Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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婦人部夏季講習会 幸福の実態をきわめよう

1972.8.22 「池田大作講演集」第4巻

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5  信仰は生命のしぜんの発露
 次に御書の一節を拝読したい。妙一尼御前御返事にいわく「夫信心と申すは別にはこれなく候、妻のをとこをおしむが如くをとこの妻に命をすつるが如く、親の子をすてざるが如く・子の母にはなれざるが如くに、法華経釈迦多宝・十方の諸仏菩薩・諸天善神等に信を入れ奉りて南無妙法蓮華経と唱へたてまつるを信心とは申し候なり」と。
 また上野殿御返事にいわく「かつへて食をねがひ・渇して水をしたうがごとく・恋いて人を見たきがごとく・病にくすりをたのむがごとく、みめかたち形容よき人・べにしろいものをつくるがごとく・法華経には信心をいたさせ給へ」云云と。
 この二つの御文は、信仰とはどういうものかを端的に、また本源的に述べた御文である。妻であれば、夫を失いたくはないと思うのは当然である。親であればわが子を捨てようとは思わない。最近は赤ちゃん受難時代などといわれているけれども……。
 おなかがすけば食べ物がほしい。のどがかわけば水を欲する。恋しい人には会いたく思うし、病気になれば薬を頼りにする。そして女の人は口紅やおしろいを頼みとする。これらはしぜんと起こる心の働きである。
 それと同じように、御本尊から自分は決して離れない、生涯、御本尊を根本に題目をあげきっていくのだ。この思いのなかに信仰がある。生命の奥底から起こってくる、止めようとしても止めることのできないその思いが、信心である。したがって、このことはなにを意味するのか。それは信仰といっても特別なものではない。人間としてのしぜんの発露であるということである。
 それはつくられたものではないがゆえに、本来、だれもが生命の奥深くにもっているものである。そしてまた、生命の本源に根ざしたもっとも力強く清らかで尊い姿が信仰なのである。ゆえに、信仰をたもった人の生命の輝きは、万人の共感を呼んでいくことができる。いいかえれば、むしろすべての人の共感を呼び起こしていく姿、活動が本来の信仰者のありかたである。
 皆さん方の信仰の輝きが日常の生活の言動のなかにおのずからにじみでて、キラキラと鮮明な光を放っていく。婦人部の皆さんはそういう一人ひとりになって、だれからも“あの信仰の姿なら自分もしてみたい”と、しぜんのうちにいわれるような存在になってほしいのである。
 最後に、皆さんのご健康とご一家の限りないご清栄を心からお祈りするとともに、そのためにも皆さんが学会をまもり、広布を更に推進されるようお願いしまして、私の話を終わります。(大拍手)

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