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日蓮大聖人・池田大作

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第2回北海道青年部総会 生命と社会の冥合、相即の思想を

1974.9.29 「池田大作講演集」第7巻

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4  「断常の二見」と「中道」
 次に、一念三千の理法に関して「中道」ということを申し上げましたから、今度はその「中道」について少々、説明を加えてみたいと思う。
 「御義口伝涌出品」のところに「断常だんじょうの際をゆるを無辺行と称し……」という一句があります。これを日寛上人が「断常を踰え辺際なしとは中道常住である。ゆえに無辺行は常を表すのである」と解説してくださっております。中道以外に常住の法はありえない。その点を悟って実践に移していける徳を備えた人こそ、地涌の無辺行菩薩にあたるのだ、というご教示であります。
 もともと仏教は、小乗、大乗、迹門、本門を問わず、一貫して中鉢をいくことをめざすものであります。小・大・迹・本――それぞれ法門の浅深はありますが「中道」という一点は貫かれているのであります。
 では、その中道とはいかなのものか、というならば「断見」と「常見」という二種類の偏見を排除して、もっぱら現象界に知性を向ける態度を「中道」というのであります。さきほどの「断常の際を踰ゆる」とは、このことをさしているのであります。
 では「断見」とは何か。これは“すべての物事はやがて断滅して一切が空無に帰する”という考えであって、生命や世界の永遠性を信じないのであります。いわゆる唯物論の認識原理などはこれにあたります。
 「常見」とは、その反対に物事のなかに永遠性をみてとるが、その見方が誤っている。すなわち「常見」とは“現象の変化の背後に、それとは別に超越的な不変の永遠の本体がある”と主張する立場であって、これに属する考え方は、天地創造の神が存在すると説くキリスト教がそうであり、また哲学としてはアリストテレス哲学の存在論がそうであります。彼は、現象の奥に潜む不変の本体を知ることが、事物の根源を把握するのだという主張をしたのであります。だが、これは明らかに仏法で戒めている「常見」でありまして、いまではそれらも哲学の内部からさえ非難され、排除されていることでわかるのであります。
 こうした「断常の二見」は、その主張内容がまったく正反対であるにもかかわらず、現象の背後の、見ることもできないものを勝手に設定し、そういう存在、非存在をなんの根拠もなく独断している点では、ともに誤っているといわざるをえないのであります。仏法においては、こうした「断常の二見」を越えて中道を認識せよと説き、そこを無辺行菩薩の徳性とも称しているのであります。
 そして、この「中道」こそ“理法”によっていえば「三諦円融」の中道であり“事法”に顕したときには、即文底下種の大御本尊と顕れるのであります。ゆえに、この「中道常住」の境地は信心の「信」の一字から始まることはいうまでもありません。「御義口伝」にいわく「されば地涌の菩薩を本化と云えり本とは過去久遠五百塵点よりの利益として無始無終の利益なり……此の本法を受持するは信の一字なり、元品の無明を対治たいじする利剣は信の一字なり無疑曰信むぎわっしんの釈之を思ふ可し云云」と。
 いずれにしても、この「中道論」を、これからなんらかの機会に、私も申し述べたいと思いますし、諸君にもまた人生観における正しい“中道の道”を歩んでいただきたいために、その一端を申し上げたしだいであります。
 私は、昨年の総会において、明治の開道初期の指導理念は“ピューリタニズム”であった。だが、今後の指導理念は“妙法”という生命哲理でなければならないと申し上げましたが、このことはすなわち「断常の二見」を越えて、「中道」の理を興隆することでもあるのでありますから、どうか諸君はますます御書に親しみ、智勇兼備の人材と育っていただきますよう、心から念願してやまないしだいであります。(大拍手)
 最後に、諸君のご多幸、ご健康と、また激しいインフレに倒されないようにと、心からお祈り申し上げて、きょうの私の話を終わらせていただきます。長い時間、ご苦労さまでございました。(大拍手)

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