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日蓮大聖人・池田大作

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ブルガリアにおけるキリスト教の受容  

「美しき獅子の魂」アクシニア・D・ジュロヴァ(池田大作全集第109巻)

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8  池田 まさしくルネサンスは、「人間の発見」です。
 ジュロヴァ ブルガリアは、建国時には、スラブ文化を持つ古典的な国であり、その後、引き続き抑圧されましたが、後に、加速的な発展の時代を迎えました。
 ブルガリアでは、啓蒙運動と精神的自立の時代が、国家の政治的利害にかかわっており、国家の解放の思想へと急激に移行していきました。
 しかし、ここには大きな問題がありました。それは、ブルガリア国家の解放のプロセスが始まったのは、この国がすでに十分に境界を定められた「国民国家」に囲まれており、また、ヨーロッパとバルカン半島における国家の競合闘争が、すでに進展していた時だったということでした。当時、影響力を及ぼす範囲を求める政策が、各国ですでに進行中であり、西洋と西洋文化が、東洋に向かって激しく拡大していたのです。
 こうした政策は、祖国と母国語に属したいとの民衆の強い思いと衝突しました。啓蒙運動以後の人間が、科学技術文明の時代を前にして、世界とのいっそう緊密な絆を打ち立てたのは、このような時代でした。このために、パイシーの『スラブ・ブルガリア史』は時にかなったものだったのです。
 ブルガリアにおいて、「復興」は、国家の過去――プレスラフ、オフリド、タルノヴォなどのかつて繁栄した都市への回帰という形で表れたのです。ブルガリアの民族復興運動は、中世に基礎を置いていました。そこでは、中世は政治的に解釈されました。つまり、中世は奴隷化された人々の闘争精神から生じたと考えられたのです。
 また、ブルガリアの古代の遺物も重要なものでした。と言うのも、それは民衆がみずからのアイデンティティーを見いだすのに役立ったからです。
 ブルガリアの民族復興運動においては、社会、経済的な要因が支配的で、「宗教」は政治的な道具として用いられました。
 卓越したブルガリアの作家リュベン・カラヴェロフは書いています。「自由はエグザルフ(総主教)を必要としない。必要なのはカラザータ(有名な革命家)だ」と。
 民族復興期におけるブルガリアの教会制度は、時には、信者の聖なる場と言うよりは、むしろ、国家の政治的思惑の手段であったということです。
 さらに、例として挙げられるのは、民族復興期に教会を教育、文化、芸術の発展のための基盤とするために、また、それらを大衆化するために、民族的な社会闘争の戦場として利用したことです。教会の建物は社会センターとして、人々が集まる場所として使用されました。
9  池田 ブルガリアにおける民族復興期にいたるまでの、東方正教会の受容の仕方についてうかがってきました。少し話は前に戻りますが、キリスト教以前からの民族信仰は、人々のアイデンティティーとして心の中に深く根ざしていたようですね。ブルガリア民族のなかで、異教信仰は、どのような形でキリスト教と共存してきたのでしょうか。
 ジュロヴァ つい最近まで、民衆は異教的なシンクレティズム(混淆主義)を保っていました。つまり、ヘーロース(半神)と聖ゲオルゲ、大母神と聖母マリアの関係を保持し、その部族の創始者や部族の守護者たちへの崇拝を保持していたのです。
 それは、ブルガリアで冬にそなえて秋にピクルス(西洋風の漬物)を漬ける準備をする習慣にも、明らかに表れています。その習慣は、キリスト教に公式に改宗する以前のブルガリア国家の、最初の二百年間にまで遡るものです。その二百年間に行われていた“異教”である原ブルガリア人とスラブ人の宗教は、多くの点でキリスト教の生活様式と共通するものがあり、土着の人々がそれらをキリスト教的な生活様式へと順応させたのです。
10  池田 つまり、異教的な宗教の土台の上に、政治的な手段としてキリスト教が用いられた。政治的な必要が少なくなると、キリスト教への要請は少なくなるのですね。しかし、異教的宗教の本質はその影響を受けなかった、ということですね。
 ジュロヴァ そのとおりです。これまで、ブルガリアにおける東方正教会の特性について、きわめて簡単に示しましたが、こうした特性は、個人の解放の道を開いた卓越した人物になぜ聖職者が多いのかを説明します。文明の発展の道をさし示した彼らは、革命家であり、使徒であり、作家であり、公人だったのです。これは、他のスラブ諸国にとっても特徴的なことです。ブルガリアの教会もまた、わが国民の歴史的運命が定めた使命である人間の変革において、同様の役割を果たしたのでした。

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