Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二東京本部幹部会 広布は人類の要求

1973.3.31 「池田大作講演集」第5巻

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3  自我について
 次に私は以上にあげた御書や経文をよりどころとしまして、古今、哲学界の最大のアポリア(難問)とされている「自我」というものについて、その断面にふれてみたいと思います。
 自我――つまり自身の内奥的、根源的存在は、法華の法門においては常楽我浄の我、あるいは地涌の上行菩薩として、あるいは一念三千の一念心として、というように、さまざまな角度から説き示されているのでありますが、そこへいきつくまえに、まず当然の常識として、だれでも自分を内省してみれば、自分が存在していることはすぐわかります。それによって類推してみると、どの他人にも、それぞれ自我があることは認めざるをえないところでありましょう。これは、日常的な自我であります。仏法で説く「真我」としての自我は、その日常的な自我の奥に存在しているのであります。
 こういう日常的な自我というものは、他人から無視され、黙殺されると、疎外感に満たされ孤独を味わい、戦場へ駆り立てられたりするような異常事態が突発しますと、ハッとわれにかえって、自我は、存在するものはわれ一人のみという、絶対的孤立感に支配されてしまうものであります。
 また、こうした日常的な自我は、対人関係、社会関係のなかでは、つねに縮小と拡大とを繰り返していきます。利用されたり、しかられたり、いやしめられたり、けなされたり、きらわれたり、罰せられたりしたときは、それらの強度に比例して、自我は縮小するものであります。反対に、ほめられたり、尊重されたり、優遇されたり、賞を与えられたり、愛されたりしたときには、自我は拡大していきます。ただし、四悪趣的自我を拡大してしまっては、無慈悲であり「慈無くして詐り親しむは即ち是れ彼が怨なり」となります。こういう事実があるからこそ、正しい論理では「他人を自分のオルガノン(道具)として利用してはならない」と戒めるのであります。儒教で「己の欲せざる所を人に施すことなかれ」というのも、まったく同じ見地からの発言であると、私は思う。
 世の中には、イキが合ったとか、ウマが合うとか、相性がいいなどという表現がありますが、これは、互いの自我が結び合った状態を示しているのでありまして、英語ではこの結び合いを「ラポート」といっております。このラポートは友好のうえではきわめて大切なことと思うのであります。
 これについてある本では、「積極的に、心のベルトをかけようとするには、どんな手を打ったらよいか。その第一歩は、相手への関心を示すことである。その示し方は二通りあって、①わたしはあなたを認めている、無視していない、②あなたについて知っている、この二つである」という意味のことをいっております。
 人間の自我は、このときはじめて独我的自己より救い出されて生きいきと拡大し、使命を自覚するにいたるのであります。この局面においては「沈黙は金である」とうい格言は、むしろ誤りであり、有害であり、理解と親切な会話こそが金となる、と私は申し上げたいのであります。我々は互いに尊重しあい、互いによく知り合い、対話に対話を重ねて異体同心の輪を広げつつ、互いに相手の自我を拡大してあげることに勤めていこうではありませんか。これが人間連帯の広布の波となっていくのであります。
 ただし、自分で自我を拡大していこうと働くのは、勤行、唱題のとき以外は、エゴイズムに陥る危険性があるということも忘れてはならない。相手の自我拡大に努力した人だけが、その果報として、自分の自我が拡大するといえるのであります。
 対話といい、指導といい、折伏といい、すべてはこの方程式でなければ、功徳を生まないと思います。折伏は折り伏せることではないかと批判される場合がありますけれども、その真義は悪心を折ることによって、その奥に隠れていた、その人の自我を引き出し、拡大することなのであります。どうか、よくよくこの方程式に徹して、立派な仏道修行者として、また人間として、大成されますことを、私は心からお願い申し上げるものであります。
4  信心の人のみ“真我”を体得
 さて、以上のような日常的自我は、これは所詮、有漏の煩悩を主体とした、表面的な自我といわざるをえない。その奥に、非常事態に直面して、ハッとわれにかえったときに現れるような内奥の自我かあります。仏法的にいえば、無漏の自我であります。六道に対する四聖の自我であります。そして、更にその奥に根本的な自我の体があります。
 それは、こうした人間の内奥における自我、四聖の基盤であり「真我」といってもよい。有漏、無漏に対する、非有漏、非無漏の自我、あらゆる大哲学者、大思想家たちが心魂こめて求め続けたところの自我、これこそ妙法仏界の自我であり、南無妙法蓮華経の大生命なのであります。
 この尊い真我、つまり真の自我は、九界本因において求めれば、信心以外のなにものでもない。信心の唱題の人のみが、この自我を味わうこうとができ、信心を貫いた人のみが、これを体得することができるのであります。仏界本果において求めれば、御本仏日蓮大聖人のご境地そのものであります。我々が折伏を行じ、広宣流布をめざすのはなんのためであるか。それは、あらゆる人が、生まれつき本然に自己の究極的自我の発揚、拡大を求めるからであります。それが人間の生存本能だからであります。
 広宣流布は仏意仏勅であると、ひとくちにいってしまえばそれまででありますが、以上のように自我の観察から問題をリサーチ(探究)してみれば、人類全体の生存本能上の先天的な要求であることが明らかである。ただ、それが的確に人類に自覚されていないだけなのであります。
 広宣流布は、明らかに人類の要求であります。「広宣流布の時は日本一同に南無妙法蓮華経と唱へん事は大地を的とするなるべし」との仰せは、以上のような関係性を奥底まで見通しておられたゆえの大聖人のお言葉ではないかと、私は確信しているのであります。
 人々は皆、真実の永遠的真如の自我の発揚を求めながら、それぞれに九界の自我のなかに閉じこもっております。その解放は大御本尊による以外にない。妙法による以外に絶対にありえない。
 大聖人は大御本尊を「此の経の文字は皆ことごとく生身妙覚の御仏なり然れども我等は肉眼なれば文字と見るなり、例せば餓鬼は恒河を火と見る人は水と見る天人は甘露と見る水は一なれども果報に随つて別別なり、此の経の文字は盲眼の者は之を見ず、肉眼の者は文字と見る二乗は虚空と見る菩薩は無量の法門と見る、仏は一一の文字を金色の釈尊と御覧あるべきなり即持仏身とは是なり、されども僻見の行者は加様に目出度く渡らせ給うを破し奉るなり、唯相構えて相構えて異念無く一心に霊山浄土を期せらるべし、心の師とはなるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文ぞかし」と仰せであります。
 九界の自我はそれぞれ異なっているため、御本尊をその境地でみてしまう。しかし、真如の自我は、この御本尊による以外、絶対に顕現しないのであります。絶対的な幸福は、ここにしかないのであります。ゆえに、なにがあっても決して退転はしてはならない。退転は自我の破壊であり、そしてまた、自我の死に通じるからであります。
 佐渡御書には「これはさてをきぬ日蓮を信ずるやうなりし者どもが日蓮がくなれば疑ををこして法華経をすつるのみならずかへりて日蓮を教訓して我賢しと思はん僻人びゃくにん等が念仏者よりも久く阿鼻地獄にあらん事不便とも申す計りなし」と申されております。
 広宣流布は第二章に入りました。我々は大御本尊を無二と信じ奉り、人にも勧めて、大御本尊を心の師として、真実の幸福境涯を獲得し、貫き通してまいろうではありませんか。
 最後に親愛なる皆さまのご健康、ご活躍を心からお祈りして、話を終わります。(大拍手)

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