Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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兵庫県代表幹部信心懇談会 大法弘通のための組織を

1982.4.17 「広布と人生を語る」第3巻

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1  私は、少年時代に読んだ詩の一節を、いまもって忘れることができない。それは次の一文だった。
  踏まれても 踏まれても
    なお咲く タンポポの 笑顔かな
 そこには、いかに苦しき日であっても、笑顔を忘れず、たくましく生きぬいていく庶民の姿が描かれていた。
 庶民を大切にしなければならない。民衆を大切にしなければならない。中世にあっては、皇帝、国王などの為政者たちの手段とされてきた民衆。しかし、時代の変遷とともにいまや、民衆を味方にしなければ何もできない時代が到来した。私はそれがうれしい。
 民衆を味方にできえない者は、最後は衰退していく。結局、根無し草に終わってしまうだろう。ともあれ、時代は“市民”“民衆”がもっとも力をもつ時代にはいった。宗祖日蓮大聖人の仏法はこれら民衆をもっとも重要視している大法である。
 とともに、わが創価学会も、徹底して一人ひとりに力をそそぎ、つくりあげた組織であるから強い。けっして滅びないのである。
2  兵庫の皆さまも、この数年間、風雪に耐えながら、よく戦ってこられた。だがここで、もう一度、幹部の方々と、信心の基本をしっかりふまえるために語りあいたい。
 まず第一に、日蓮正宗の伝統法義をあくまでも信心の基本としていかなければならない。その基本のうえに立って、大法弘通のための座談会、折伏、教学の行動であっていただきたいのだ。
 創価学会の組織は、広布、信心、庶民のための組織である。また、総本山外護のための組織であり、大法弘通のための組織であることを忘れてはならない。
3  関西の中心的リーダーは和田副会長である。また、和田、西口副会長のコンビが、その中核となっていく。ゆえに、地元の最高幹部も和田、西口副会長とつねに連係をとりながら、流れをつくっていくべきである。そこに大関西の魂が通いあい、より効果的な発展がなされるにちがいない。少しの空転があっても会員がかわいそうであるからだ。
 大勢のなかで講演することだけが、信心修行ではない。また、大勢の会合のみを繰り返すことが、真の信心の世界とはいえない。あくまでも、悩める人、悲しみ苦しんでいる人々の味方になることが、仏法であり、それこそ学会の根本精神であることを永久に忘れてはならない。ここに日蓮大聖人の大慈大悲の御心があると信ずるからである。広布のリーダーである幹部は、この精神と行動を失っては幹部とはいえない。
4  とくにこの数年、悪いマスコミの影響や陰謀画策の人のために、退転し去った人がいる。真剣に、永年かかって勤行を教え、指導をしてきたわれわれにとっては、退転者がでることはまことにつらいことである。しかし、恐れてはならない。感傷的になってもならない。一人退転したならば五人の人を味方にする決意で進めばよいのである。
 そもそも退転者の本質を分析すると、利害であり、名聞名利である。名声を得たい、早く幹部になりたい等々、要するに、信心修行なくして、あくまでも自分の悪業によっていることは絶対にまちがいないからだ。
 仏法の原理からみるならば、魔の眷属となって正法の世界を誹謗すれば、いかに正当化の論理をつくっても、その心は地獄・餓鬼・畜生であると、経文には説かれている。
 戸田第二代会長は、よくいっておられた。退転し、反逆のキバを向けた者に対し「とうとう本性が出たな」と。つまり、その本性は信心がなかったという証左なのである。ゆえに、驚くことはない。
 私どもは、御書に説かれているとおり「貴辺あに真金に非ずや」といわれる真金の信心で一生を貫いていくのである。少し嵐が吹けばメッキがはがれるような信心では、真の信仰者とはいえないのである。
5  広布の大道は、人材の育成によって決まる。私は、参謀室長の時代より言論問題のときまで、多くの人材を鍛練してきたつもりだ。その当時、鍛練しきった幹部は、広布の柱となり、嵐に耐えて学会を支えてくれた。ほとんど退転者がでなかった。それ以来、少々疲れ、今日にいたるまで、手をぬいたぶんだけ、人材の育成への力が弱まったと反省せざるをえない。立場はどうあれ、万代の磐石な広布のために、もう一度、その基礎から始めなくてはと思っている。
 私は、これまで多くの人をみてきたし、多くの体験をしてきた。才智ぶった人、要領のよい人、傲慢な人、臆病な人等々は、結局、途中で、崩れさっている。そのなかで嵐に耐え、学会を不動の信心で支えてくださったのは、多くの無名の庶民であった。このことだけは断言しておきたい。ゆえに、私は、無名の学会員を大切にもしてきたし、これからも大切にしていきたいのだ。皆さまも、そうであっていただきたい。
 私は、この数年来、幾人かの友に語った。「勇気、勇気、勇気だ」と。「希望、希望、希望だ」「忍耐、忍耐、忍耐だ」と。
 御法主上人猊下を訴えるような小才子たちのつくり話、陰謀などは、明確に見破っていたからである。
6  座談会はもっとも地道であるが、信行学の重要な鍛練の場である。人数は多くはない。また派手でもない。しかし、この地味な座談会につねに参加している人は、信心の姿勢が安心である。
 ともすると、幹部のなかには、派手な会合のみに走り、この庶民の集いきたる会合を軽く考えている人がいる。そういう人こそ、最後は信心の世界からおちていく場合が多々あるものだ。最近、退転し、学会に誹謗、中傷をくわえている連中も、ほとんどそうであった。基礎の鍛練、修行を経ない人は、信頼される指導者にはなれない。
 学会の力の縮図は座談会である。兵庫は、愛知県、神奈川県とほぼ同じ最高十七万人前後であったが、本年一月から力を入れ、二十五万人を突破したと喜んでいた。幹部の真剣な姿勢、努力と、それを支えていく第一線の団結がいかに強いかの証明といってよい。兵庫県においても、同じく、純粋な信心指導の歩みをお願いしたい。
 なお、とくに婦人部の方々の意見も十分に聞きながら、満足できる、余裕のある会合をお願いしたい。
 この地道な座談会に、多くの人が集まらないと嘆く地域の中心幹部がいるかもしれない。しかし、そこに参加する庶民と、この座談会を盛り上げようと苦労していく人々こそが、現実の地域に根をはった広宣流布を支えているということをつねに忘れず、応援してあげていただきたい。
 この座談会を経ることが、一歩一歩、石段を上るように、たしかな仏道修行となることを幹部は忘れてはならない。
7  教学についても同じである。講義がすばらしい、理論の展開がすばらしいといっても、けっしてその人が偉いのではない。大法が偉大なのである。それを本末転倒して、さも偉そうに見せたり、偉そうに思うことは、まちがいである。
 日蓮大聖人の仏法の教義は、あくまでも御法主上人猊下の御指南こそ根本なのである。日蓮正宗の法義、伝統のままに、そしてまた、死身弘法の実践があってこそ、はじめてその人の講義は光るのである。
 それを、講義のための講義、実践修行なき講義、才智と弁舌だけの講義や理論のみの展開は、「事」でなくして、もはや「理」である。また、我見をふくめて「催尊入卑」であることを、私は厳しくいさめておきたい。
 大聖人の仏法の根本は「信」である。その信心を深化させるための教学でなければならない。そのためには、幾度となく正宗の教義の基本を、すなわち御書を、繰り返し学ぶことだ。そして、その基本を徹底して体得していかなければならない。
 その人のみが、時代に展開することが可能になるのである。
8  信心もなく責任もなく、誠実さもなく、利口げに講義をしたり、講演をしたりしている人の姿に、けっして幻惑されてはならない。あくまでも法を学ぶことが根本であるからだ。
 また、私ならびに学会を中傷し、批判している言にも惑わされては損である。かのドン・キホーテは風車を巨人と見、羊の群れを大軍と思った。いま、私どもを攻撃しているのも、同じ姿といってよい。
 ともあれ、幹部だからといって信用できない場合もある。つく人をまちがえてはならない。信心がたしかであるならばしぜんにわかっていくものだ。
 法華経を学んだ人は多い。宮沢賢治、高山樗牛、石川木もそうであった。また、世界にも学者は多い。マルクス、ヘーゲル、アインシュタイン等々。日本においても、また数多くの学者がいる。
 しかし、大聖人の仏法は悟りの仏法である。知識として学ぶのではない。ゆえに、それは、信じ、行じていくことが正しいのである。
9  五月三日が近づいた。思うことは多々ある。私は昭和三十二年にいわゆる“大阪事件”で、公職選挙法違反の疑いで裁判にかけられた。とうぜん無罪であった。だが、その裁判のために、第三代会長に推されても、裁判が終わるまではと、就任が延びてしまった。しかし、裁判も長引くようすをみせ、学会の前進の速度も弱まってきたので、皆から「どうしても」といわれ、昭和三十五年五月三日、第三代会長に就任したのである。
 第三代は学会の将来を永遠ならしめるか、滅亡に向かわせるかを決する、重要な代であると思っていた。いま、ご存じのように、大御本尊に照らされ、皆さまの力によって、磐石な学会となった。
 私が就任してまもなく、当時の御法主日達上人猊下にお目通りしたさい、猊下は「戸田会長からよく聞いております」とおっしゃった。また、当時の総理大臣にあいさつしたさいにも「よく戸田会長からうかがっています」といわれた。そのほか何人かの方々にあいさつに行ったが、皆同じ言葉が返ってきた。ここまですべてに手を打ち、配慮してくださった人生の師である戸田先生を、私は忘れることはできないのである。
10  だれしも悩みがある。幹部も同じである。しかし、大聖人のお使いとして、日夜、広布に活動することは、まことに尊い。その人のなかに、黄金の大法があるからである。外観の姿がどうあれ、ひとつも恥じることはない。活動しない人々が、いかに裕福そうに見え、楽しそうに見えても、その人のなかには、大法は輝いていない。
 すべては、大御本尊が御照覧あそばされているのである。これを確信するのが信心である。
 臨終において、人生の総決算の勝利か敗北かが、厳然と決まるのである。ゆえに私どもは、仏道修行させてもらっていることを感謝し、喜び勇んでいかなければならないのである。
11  時代は、しだいに、不安定になってきたように思える。人々はますます苦悩多き時代に入ったといえるかもしれない。皆、妙法を唱えたいのである。ただ、立場を考え、利害にとらわれ、感情で、また無認識のために、信心ができないだけのことである。
 ますます信心が必要になってきたことを、確信していだたきたい。その出発がいまなのである。末法万年尽未来際への栄誉ある出発をしていることを、最高の誇りとしたいものである。
 仏法は勝負である。末法は闘浄言訟の時である。すなわち、善悪の基準がわからなくなった荒廃した時代なのである。どうか力ある一人ひとりになっていただきたい。そして、大兵庫の新しい出発をお願いしたい。

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