Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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関東男子部総会 時代は”創造社会”を要請

1973.3.4 「池田大作講演集」第5巻

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6  広布の社会とは“創造社会”
 さて、個人の信仰の目的が、一瞬一瞬の価値創造にあるとするならば、私どものめざす社会、すなわち広宣流布の社会とは、いかなるものであるのかということになります。この点につきましては、いままでも種々申し上げ、これからも具体的にはさまざまな角度から明確化していくようになると思いますが、私はそれを端的にいうならば“創造社会”と呼んでおきたい。
 それは、人間が人間であるための社会ともいえるし、一人ひとりがつねに向上してやまい社会といってもよい。こうしたいい方は、あるいは、漠然としているように思えるかもしれない。しかし、私どものめざすものは、決して無味乾燥な定型化された社会ではない。無限に創造性を開発していける社会であり、私は、それこそ広宣流布の実像の姿であると確信するのであります。
 かつて、理想社会――ユートピアを未来に描き、それをめざした時代もあった。いまでも、そのためには現在を犠牲にしてもよいとして、そうしたものを追い求めている人もいる。そうしたユートピア思想は、確かに虐げられた民衆にとっては救いであったでありましょう。
 すでに述べたように、仏法の説いている理想社会とはそういうものではないし、人間が求めているものも、そうした定型化された理想社会でないことは明らかであります。むしろ、そうした定型化のもとでは、いかに深刻に、強力に生命が虐げられるものか。その人間性の苦難を象徴しているのが、現代だともいえるのではないでしょうか。過度に管理された文明社会にあって与えられたいっさいのものを排除し、原始の状態を憧憬するヒッピーの姿は、まさしくそうした安定社会に対する告発以外のなにものでもない、と考えるのであります。大事なことは、一人ひとりの人間がどう生かされ、創造性を発揮していけるかということであります。
 以上を要約していえば、個人において成仏とは何か――豊かな、たえざる創造力の根源こそ仏界であり、それを内に開き、外に顕していくのが、私どもの実践行動にほかならないのであります。
 そして広宣流布とは――依正不二の原理にしたがえば、この宗教運動の基盤のうえに、正報たる生命の創造力を最大限に発揮させていく環境づくりをしていくことである、と申し上げておきたい。すなわち、社会全般に開かれていくことであるといってよい。
 したがって、成仏といい、広宣流布といっても、終わりのない革命であり、妙法という本源的な生命の泉をみつつ、永久に持続していく人間と社会と文化のたえざる革命であると、私はいわざるをえないのであります。
 どうか、諸君たちもそのつもりで、日々の仏道修行、広宣流布、いわゆる創価学会の活動に励んでいっていただきたいのであります。「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」――我々の究極の人生観ともいうべきこの御金言を胸中深くいだき、わが同志がますます強盛にして柔軟なる敢闘をされんことを祈って、私の話を終わります。(大拍手)

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