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日蓮大聖人・池田大作

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題目が一切の根本 夏季講習第3期大幹部会

1964.8.7 「会長講演集」第11巻

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1  たいへんにご苦労さまでございます。いつも講習会にくる人々に申し上げることは、この三日間をとおして、なんでもいいから、来年の講習会めざして、自分自身が、信心の原動力となるものを学び取ってもらいたい。たった一つでいいから、自分のものにしていってもらいたい。このことだけをお願いしております。
 お願いというよりも、それがとうぜん講習会の意義であります。一歩、社会に戻れば、下山すれば、どうしてもおのおのの悩みもあります。戦いもあります。現実はきびしいものです。そのときに講習会で得た、自分なりの一つの信心の原動力をいつも思い出して、それをカテとし、力として来年の講習会に、また霊鷲山で三日間、楽しく暮らしていきたい。このリズムある一生をすごしていくのが学会の姿であります。その点をまず要望いたします。
2  この次の大白蓮華の巻頭言は「新時代と幹部の自覚」(昭和三十九年九月号)として、先日書いて本社のほうへ送りました。その一つに申し上げたのですが、幹部が、信心も人格も人柄もよいところの支部員はしあわせである。幹部が悪い幹部である支部員はかわいそうである、あまりにもかわいそうであるという論調を述べておきました。
 どうか、皆さん方は、仏法のうえの指導者であり、社会の指導者として、私とともに広宣流布をめざして、がんばっていっていただきたいと思うのです。皆さん方が悪いという意味ではけっしてありません。たまに悪い幹部が出て、本部としてもたいへんに迷惑をこうむり、私もひじょうに残念な思いをすることがあります。
 ひとりやふたりのそういう幹部が出ても、大勢のなかですから、やむをえないというかもしれませんが、そのもとにいる何百人、何千人、何万人の後輩の人がかわいそうです。せっかく尊敬し、信頼していた幹部が、学会利用であったり、悪人であったりして、だまされたということは天魔であり鬼神です。
 そういう幹部のいないことを一生懸命私も祈っています。皆さん方も、どうか、それは人間ですから、欠点もあり、力もない場合もあり、多少の失敗もあるでしょう。そんなことを言う私はうんぬんはしません。信心のうえ、学会精神のうえに立って申し上げることであります。その点だけは、おたがいに裏切らないように頑張っていきましょう。お願いします。
3  そこでまた、次に書いておいたことは、国法――国で決まった法律でなければ、遵奉する必要はない。尊敬する必要はない。尊び実践する必要はないのです。また、法王の言にあらずんば信受すべからず、する必要はない。仏さまのいったことばでなければ、信心する必要はないのです。依法不依人であって、人師・論師のいったことは聞く必要はない。あくまでも仏さまのいった、その御金言を信受すべきであります。
 末法今時においては、三大秘法の御本尊様です。日蓮大聖人様の御書であります。その御書を根本として、信心修行していきなさいという御書の文を引きまして、応用として、学会本部の指導、これをしっかり実践し、そしてまた、指導原理にしていただきたい、このようにも書いておきました。
 崇高なる目的に向かっている御金言に毛すじほどもたがわない創価学会の前進に対して、自分勝手の感情、権威、我見で、大きく社会にマイナスになるような指導をされることは、大なるあやまちであり、迷惑であります。
 その点について、とくと書いておきましたもので、皆さん方最高幹部が御書、学会精神、学会の指導、本部の理念というものを、よく思索し、自分のものにし、力ある間違いのない指導をしていっていただきたい。このことをお願いしたいのであります。
 そのうえに立って、臨機応変の、実際問題における生活指導、個人指導、これはけっこうであります。または政治活動、これは応用でありますから、臨機応変になることはとうぜんあります。
4  ただ問題は折伏にあっても、それから組織の問題にあっても、組織利用や、自分の権威のためや、感情のために、大勢の学会人に疑問を与えたり、大きく学会に迷惑をかけるような行き方だけは厳禁していただきたい。これはとうぜんのことであります。
 なぜならば「一生はゆめの上・明日をせず・いかなる乞食には・なるとも法華経にきずをつけ給うべからず」という御文があります。信心根本として、それは難のあることもとうぜんのことでありましょう。そんなことはいいとして、わざわざ学会の指導に反して、自分のことだけを考えて、行動をとることは、学会の幹部としては失格であります。どの世界においても幹部としては失格です。そういうことのないように注意していただきたいと思います。せっかくここまで皆さん方ががんばってきて、つまらないことで失敗すれば、九仭の功を一簣に虧(欠)いてしまいます。
 また、話はちがいますが、よく質問会で質問をうけます。それはどんな質問があっても、ていねいに納得のいくまで、忍耐強く、わかりやすく指導していただきたいことはとうぜんでありますが、大幹部会で私が二回ほど質問会をやりまして、ほとんど同じ質問なのです。そのいずれも大事なことでありまして、一生懸命納得するように質問に答えますが、ひとり質問したら、あとはもういい場合があります。
 同じことを、それからまた、確信発表で「王仏冥合のためにがんばりましょう」という。
 問題はそこです。王仏冥合も、広宣流布も大事かもしれないけれども、なんといっても、自分自身が題目をあげて、あげてあげぬいて、自体顕照の自分を示していく以外の最大なる指導はないのです。
5  同じことばなどというのはオウムでもいえます。汝自身が、感動せずして、どうしてひとを感動させることができるのか。自分自身が納得せずして、どうして人を納得させることができるのか。自分自身が納得せずして、どうして人を納得させることができるのか。結局は一念三千、依正不二、自分自身の革命、自分自身の成長、自分自身の信心、自分自身の躍進のみが、支部員、同志を、後輩を引っぱっていける根本になるのです。
 それがない幹部であったならば、退転です。進まざるを退転といいます。前進の源泉はなにか、なんといっても題目であります。後輩の人たちや、疲れている人たちに対しては、大きく包容してあげてもらいたい。
 だが、幹部として自分自身は、より以上に題目をあげ、より以上に吸収していこう、この熱意があったときに、いっさいのものが血肉に変わるのです。その実相が、後輩、同僚に対して、いっさいり原動力を与えることができるのです。
 それが信心です。したがって、幹部になったからといって、惰性に流れることなく、人よりよけいに題目をあげる、人よりもよけいに納得していく成長する。力をもっててくための前進をする。そのことをいつも忘れないで、進んでいっていただきたいと思うのです。
 その人が偉いのです。勇猛精進しきった人なのです。それがない人は、たとえ会長であろうが、理事長であろうが、理事であろうが、支部長であろうが、その人はもう負けいくさなのです。信心はとまっているのです。位だけあって心はとまっているのです。それだけ罰をうけるのです。
6  どうか私に代わって、八月の幹部会のときは相当数の本部ならびに、支部の拡充がなされます。理事も二十人、三十人、四十人とふえる考えです。さらに創価学会は発展を重ねます。そのときに、いちいちやかましいことは私どももいえなくなってきております。また、心根本に自覚をしていくことはとうぜんですから、大幹部にはいう必要もないわけです。
 ただ、なにかいわれなくなったり、遠くのほうに自分がいると錯覚した場合には、堕落したり、向上がとまるものです。遠くにいればいるほど、成長する人は偉い人です。その点を忘れないように、ひとつがんばっていただきたいと思います。

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