、縁の道のわきには果樹の林もある。その道をしばらく歩き、かたわらにあった石に腰をおろし、そこで彼の最初の講話が始まるのである。
 現在の塾や学校には見ることのできない、じつにゆったりとした伸びやかな光景である。せせこましい出世主義、打算主義、現実主義からほ生まれない、まことにすばらしい教育のすがたと思う。
 広々とした境涯を開いてあげ、より人間らしい、社会にとって兵に有為な青少年を育てることが、教育の根本目的であることを忘れてはならない。
 私が、この小説で、豊かな自然のなかで少年たちと語るアリストテレスの場面を克明に描こうとしたのも、青少年の心のなかに、伸びのびとした世界をつくってあげたいとの思いからである。
 自然のなかで語りあい、対話を通して学ぶことを重んじたアリストテレスは、やはり教育の天才でもあったとの感を深くする。
 私どもの毎日の活動にあっても、ゆったりと、心の緊張をときほぐし、そして核心にふれていく指導が大切である。そうした”指導の名人”が、白樺会や婦人部の指導部の皆さま方のなかに数多くいることを、私はよく知っている。
5  ――石の上に腰をおろしたアリストテレスは、少年たちにこう語る。「学問とともに、精神はどこまでも広くゆたかにふくらんでいくのだから、今は真剣に学ぶことだ。私も、できる限り教えよう。ただ、私は結局、学問のための学問は教えないつもりだ。何のための学問か――。それは、正義、信義、友愛、勇気といった人間の徳のためだ。真につかむべきは学問そのものではない。行為のため、知恵と決断のために学ぶのだ。だから君らにとって最善の学校は、世の中であり、人生であり、戦場だといえる。やがて君らは世に出て人々のために働く時が来る。その時のために、うんと学んでほしい」
 アリストテレスは」この考えを大前提とし、出発として教育にあたったのである。
 これは、小説として私なりに想像力を働かせているが、史実をもとにしており、その主張は、現在の知識偏重主義とは大きく異なり、なによりも学ぶことの意味を問いかけている。
 戸田先生の教育法も、まさにそのとおりであった。先生もまた、教師として天才的な資質をもっておられた。そしてつねに「何のため」との明確な目的観のもとに教育を行っておられた。
6  人生の目的は幸福にある
 ――ある清麗な朝には、アリストテレスは散策しながら、倫理学の骨子をやさしくかみくだいて少年たちに語った。
 それは「幸福を求めない者は、ありえない。それは人間が求める究極のものといえるだろう。でも、幸福は望んでも、幸福を見定めることはむずかしい」ということである。
 きょうはこの「幸福」について論じてみたい。
 「人生の目的は何か」――この命題ほど、解答が人によりさまざまなものもないかもしれない。また明快にして根本的な解答が、これほどむずかしい問いもないといえまいか。しかし、結論的にいうならば、その目的は幸福にあるといってよいだろう。
 仏法において信心の目的は「一生成仏」であるが、これは、永遠に崩れざる「幸福」という意味に通じる。この点について戸田先生は、幸福にも「相対的幸福」と「絶対的幸福」があるといわれ、「人生の目的は絶対的幸福の確立である」と教えてくださった。
7  ある一流新聞社の記者座談会で、「即身成仏」という仏法用語が話題になったという。そのとき、多くの人々は「成仏」というと「ミイラ」を想像するという話が出たことは、以前にも述べたとおりである。
 この話は、世間一般の仏法観の現実の姿を象徴するエピソードかもしれない。知識人にしてもその多くが、宗教の教義内容をほとんど知らない。多くの既成宗教や新宗教があるが、その教義や本尊がどう違っているかも、ほとんど知らないといってよい。その仏法を知らない知識階層の人々が、仏法を批判することは、大きなまちがいであるといわざるをえない。
8  ――アリストテレスは、さらに少年たちに語りかける。
 「幸福は、見せかけの現象のみをもって測ることはできないものなのだ。或る時は人は幸福そうに見え、或る時は不幸そうに見えることがある。人を取り巻く環境はさまざまであり、長い生涯のうちには、そういう浮き沈みはあるものだ。その浮き沈みは、幸運とか不運とかともいえる」と。
 たしかに、だれ人にも、その人生に浮き沈みはかならずある。今朝まで幸せの有頂天にあった妻が、夜には夫の病気のために、地獄のような気持ちに沈むこともある。
 一事が万事で、人生の”一寸先は闇”とはよくいったものである。将来の人生の浮沈は、だれにもわからない。
 かつて、司法試験にも合格し、一流の大学を卒業した青年がいた。その結婚相手の恋人が東北地方にいて、その青年は、休日に車を飛ばして会いに行った。その途中、対向の暴走トラックを避けることができず、正面衝突をしてしまった。家に帰ってきた青年の遺体を見て、その恋人は号泣したということを聞いたが、まことに悲惨な事故であった。このように長い人生、長い生涯のなかには、幸・不幸、運・不運の交差はしばしばあるものだ。
9  仏法に通じるアリストテレスの哲学
 さてアリストテレスのこうした卓見は、『ニコマコス倫理学』にまとめられている。この書は、アリストテレスの講義を息子のニコマコスが編集したもので、倫理学では世界初の体系的著作とされる。
 このなかでアリストテレスは、学問や行為の究極の目的が、最高善、すなわち「人間的な善」にあり、それは「幸福」の実現にはかならない、と指摘するとともに、人間の「アレテー(卓越性、徳)」「正義」等々について詳細に論じている。
 そのなかから少々、含蓄ある言葉を紹介したい。というのも、彼の思想を、仏法の序分・流通分として、仏法の正しさをより明確に理解していただきたいからである。また”哲学なき現代”にあって、私どもがいかに深遠な哲理を自らの血肉とし、有意義な人生を送っているかを、彼の言葉から、おのずと納得できると思う。
 ただし、その原文は難解であり、翻訳文もわかりにくいので(笑い)、時間のつごうもあり、私なりにかみくだいた表現にしたところもあるので、ご了承願いたい。
10  アリストテレスは「幸福の実像」について、こう述べる。――幸福とは持続的なものであり、いかなることがあっても、容易に転変しないものと考えられる。しかし、同一の人間にも、幸運のときと、不運のときがあり、それを世間では、あるときは幸福であり、あるときは不幸であると見る。これは、まことに奇妙なことではなかろうか。もしわれわれが、運・不運によって、同じ人を、幸福であるとか、不幸であるとか決めつけるならば、幸福な人を「一種のカメレオン、坐りの悪いもの」としてしまうことは明らかであるⅠと。
 仏汝で数える其の「幸福」も、運・不運で転変するような次元のものではない。いかなる苦難があっても、悠然と乗り越えていける不動の境涯に、真の幸福はある。つまり”丈夫の境涯”ともいうべき強靭な「我」を、それぞれの生命のなかに築きゆくことが、根本的な幸福の追求となり、確立となるのである。
 ゆえに、表面的な幸・不幸に惑わされ、絶対的な幸福の実像をけっして見失ってはならない。
11  アリストテレスは、続いて、こう述べる。――むしろ、運・不運のいかんに追随することじたいが、そもそも誤りではあるまいか。運・不運によって、われわれの幸・不幸が決定されるのではない。人間生活において、運を必要とするのは、付加的なものなのである。それに対し、幸福のために決定的な力をもつものは「アレテー(卓越性、徳)」に即した活動にはかならない。その反対も、またこれに準ずるものである――と。
 アリストテレスは、運・不運、また表面的な幸・不幸といった”付加的”な現象の奥底に、「アレテー」という根本的な機軸を提示している。これは、仏法で説く「仏界」の境涯を志向したものともいえよう。
 私どもも「九界」という現実のなかで生活をしている。しかし、そのなかで、「仏界」という究極の幸福境涯の湧現をめざし、唱題しながら現実の人生を生きぬいている。この私どもの行為・実践こそ、崩れざる幸福を築きゆく真実の”決定的なカ”であると確信きれたい。
12  「持続的幸福」は内なる「徳」の確立に
 さて「徳」については、多くの哲学で論じられているが、仏法においては、しばしば「福徳」として説かれている。法華経のなかでは、たとえば「方便品」「誓喩品」「薬王品」「観世音菩薩普門品」「妙荘厳王品」「普賢菩薩勧発品」など、多くの個所で言及されている。また「四恩抄」など多くの御者でも「福徳」についての法理が説かれている。
 さきにふれたように、アリストテレスもまた、「徳」に重要な意義を見いだしている。彼は人生における「幸福の持続」について、およそ次のように述べている。
 ――求められている「持続性」は、幸福な人においてほ、すでに存在している。そして、それは生涯を通じて変わることがない。なぜなら、幸福な人はつねに、だれにもまさって「アレテー(卓越性、徳)」に即して生き、実践していくからである。また、いろいろの運・不運にも耐えていけるからである――と。
 卓越性という内なる「徳」とは、仏法の眼からみれば「仏性」そして「仏界」の輝きを志向したものといえよう。つねに、その仏界に即して人生を生きぬく人こそ、兵に”幸福な人”なのである。
13  すなわち、われわれの立場でいえば、信心強盛に、題目をあげることによって、わが胸中に仏界という阜越した「福徳」 の生命を湧現し、広げていくことができる。その生命の輝きは表面上の幸運や不運、損得等によって、いささかも変わるものではない。生涯、永遠に持続していくものである。ゆえにカメレオンのように変化する一時的な現象は、この絶対的幸福の見地からみれば、付随的であり、相対的なものにすぎない。
 このようにアリストテレスは、持続的な幸福は、自らの内に「徳」を確立するところにある、と考えていた。
 これを私どもにおきかえていえば、「信心の持続」ということになる。未迭今時において、仏界という最高の「福徳」をわが身に確立していくには、強き信心の実践以外にない。私どもがつねに「信心を強盛に」「生涯、潔き信心の持続を」などと励ましあい、退転を戒めあっている理由もここにある。結論していうならば「信心の持続」即「絶対的幸福への持続」なのである。
14  また、アリストテレスは「徳」を得た人の人格について、こう述べている。――もし人が数多くの不幸を、苦悩から逃避することなく、高貴に、矜持高く、平然として耐えるならば、そうした不幸のなかにおいても、うるわしさは輝き出るのである――と。
 これは信心においても、極意というべき境涯に通ずる姿勢であると思う。
 御本仏日蓮大聖人は、佐渡への御流罪のさなかにあっても「当世・日本国に第一に富める者は日蓮なるべし」と仰せになり、「悦び身に余り」、「悦ばしいかな悦ばしいかな」等と、くり返し述べておられる。こうした御文からも、広大無辺の御境界の「徳」の一分を拝することができる。
 また御書に、有徳王の正法護持の活躍がしるされているが、有徳の「徳」の意義も、嵐に揺るがぬ胸中の不動の境涯をさしているともいえよう。
15  私どもは仏法の信仰者である。ゆえに目先の利害や名聞に流され、その根本の「人格」と「徳」を見失っていくようであってはならない。広宣流布の活動にあっても、現実の生活にあっても、根本は、唱題の力によって、幸福の本源ともいうべき「徳」の生命を広げ、磨くことにあることを、ゆめゆめ忘れてはならない。
 アリストテレスが訴えているように、私どもも、つねに広宣流布のため、大法興隆のため、高貴に、誇り高く、悠然と生きぬいていかなければならない。その勇気ある信心を貫く人にはかならず、わが胸中から無限の生命のうるおいと歓びとが輝き出てくるのである。この信念の持続にこそ、真実の「徳」が躍動することを自覚していただきたい。
 私も、一貫して、この精神できたつもりである。ゆえに、いかなる迫害の嵐があっても、心にいささかの曇りもなければ悲観もない。どうか皆さまも、御本仏の門下として、私とともに、真実の信仰を貫き通す”勇者の人生”を飾っていただきたい。
16  自身を律し中道を生きる
 ァリストテレスのいう「徳」には、勇敢、節制、真実、親愛など、さまざまなものが含まれる。
 たとえば――「勇敢」という徳をみると、勇敢の両極には「臆病」と「無謀」とがある。勇敢が不足しているのが「臆病」であり、勇敢の度が過ぎているのが「無謀」ということになる。この「臆病」と「無謀」の中間にあるのが「勇敢」という徳である。かくして、徳というのは、多過ぎも少な過ぎもしない「中庸」に存している、というのである。
 このことは、人間らしく生きぬくため、わきまえておくべき重要な要件である。
 大聖人も「日蓮が弟子等は臆病にては叶うべからず」と、信心にあっても、人生を生きるうえにおいても、臆病であってはならないと仰せである。
 また「無謀」な人は、一見、信心が強そうに見える場合がある。しかし、「無謀」と「強信」とは別次元である。この無謀への戒めは、生活や人生を踏みはずしていくような非常識な「火の信心」であってほならないということに通じるであろう。
17  アリストテレスが「臆病」と「無謀」との中庸に「勇敢」を位置づけているのは、たんなる量的な問題ではないだろう。仏法でも「中道」を重視するが、アリストテレスのいう「中庸」とは「中道」に一分通ずるものといえる。
 さらに、次のような意味のことをいっている。
 ――「中庸」すなわち徳をめざすことは、容易ではない。苦しみがともなうものだ。しかし、それを耐え忍んでいくなかに、喜びとか充実もあるのである。自分との戦いなしには、徳もありえない。われわれの精神が欲するままにあることはもっとも易く、これを抑制して理想的な状態すなわち徳をめざすことは困難である――と。
 たしかに「中庸」の生き方は、容易なものではない。ともすれば両極端へと進みがちな自分を律し、境涯を深めていかなければならない。自分を律していくことは、結局は易きにつこうとする自分自身との戦いであり、とうぜん苦しみもともなうし、忍耐も必要となる。
 私どもの仏道修行も、自分を律しつつ、勤行・唱題、そして弘教に励むところにある。そこには苦しみも多いが、しかし、それを貫いていくところに、最高の喜び、最高の充実があるのである。
 学会の組織もまた、そのための信心の組織であることを知ってほしい。もし現実に組織がなければ、たがいに切磋琢磨し、向上することもできない。結局は独りよがりに流されてしまうであろう。この事実は、皆さま方がよくご存じのとおりである。
18  また、次のようにもいっている。
 ――「正義」こそ、最重要の徳であり「完全な徳」といえる。徳のうちでとりわけ「正義」は、自分の行いにとどまるだけでなく、他人にこれを及ぼすことができるから、すぐれた徳なのである。事実、自分だけのことにあっては「徳」の働きを発揮することができても、対他的なことがらにあっては、それのできない人々が多いのである――と。
 これは仏法の実践方軌である「自行」と「化他」に通ずる論理である。まことに要を得た哲学であると、私は感心する。ここでも大聖人の仏法の証明がなされているからである。
19  このように、アリストテレスが「正義」を「完全な徳」とする理由として、その行いが、自分自身のみでなく、他人に及ぼすことができる点をあげているところに、人間を”社会的(ボリス的)動物”であるとした、アリストテレス哲学の精髄があると私はみたい。
 つまり仏汝の実践でいえば、自分自身のための「自行」と、社会また人人に通ずる「化他」という実践とがあって、はじめて完全な「徳」とみなしたことに、私は彼の哲学の卓越さがあると慮っている。
 彼は「正義」というが、大聖人の仏漁は最高の「正法正義」である。彼は完全な「徳」と論ずるが、「仏界」こそ完全な「徳」である。彼は人間を”社会的動物”といっているが、たしかに一人だけの社会はない。すべて人間と人間とが連動、連帯しているのが社会である。その社会そして人人に対する「最高善」の行為が、これまた最高の「徳」の顕現となるのが、仏法の「自行化他」の実践といってよいであろう。
 このように、アリストテレスは偉大な哲学者であった。しかし、晩年はアテネから追われ、さびしく生涯を終えていることも事実である。
20  最高の誇りは広布に捧げる人生
 ところで戸田先生はよく、「絶対的幸福」について、わかりやすく教えてくださった。
 「絶対的幸福というのは、生きてそこにいる、それじたいがしあわせなことである」、また「会社にいればいるで、楽しく暮らせる。勤めていれば勤めていること、それが楽しい。働けば、働いているのが楽しい。勉強しているのが楽しい。だれびとでもこわすことができない絶対的幸福感、これは御本尊をしっかり受持し、拝む以外にない。この信心を貫き通していくのが絶対的幸福につながる」と。
 現実生活のうえにおいて、いかにこの絶対的幸福を会得すべきか――これが重要問題である。結論していえば、御本尊への信心しか、今日においては、その方途はない。日蓮正宗の御本尊こそ即絶対的幸福の当体であられ、この御本尊に南無しゆくときに、この人生そして生命に、確固たる幸福への結晶がそなわっていくからである。
21  さらに、戸田先生は「幸福論」(昭和二十四年)のなかで”生命力と幸福”について述べておられる。
 「幸福を感じ、幸福な人生を営む東泉は、われわれの生命力である。この生命力と外界との関係カを価値といい、この価値が幸福の内容である。……もし生命力が家庭の事件を解決するだけの生命力なら、家庭内のことでは行き詰まらないが、町内、市内の事件にはすぐ行き詰まる」と。
 いかに家庭内の幸福が築かれたとしても、激しい社会の荒波にあえば、その幸福は崩れてしまう場合もある。また現実社会の生活が幸福にみえても、より広い次元からみるならば、耐えていけない不幸が待っているかもしれない。それらのすべてを乗り越えていける大きな境涯と強い生命力をもつための原動力が信仰である。そこに絶対的な幸福を築く基盤があるといってよい。
22  また御書に「仏法はあながちに人の貴賤には依るべからず只経文を先きとすべし身の賤をもつて其の法を軽んずる事なかれ」と。これは聖愚問答抄の有名な御文である。
 仏法の正邪は、それを持った人が貴い、また賤しいという違いによるのではない。社会的地位や財産があるとか、ないとかで決まるものでもない。
 財産があるためにかえって不幸になる例はいくらでもある。また財産がない人の方がかえって気楽で幸せな場合もある。(笑い)ゆえに、つねに法門を根本の基準とすべきであり、社会的地位や財産のいかんによって人を軽んじていくようなことがあっては絶対にならない。
 また、開目抄には「仏法は時によるべし日蓮が流罪は今生の小苦なれば・なげかしからず、後生には大楽を・うくべければ大に悦ばし」と仰せである。
 私どもも、長い人生のうえにあって、また長い広宣流布の旅路にあって、さまざまな苦難の日があるかもしれない。いな、あるのがとうぜんなのである。しかし、大聖人が、流罪は今生の「小苦」であり、やがて「大楽」にかわるとされたごとく、難があればかならず次には「大楽」の次元に入っていくことができると、深く信心をとるべきである。
 私もつねにそう心がけてきたし、そこに正しき信心の精髄があると確信している。以上をもって、本日の研修会の指導とさせていただく。

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