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日蓮大聖人・池田大作

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関東男子部総会 時代は”創造社会”を要請

1973.3.4 「池田大作講演集」第5巻

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5  仏界とは“価値創造の根源力”
 さて、それでは仏界とはいかなる生命であるかということが問題になります。これは難問中の難問でありますが、それは仏界の生命それ自体は、生のかたちでは現れないゆえであると思う。地獄界、畜生界、修羅界のように日常の生活のなかで、つねに現れるものであれば理解は簡単でありますが、仏界はそうはいかない。そこで、さきに九界の根底にあって、それを自在に発動させていくのが仏界であると申し上げましたが、私は、大胆かもしれませんが、これを一言で“価値創造していく根源力”と定義しておきたいと思う。
 日寛上人が「三重秘伝抄」に「華厳は死の法門、法華は活の法門」といったんは述べられ、再往、その華厳経といえども「若し会入の後は猶蘇生の如し、故に活の法門と云うなり」と結論されているのは、法華経がいっさいを活かしきる哲理であることを端的に表現しておられるように思うのであります。自己の生命も、他の生命も、いっさいを創造的に生かしていくことに仏法の本義があります。
 更に「法華経題目抄」(御書全集940㌻)には“妙の三義”が述べられておりますが、その一つに「蘇生の義」とあるのも、妙法によってたくましい創造力を発現せしめていくがゆえに、人間それ自体の蘇生がなされるものと考えるのであります。
 創価学会の設立は昭和五年でありますが、そもそもその目的が価値創造にあったことは、諸君もよく知ってるとおりであります。牧口初代会長がさまざまな思想遍歴の末、それを求めて大聖人の仏法の門をたたいたこともごぞんじであると思う。すなわち創価学会の原点は、あくまでも個人における価値創造をいかに実現していくかにあるのであり、大聖人の仏法の究極もまた、そこにあるのであります。
 ひるがえって、科学文明の重圧に人間性が押しつぶされようとしている現代社会にあって、もっとも求められているものは何か。いろいろと表現はできるでありましょうが、私は一言でいえば、この人間としての創造力であると思う。
 「人間を変る」(守部昭夫著)という本のなかに次のような一節がある。
 「現代の日本は、ゆがめられて抑圧されている能力を個々人が内部に蓄積し、大きな爆発を起こす機会を持っている“心の鎖国状態”であるのかも知れない。そして、その“爆発”とは、低開発国にみられるような政治的、軍事的革命のことではなく、大衆が自分のもっている能力を創造的に表現しようとする“人間革命”のことなのだ。この“爆発”が起これば、そこには他人指向型の性格から脱皮したスケール大きな人間が出現するだろう。人間の生き甲斐、価値とはニイチェが“駱駝の精神”と名づけたような、安住・安定を好む生き方ではない……創造、未知への挑戦なのである」――この引用のなかで“大衆が自分のもっている能力を創造的に表現しようとする人間革命を、現代の日本は待っている”という点に、私は注目したい。
 こうした論調は、表面的には、いまは少数意見であるかもしれない。しかし、たとえ口には出さなくとも、心ある人であれば、だれしもこうした思いではないかと思う。それ以外に、現代社会を蘇生させる道はないということに気づいているはずであります。そして、その志向するものこそ、私は結論していうならば、妙法の哲学であり、具体的には大御本尊にほかならないと主張せざるをえないのであります。
6  広布の社会とは“創造社会”
 さて、個人の信仰の目的が、一瞬一瞬の価値創造にあるとするならば、私どものめざす社会、すなわち広宣流布の社会とは、いかなるものであるのかということになります。この点につきましては、いままでも種々申し上げ、これからも具体的にはさまざまな角度から明確化していくようになると思いますが、私はそれを端的にいうならば“創造社会”と呼んでおきたい。
 それは、人間が人間であるための社会ともいえるし、一人ひとりがつねに向上してやまい社会といってもよい。こうしたいい方は、あるいは、漠然としているように思えるかもしれない。しかし、私どものめざすものは、決して無味乾燥な定型化された社会ではない。無限に創造性を開発していける社会であり、私は、それこそ広宣流布の実像の姿であると確信するのであります。
 かつて、理想社会――ユートピアを未来に描き、それをめざした時代もあった。いまでも、そのためには現在を犠牲にしてもよいとして、そうしたものを追い求めている人もいる。そうしたユートピア思想は、確かに虐げられた民衆にとっては救いであったでありましょう。
 すでに述べたように、仏法の説いている理想社会とはそういうものではないし、人間が求めているものも、そうした定型化された理想社会でないことは明らかであります。むしろ、そうした定型化のもとでは、いかに深刻に、強力に生命が虐げられるものか。その人間性の苦難を象徴しているのが、現代だともいえるのではないでしょうか。過度に管理された文明社会にあって与えられたいっさいのものを排除し、原始の状態を憧憬するヒッピーの姿は、まさしくそうした安定社会に対する告発以外のなにものでもない、と考えるのであります。大事なことは、一人ひとりの人間がどう生かされ、創造性を発揮していけるかということであります。
 以上を要約していえば、個人において成仏とは何か――豊かな、たえざる創造力の根源こそ仏界であり、それを内に開き、外に顕していくのが、私どもの実践行動にほかならないのであります。
 そして広宣流布とは――依正不二の原理にしたがえば、この宗教運動の基盤のうえに、正報たる生命の創造力を最大限に発揮させていく環境づくりをしていくことである、と申し上げておきたい。すなわち、社会全般に開かれていくことであるといってよい。
 したがって、成仏といい、広宣流布といっても、終わりのない革命であり、妙法という本源的な生命の泉をみつつ、永久に持続していく人間と社会と文化のたえざる革命であると、私はいわざるをえないのであります。
 どうか、諸君たちもそのつもりで、日々の仏道修行、広宣流布、いわゆる創価学会の活動に励んでいっていただきたいのであります。「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」――我々の究極の人生観ともいうべきこの御金言を胸中深くいだき、わが同志がますます強盛にして柔軟なる敢闘をされんことを祈って、私の話を終わります。(大拍手)

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