Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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人生を満喫せよ 神奈川本部幹部会

1963.6.13 「会長講演集」第9巻

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4  どうか、それは私どもも仏法以外のことにおては謙虚にいかねばなるませんが、生命の解決の問題、生活の源泉の問題、すなわち、思想、哲学、仏法の問題にたちいったならば、断じて私どもが教えきっていく以外にはない、という信念をもって進んでいこうではありませんか。その人が真の大聖人様の弟子であります。その人の姿が学会精神なのであります。学会幹部なのであります。
 日蓮大聖人様は、また大聖人様の仏法を約した日寛上人様は「行躰即信心」とおおせであります。行躰ということは「行」は行ずるの行であります。躰とは「身」を書いて右に日本の「本」と書きますが「行躰即信心」――行躰とはなにか。行ずる生命、行ずるこの当体、実践しきっていくこの当体、生命、それ自身が信心なのであるというおおせなのです。「自分は信心が強い」こういっても、観念であっては、けっして信心が強いとはいえないのです。どんな哲学でも、どんな思想でも、そこに実践がなければ観念論で、なんら結果はでないわけなのです。
5  したがって、このあいだも婦人部の幹部と勉強したときに「因果倶時」の一節にたちいったところ、日寛上人様は「唱題――題目を上げることは、これ信心の因なり」そしてまた「唱題は信心の果なり」とおおせであります。題目を上げることが因果倶時、題目を上げきることが、即行躰なのです、実践なのです。
 いろいろと悩みがある、いろいろと苦しいことがある、なんらかのことをしたいという願いがあります。ところが頭の中でいくら考えても解決できません。第一にも第二にも題目をあげよう、よしっ、きょうは指導を受けに行こう、きょうはしっかりと大勢の人に御書の講義をしよう、御書の講義を受けに行こう、折伏に行こうという、その実践それ自体が信心なのであります。
 したがって皆さん方も、願いのかなうもかなわないも、福運の積めるも積めないも、ぜんぶ汝自身の実践の二字であり、信心の二字であるということを自覚して、有意義な仏道修行をしていっていただきたいと思います。

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