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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京本部幹部会 広布は人類の要求

1973.3.31 「池田大作講演集」第5巻

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4  信心の人のみ“真我”を体得
 さて、以上のような日常的自我は、これは所詮、有漏の煩悩を主体とした、表面的な自我といわざるをえない。その奥に、非常事態に直面して、ハッとわれにかえったときに現れるような内奥の自我かあります。仏法的にいえば、無漏の自我であります。六道に対する四聖の自我であります。そして、更にその奥に根本的な自我の体があります。
 それは、こうした人間の内奥における自我、四聖の基盤であり「真我」といってもよい。有漏、無漏に対する、非有漏、非無漏の自我、あらゆる大哲学者、大思想家たちが心魂こめて求め続けたところの自我、これこそ妙法仏界の自我であり、南無妙法蓮華経の大生命なのであります。
 この尊い真我、つまり真の自我は、九界本因において求めれば、信心以外のなにものでもない。信心の唱題の人のみが、この自我を味わうこうとができ、信心を貫いた人のみが、これを体得することができるのであります。仏界本果において求めれば、御本仏日蓮大聖人のご境地そのものであります。我々が折伏を行じ、広宣流布をめざすのはなんのためであるか。それは、あらゆる人が、生まれつき本然に自己の究極的自我の発揚、拡大を求めるからであります。それが人間の生存本能だからであります。
 広宣流布は仏意仏勅であると、ひとくちにいってしまえばそれまででありますが、以上のように自我の観察から問題をリサーチ(探究)してみれば、人類全体の生存本能上の先天的な要求であることが明らかである。ただ、それが的確に人類に自覚されていないだけなのであります。
 広宣流布は、明らかに人類の要求であります。「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」との仰せは、以上のような関係性を奥底まで見通しておられたゆえの大聖人のお言葉ではないかと、私は確信しているのであります。
 人々は皆、真実の永遠的真如の自我の発揚を求めながら、それぞれに九界の自我のなかに閉じこもっております。その解放は大御本尊による以外にない。妙法による以外に絶対にありえない。
 大聖人は大御本尊を「此の経の文字は皆ことごとく生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり、唯相構えて相構えて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし、心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし」と仰せであります。
 九界の自我はそれぞれ異なっているため、御本尊をその境地でみてしまう。しかし、真如の自我は、この御本尊による以外、絶対に顕現しないのであります。絶対的な幸福は、ここにしかないのであります。ゆえに、なにがあっても決して退転はしてはならない。退転は自我の破壊であり、そしてまた、自我の死に通じるからであります。
 佐渡御書には「これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」と申されております。
 広宣流布は第二章に入りました。我々は大御本尊を無二と信じ奉り、人にも勧めて、大御本尊を心の師として、真実の幸福境涯を獲得し、貫き通してまいろうではありませんか。
 最後に親愛なる皆さまのご健康、ご活躍を心からお祈りして、話を終わります。(大拍手)

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