Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

海外十一か国の代表勤行会 ”信心の長者”と輝く人生を

1984.8.12 「広布と人生を語る」第6巻

前後
1  熱暑のなか、十一か国の友が来日され、各国の登山会あるいは小グループで総本山に参詣された。これほど尊いことはないと、私は心から讃嘆申し上げたい。
 皆さま方は、創価学会の牧口初代会長、戸田第二代会長をご存じないかもしれない。だが、この両会長は、偉大なる庶民の“広布の先達”であった。
 今日の日蓮正宗創価学会の世界的な興隆は、本門戒壇の大御本尊の仏力・法力の賜物であることはとうぜんであり、また御歴代の御法主の大慈悲によることはもとよりであるが、庶民、大衆のなかに、生命をかけて広布の道を拓いたのは、牧口、戸田両会長あったればこそであると申し上げておきたい。これは厳然たる歴史的事実であるからである。
 各国にあって、それぞれの社会のなかで、御本尊を信受し広布の使命の道を歩んでおられる皆さま方もまた、妙法広布に生きぬいた両会長の同志として、各国での“広布の先達”ともいうべき存在なのである。その誇りを忘れず、清らかな信心を貫き通していただきたい。
2  両会長の、われわれが信心の範とすべき一点は、大難を受け入獄しても退転をしなかったとの「不退の信心」のすばらしさにある。この大難に比べれば低次元の非難・中傷などはものの数ではない。それらに紛動され信心を失うことほど愚かなことはない。「退転」は日蓮大聖人の門下ではなくなることであり、幸福への道をふさぐことになることを知ってほしい。
 学会は、牧口、戸田両会長を中心として、大聖人の仰せのごとく異体同心で進んできた。悪世末法の次代にあって、唱題を重ね、弘教に励み、同志は互いに励ましあいながら、営々として広布に挺身してきた。その結果、世界に誇る日蓮正宗創価学会が築かれてきたのである。
 ゆえに同じく、いかなる国にあっても中心者のもとに団結して、中心者を支えながら信心を貫いていただきたい。そうでなければ広布の発展はないのである。
3  ともあれ、中心者という存在は各国にあって軸の存在である。軸がなければ、なにごとも回転しないし、確実に進まない。これはものごとの道理である。団結なき前進には、広宣流布の発展もけっしてないからである。
 信心は正々堂々たるものでなければならない。正々堂々たる信心の一生をお願いしたい。ゆえに、登山や研修会への参加も、中心者がきちんと知り、激励をする。
 また帰国しても、きちんと報告し、喜びあうというものでなくてはならない。
 すっきりした一念の姿勢が信心である。そこに、功徳は大海のごとく満ちてくるのである。なにかこそこそとしながら、“裏口”から入ってくるような姿勢や信心であってはならない。
 総本山に参詣のため日本へ来られたことは、まことに立派であり、私も心から讃嘆したい。日本の方々も、来日を心からたたえ、大事にしてくださる。しかしそれで“自分がえらい”と錯覚してはならない。日本に行けば大事にしてもらえるので楽しいが、自分の国にあっては、おもしろくないと思う人は、真の信心とはいえないであろう。
 ともあれ、日本に来て大事にされたからといって、帰国してから中心者やリーダーを批判するようになっては、何の意味もなくなってしまう。よくよく、この点を留意していただきたい。
4  本門戒壇の大御本尊の仏力・法力は絶大であられる。ゆえに総本山に参詣し、また御本尊に題目を唱えていけば、大功徳がある。その大確信をもっていただきたい。
 だが、こういう場合は功徳がないと仰せの御書がある。それは「十四誹謗」をおかした場合である。
 ここでそのうちの「軽善」「憎善」「嫉善」「恨善」の四つをあげておきたい。
 「軽善」とは、簡潔にいえば、正しき信心をしている人を軽することである。「憎善」とは、正しき信心をしている人を憎むことである。「嫉善」とは、正しき信心をしている人を怨嫉し、和合僧を破る働きをすることである。また「恨善」とは、正しき信心をしている人を恨むことである。
 私も退転した人、不信誹謗の人を見てきた。多くの人々は、はじめは求道心に燃え、純粋に信心をしている。それが年を経るごとに、しだいに信心の情熱を失ってくると、縁にふれてそうした四誹謗をおかしてしまうことがある。
 正しき意見の交換とか、また正しき信心上の指摘をしあうことは、これは当然のことである。しかし、たとえば役職上の不満とか、厳格な指導に対する反発とか、自分を重要視してくれないという、いわばわがままな場合がある。それらは、すべて求道心ではなく、いわゆる自己本位の名聞名利に走っている人々なのである。それでは、清き信心とはいえない。
 このような、功徳を消しゆく謗法をおかしては、損である。逆に、信心しているがゆえに誹謗された人は、それを縁として罪障を消滅させ、福運をいよいよと積んでいることを確信してほしい。
5  大聖人の仏法は、人間生命を対象にされていると拝せるが、同時に「国土」の重要性も御教示されている。「国」が平和であってこそ、そこに住む人の幸福があるのである。ゆえに、それぞれの国を大事にすることは、当然の理である。
 また、国のとらえ方については、現在のように経済体制とか主義主張の次元や文化次元から分ける考え方もあるが、御書には「国」について、寒国・熱国・貧国・富国・中国・辺国・大国・小国というように説かれている。あるいは、小乗教、大乗教に縁する国とのたてわけもある。つまり、世界にはさまざまな国があるわけである。
 しかし大事なことは、どのような国であっても、そこに住む人々が、宿命を転換し、成仏していけるかどうかである。
 貧国、富国といっても、そこに住む人々によって、変わってくるのである。あくまでも重要なことは、一生成仏という幸福な道を、そして繁栄の道を歩んでいくかどうかである。まず、自分を革命していくことから、すべてが始まっていくことを知っていただきたい。
6  かつて戸田先生は、猛暑のなか、総本山へ参詣した人々の姿をみながら、「これほど尊い姿はない」と涙しておられた。当時は皆、貧しい姿であった。
 また、猛暑のなか、本部の幹部会に馳せ参じていた人々の汗の姿をみながら「この人たちがいなければ、広宣流布はできない」と涙していた。そして、私に「この尊い仏子を生命の続くかぎり守ってほしい」と肺腑をえぐるようにいわれた。
 大聖人の御在世当時も、高齢の身でありながら、はるばる佐渡の地から身延の沢の大聖人のもとを訊ねた阿仏房の信心を、大聖人はことのほかめでられている。
 いわんや皆さま方は、遠い国から、総本山へ参詣のため来日されている。大聖人の御称讃は絶対にまちがいないし、三世の仏菩薩、諸天善神が加護しないわけはないと確信されたい。
 生命は永遠である。どうか、皆さまは、各国にあって、信心における“王者”“信心の長者”となって、一生を飾っていただきたい。一生、若々しく、楽しく、生きぬいていてください。これからの人生が、ご長寿で、ご多幸であられんことを心から念願し、本日の私のスピーチとしたい。

1
1