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日蓮大聖人・池田大作

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人生を満喫せよ 神奈川本部幹部会

1963.6.13 「会長講演集」第9巻

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1  きょうはたいへんおめでとうございました。私は皆さん方が、元気いっぱいに生活し、また折伏行にまい進し、楽しみきっておられる姿を拝見すれば、それが最高の満足なのであります。
 ただいまお話もありましたが、原島先生を先頭に、東京のほうでも折伏の旋風が巻き起こりそうな感じであります。だが私は、折伏の成果などということは、なにも考えておりません。折伏せよということは大聖人様のおおせであります。これを実践しなければ、成仏できないことはとうぜんであります。しかし、その結果がどうであるかということは、これは別問題であります。したがって、ただ私は皆さん方が宿命を転換し、一日一日を有意義に、楽しい人生を生ききっていただきたいということを、心から念願しておきます。
 いま原島先生からもお話がありましたが、どうも神奈川本部だけは、神奈川県に本部が一つであるがゆえに、なんとなく沈滞ぎみであるような気もするのです。ですから、なるべく近い将来に神奈川に第二本部、第三本部と、二つ三つ、本部をつくるようにしたほうがよろしいと思いますけれども、皆さんの意見はどうでしょうか、そして東京や関西と同じように、より以上確信のある、そして強い信心に立って、楽しい人生を満喫していただきたいのです。
2  さきほど原島先生と話をしていたのです。どういうことかというと、それは二、三日前になくなられた長谷川伸先生が、神奈川在住の人であったということなのであります。私も尊敬をしていた先生であります。七十九歳で、そして尋常二年生中退の人であるそうでありますが、なくなる少しまえに話に「生きていくということは、さかなを釣ったり、遊んでいくということではない。あくまでも価値をつくっていくことである」と、このように申していたそうであります。
 私はいまのなまいきな評論家やウソつきな政治家よりも、よほど誠実な、人生を深く歩んだ人であるな、苦労してきた人であるなと感じました。だが、惜しくも、最高の価値創造である大御本尊様を知らなかったことは、たいへんにお気の毒であると思います。
 いま私どもは大御本尊様を根本として、不幸な人に大御本尊様を教えてあげ、そして一日一日を有意義に暮らしています。この悪世末法に、ウソつきで、人を押しのけてでも生きていこうという今日にあって、また良心の片りんだにもない、正を正と認めず、なにが善か、なにが悪かもその基準もないような今日にあって、もっとも最高の善である。大聖人様のおおせどおりに仏法を究明し、実践し、人に尽くしているということは、これ以上の価値創造の人生は、有意義な人生は断じてないと私は確信するのです。
 だれびとからなんといわれようが、絶対に日蓮大聖人様のおおせは正しいのであります。よく幹部の方々と話をするのでありますが、社会主義者がいます。では社会主義者は、一生涯かかって社会主義が正しいと究明しきり、確信をもって社会主義者になったか。自由主義者は初めから自由主義を、たとえていえばルソーの「民約論」や、その他を究明しきって、そして自由主義者になったか。共産主義者も同じです。少年時代から一生懸命に究明して、たしかに比較検討して、これが最高である。だから自分は共産主義者になったというふうに、どんな問題でも同じでありますが、自分自身が究明しきって、比較検討しきって、これが最高唯一であると確信したかといえば、私はそうではないと、ほとんど違うと思うのであります。
3  私たちも同じです。日蓮正宗の仏法が絶対正しいと初めから研究して究明しきって、信心した人は少ないと思います。ぜんぶ初めは縁であります。友だちが自由主義者であった、または共産主義者であった、社会主義者であった、または日蓮正宗創価学会員であった、以下これに準ずべしです。その縁にふれて、ある場合には中学校の先生の縁、ある場合はおとうさんの縁、ある場合には社会の縁、また社会に反対の、こういう社会ではいやだという縁、これを自覚するというふうに、ぜんぶ縁にふれて、なんらかの自分の宿命の道を歩んできている人であると私は思うのであります。
 そして、やがて行き詰まり、またはもうここまでがんばってしまったから、かっこうがつかないからがんばりきろうというふうに、うまい理論をつくりそういう循環性が、私はぜんぶの人の本源の姿ではないかと思うのでありますが、皆さんどう思いますか。
 ですが、大御本尊様だけは間違いありません。なぜならば「三世を知るを聖人と云う」大聖人様は宇宙の本源、生命の本体、三世をぜんぶ通観していらっしゃいます。その証拠に、皆さん方が信心をしきっていけば、しきっていくほど、仏法を究明すれば究明するほど、納得をし確信していると思いますけれども、どうでしょうか。
 やらなければ、これはだめです。どんな最高の機械であっても、どんな車であろうが、テレビであろうが、それを動かさなければだめです。したがって私は、いろいろな有名人や、そしてまた有名らしい人もおりますけれども、その人々の本源をたどれば、皆、気の毒な人ではないか、こう私は思います。
4  どうか、それは私どもも仏法以外のことにおては謙虚にいかねばなるませんが、生命の解決の問題、生活の源泉の問題、すなわち、思想、哲学、仏法の問題にたちいったならば、断じて私どもが教えきっていく以外にはない、という信念をもって進んでいこうではありませんか。その人が真の大聖人様の弟子であります。その人の姿が学会精神なのであります。学会幹部なのであります。
 日蓮大聖人様は、また大聖人様の仏法を約した日寛上人様は「行躰即信心」とおおせであります。行躰ということは「行」は行ずるの行であります。躰とは「身」を書いて右に日本の「本」と書きますが「行躰即信心」――行躰とはなにか。行ずる生命、行ずるこの当体、実践しきっていくこの当体、生命、それ自身が信心なのであるというおおせなのです。「自分は信心が強い」こういっても、観念であっては、けっして信心が強いとはいえないのです。どんな哲学でも、どんな思想でも、そこに実践がなければ観念論で、なんら結果はでないわけなのです。
5  したがって、このあいだも婦人部の幹部と勉強したときに「因果倶時」の一節にたちいったところ、日寛上人様は「唱題――題目を上げることは、これ信心の因なり」そしてまた「唱題は信心の果なり」とおおせであります。題目を上げることが因果倶時、題目を上げきることが、即行躰なのです、実践なのです。
 いろいろと悩みがある、いろいろと苦しいことがある、なんらかのことをしたいという願いがあります。ところが頭の中でいくら考えても解決できません。第一にも第二にも題目をあげよう、よしっ、きょうは指導を受けに行こう、きょうはしっかりと大勢の人に御書の講義をしよう、御書の講義を受けに行こう、折伏に行こうという、その実践それ自体が信心なのであります。
 したがって皆さん方も、願いのかなうもかなわないも、福運の積めるも積めないも、ぜんぶ汝自身の実践の二字であり、信心の二字であるということを自覚して、有意義な仏道修行をしていっていただきたいと思います。

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