Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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江東区第五回懇親会 胸中に不動の信心を

1985.1.7 「広布と人生を語る」第7巻

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1  今夜は、すばらしき満月である。大月天に祝福されながら、新年を迎えての江東の第五回懇親会が開催され、わが同志の元気な姿を拝見できて、私はこれほどの喜びはない。
 また、本年、全学会員は、創立五十五周年という広宣流布の意義ある節にあたって、聖教新聞や大白華に掲載された御法主日顕上人猊下の、新春の御言葉を拝しつつ、健康を回復した秋谷会長を中心として、各地にあって、広布の活動を立派に始動されている。
 この江東の地にあっても確実に秩序正しく前進することを誓いながら、すばらしき、意義ある歴史をつくっていっていただきたい。
2  「江東」と聞くとき、すぐ思い起こすのは、意義と内容はまったく異なるが、司馬遷の『史記』に記された「江東子弟八千人」との言葉である。「江東」とは、揚子江下流の南岸の地方をいった。稀代の英雄であった「楚」の項羽が兵を挙げたときに、彼に従った江東の八千の子弟がいた。
 項羽は、八千の子弟とともに揚子江を渡って、西へ進み、楚の王となる。しかし、漢の劉邦と戦い、武運つたなく最後は全滅するという悲しい物語である。
 戸田先生から漢文を教えてもらい、『史記』で読んだ英雄・項羽の姿は、私の脳裏から離れない。
3  私は戸田先生に、項羽の生き方について質問もし、かずかずの教えも受けた。
 項羽は戦い(垓下の戦)に敗れ、揚子江の渡し場・鳥江にたどりつく。そこで、揚子江を渡り江東の地に戻れば、すぐれた子弟もいる。また王としても尊敬され、かならず再興を図ることができたであろう。歴史も変わったかもしれない。
 しかし、項羽は、自分は江東の若者八千人とともに出発したのに、いま一人も生還する者はない。なんの面目あって江東の父兄に顔向けできよう。たとえ彼らが何も言わなくても、良心に恥じないでいられようか、と言って、自害をし、悲劇の英雄として終わるのである。それが彼の、武将としての潔い人生観、生き方であった。
 古来、英雄の多くは、その人生を悲劇で終えている。それが英雄の歴史かもしれない。しかし、指導者は人を犠牲にしてはならない。いかに人々を生存せしめ、幸せにしていくか、ここに指導者としての要諦がある。
 項羽にしても、多くの有為な人材が全滅するのをなんとか回避し、多くの人々の生涯を全うさせ、長い人生をいかに闊達に過ごさせていくか――それを考えるべきではなかったか、と議論したことも、いまは懐かしく思い起こすのである。
4  第二次世界大戦でもそうであったが、いつの時代でも、愚かな指導者に率いられた民衆は不幸である。あまりにも犠牲が多い。
 ここに集まった江東の妙法広布の若きリーダーの諸君は、たとえ自分が犠牲になったとしても、人々を絶対に犠牲にしてはならない、との教訓を、この項羽の物語からくみとっていただければと思う。
 諸君は、英邁な指導者でなければならない。賢明な、聡明な指導者でなくてはならない、と強く申し上げておきたい。
 私はいかなる時でも、戸田先生を思い出すのである。人生の大師匠であるからだ。かつて「五人所破抄」の講義を受けたときに、戸田先生は、広宣流布の途上で「絶対に五老僧のごとき存在にだけはなるな」と厳しく指導された。この峻厳なる戒めを、私はつねにかみしめてきた。
5  御本仏日蓮大聖人が御入滅なされたあと、日興上人以外の日昭、日朗、日向、日頂、日持の五老僧はみな、「天台妙門」と名乗り、退転し逃げた。その内容と教義の次元ではまったく違うが、今日、広布にすすみゆくわが学会の最高幹部でありながら、退転し逃げ去っていくということも、これに通ずるといえるかもしれない。
 かの日朗をはじめ五老僧は、たいへんな功労者であるのに、なぜ、逃げたのか。
 その理由の第一は、大聖人を御本仏と信じきれなかったところにある。ただおひとり、二祖日興上人のみが、大聖人を御本仏であると、信解されていたわけである。
 第二点としていえることは臆病であったということだ。大聖人の時代は、大難の連続であった。とくに、大聖人御入滅後、再び迫害が強まり、五老僧は、権力を恐れたのである。小心であり、臆病であったといわざるをえない。
 また三点目としては、厳格な厳しき仏法の大師匠が亡くなられ、浅はかな自己の考えのみを中心としてしまったことにある。
 要するに五老僧は、信心の目的が成仏であり、仏法の目的は広宣流布にあるという、大原則を忘れさったために、大聖人の弟子として戦ってきながら、大聖人亡きあとは二祖日興上人を妬み、自分自身の弱き一念に負けてしまったのである。
6  次元はかわるが、広宣流布に挑戦しゆくわが学会にあっても、その方程式は同じである。一時期は真剣に戦い、大功労者といわれたとしても、組織の上にのって増上慢になり、自分自身の名聞名利に流され、広宣流布の前進を妨げるようなことがあっては絶対にならないのである。
 尊い仏子たちに迷惑をかけたり、自己の利害のために組織を利用したりしてはならない。また、会員を侮辱したり、自己の勢力をつくって組織を破滅しようとするのも、五老僧のいき方に通ずるといえよう。
 このような五老僧のごとき存在になった場合には、どのような立場になったとしても、けっして成仏はできないであろう。大善にそむくことは、大悪になるからである。最後まで立派に信心を貫きとおすことが、まことのリーダーであることを忘れてはならない。
 五老僧のごとき退転者にならぬ方途は、正しき指導を正しく受け行ずることである。そのためにも日蓮大聖人の御書を正しく拝することが必要になってくる。
 先輩の方々には、後輩の人々に対し、一言一句でも御書を拝していくよう指導をお願いしたい。
7  信心は永遠の幸福のため 
 日蓮大聖人の時代は、小松原の法難、竜の口の法難、さらには佐渡流罪など「大難四たび、小難数を知らず」の状況であられた。
 日蓮大聖人は御本仏であられるのに、なぜ、このようにかずかずの大難にあわれたのか。「祈りとして叶わざるなし」の御当体であられ、三世を通暁なされた御本仏であるならば、すべて自由に避けられたはずであると疑問に思う人もあるであろう。この問いに対しては、開目抄にお示しのとおり、示同凡夫として、全人類を救済せんとされた御姿であられたわけである。
8  われわれの信心の立場でも、交通事故、病苦、経済苦などさまざまな悩みをもつ人がいる。「祈りとして叶わざるなし」の御本尊の信心をしているのに、なぜか、と思う場合もあるにちがいない。
 とうぜん御本仏と私どもの場合では、根本的次元の違いがある。しかし、ここで大事なことはすなわち、さまざまな不幸な現象にぶつかったときの、信心の強弱、信心の厚薄である。その信心の厚薄が、その後の人生の分岐点となることを知らねばならない。
 たとえ不運な出来事があったとしても強盛な信心があるならば、その現証をば明快に自分自身で納得できるし、その納得したところにいっそう人生の希望と勇気がわいてくる。とともに、この現証を起点として、未来永遠にわたり、確かなる妙法の“幸福”の軌道へ進みゆくことができうるのである。
 こうして、一生、三世にわたる生命の流れのうえにあって、宿命を大転換していく道こそ妙法であり、信心なのである。
9  それぞれのもちあわせた宿命というものは消せないものだ。また、その不幸の原因というものは、凡夫にはわからないものである。さらに、不幸が倍加されていくかどうかも、また、知りうるものではない。しかし、信心強盛ならば、そのすべての淵源を自己の一念で知ることができるし、宿命を転換させながら、その一念は幸福の太陽の昇がごとく輝きわたっていくのである。ここに信心の真髄があることを知らねばならない。
 御書に「利根と通力とにはよるべからず」と仰せである。
 人生も社会も、神がかり的な生き方や、手品師的な解決法はありえない。人生も一般社会の実相も、つねに地道に、正しく営々と積み重ね、築きあげていくものである。
 広宣流布の伸展によって、「吹く風枝をならさず」と如説修行抄に仰せのような、すばらしい時代になっていくことはまちがいない。
 だが、各人の幸福は、信心による冥益を一人ひとりが積み重ねていく以外にないのである。
10  信心の目的は成仏である。成仏は、永遠にわたる崩れざる幸福境涯である。罰、功徳といっても、究極は成仏のための秘妙方便にすぎない。ゆえに、すべての眼前の現象は、信心をさらにつよく深くせしめていくためのものである、ととるべきである。
 何があっても、御本尊を信じぬいていくことが大切であり、そこにのみ成仏の道があることを知らねばならない。
 法華経の薬草喩品に「世間の楽 及び涅槃の楽を得せしむ」とあるごとく、大聖人の仰せどおりの信心を貫いた人は、生々世々、世間の楽、涅槃の楽という大境涯を受けることは絶対にまちがいないと確信する。
 目前の幸福が一生涯続くわけではない。目前の不幸の現象が一生涯くりかえされるものでもない。信心は、世間の次元ではなく、三世、永遠の観点から見ていかねばならないのである。
11  三世を通達解了あそばされた御本仏日蓮大聖人にあられても、いっさいの御法難をば堂々と真正面から乗りきられたと拝するのである。
 われわれ信徒もまた同じく、自己の人生、広宣流布の途上に横たわるいくつもの難を覚悟してうけていくことが大切なのである。信心してもしていなくても、それぞれの人生にあって苦難の山は堂々と乗り越えていくことが、人間としての正しいあり方である。
 いわんや、使命ある信心に立った私どもは、自己のため、社会のため、法のため、難を避けるのでなく、すべてをうけ、乗り越えていく姿勢が大事である。そして、なにごとがあっても動じない、不動の信心をもった一念三千の当体を確立していくところに、信心の極意があることを知っていただきたい。
 江東は小島総合本部長、横山区本部長を中心に、仲良く前進していくことをお願いして、本日の話としたい。

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