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日蓮大聖人・池田大作

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2 人間教育のあり方  

「健康と人生」ルネ・シマー/ギー・ブルジョ(池田大作全集第107巻)

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1  「幸福の実現」こそ創価教育の原点
 池田 それでは、人間を育てる“教育”を中心テーマとして取り上げたいと思います。ここでは、モントリオール大学の学長を務められたシマー博士にも登場していただきたいと思います。
 ブルジョ 教育の問題は非常に重要です。会長も深い見識をおもちであり、一章を割いて論じても、論じ尽くせないのではないかと思うほどです。
 池田 教育は、百年の未来を開く大業です。私は、若き日より、「教育こそ人生最極の聖業である」と信じ、今日まで歩んでまいりました。
 ブルジョ 創価学会の原点は、個人と(社会)集団、そして人類の幸福を願う教育者の集いとうかがっております。創価学会の皆様は本当に恵まれておられます。組織にとってそれ以上価値ある遺産はありませんから。
 池田 恐縮です。一人の人間の幸福、人類の幸福を離れて、教育はありません。創価教育学説を創唱した牧口初代会長は、「子どもの幸福こそ第一義」と主張しました。幸福の実現のための教育こそが、初代会長の信念であり、戸田第二代会長、私の信念です。
 これからの長い人生にふりかかってくる「生老病死」の四苦に挑戦し、生命を鍛え、いかなる苦難にも負けない黄金の幸福道を開拓してもらいたいのです。それが、私の生涯をかけた願いです。
 その「夢」の実現のために、初代会長の教育理念――創価教育学説――の実践の場として、創価学園、創価大学を創立いたしました。
 そこで、意欲的な人材育成をされているシマー博士、ブルジョ博士とともに、理想の人生道――四苦を超克し、他者のため、人類のために生きる人生――を開拓するための教育の“要諦”を考えてみたいのです。
 ブルジョ これは決して簡単な課題ではありませんが、これに関連して、まず、私のほうから図式的に“教育の三つのモデル”を提出することができるかと思います。
 その第一が「受け身型」と言いますか、その基本的なスタンスとしては、“知識はあたえられるもの”ということです。知識を暗記して、自分のものにしていく教育です。
 これはあくまでも外からあたえられるものであって、本当に自分の中から出てきたものではありません。
 池田 おっしゃるとおりです。
 日本において知識偏重の教育の弊害は、まず、あたえられた“知識”を分析し、人生に活用する能力をもてない学生を生みだしています。苦難に直面し
 たときに役に立たないのです。
 そして、倫理性の喪失もあげられます。つまり、他者を「友人」としてではなく、打ち負かすべき「敵」としてしか見られない、という弊害が生じています。
 これでは、いくら知識を蓄積していても、他者を思いやるという心をもたない「冷たいエリート」をつくる教育になりかねません。
 ブルジョ カナダ、もっと特定すれば、ケベック州では、授業での訓練が、情報の処理と分析を通じて、本質を把握する能力を育てようとするのではなく、むしろ断片的な知識の集積にかたよってしまうような教育政策に対して、教師たちの間で批判が出ています。
 そこで最近、とくにヨーロッパとか、経済大国において出てきた第二のモデルが、「学習者中心」の教育モデルです。これは、本人の“自己実現”ということを、どこまでも大事にしていく教育のあり方です。
 これは、その人の体験したものを、明示的な言葉でもって表現できるように訓練していくものですが、私に言わせれば、それはやりすぎる場合には、不健全で、限度を超えた“自己中心性”という側面が強くなると思います。
 池田 “自発的”に自己の内面にあるものを開発していこうとする試みは評価されます。体験の重視は、「知識」の血肉化にもつながります。しかし、博士が言われるように、倫理性を養っていないケースでは、“自己中心性”をますます強化することにもなりかねません。
 ブルジョ そこで、私は、第三の教育モデルとして、たとえば、「連帯型教育」、あるいは「交流型教育」
 をあげたいと思います。その前提となる教師と学生との間の相互作用には、現実社会の伝統や、ときには相対立する利害、計画、行動などが反映されます。
 第一の外圧的な「知識」詰め込み型と、第二の自分のみの体験的なものとは違って、本当の意味での「知識」を、教師と学生が共同作業でつくっていくものです。このように社会の中の相互作用のなかでつちかわれた責任をともなった意義のある「知識」こそ、個人および社会の次元で生起する人生の苦難を乗り越える原動力になるものです。
 一人一人の若者が、主体性ある個人として自立するとともに、責任ある市民として成長することが期待されます。個人的主体性と社会的連帯の統合のなかから、真の民主主義が生まれる可能性があると思います。
2  釈尊は一対一の“対話”で教育
 池田 「第三の教育モデル」で思い出すのが、釈尊の説法です。釈尊は、民衆のまっただなかで、生老病死の四苦に共鳴し、「同苦」しながら、その苦悩を克服するために、その人にもっとも適切な説法をしているのです。
 病気の人には、「病苦」と闘うための「知恵」と「勇気」をあたえています。釈尊はみずから、病人を看病しました。弟子の阿難とともに、病人の身体を洗い、ベッドを直し、そのうえで、悩みを聞き、適切なアドバイスをあたえ、仏法の法理を説くのです。
 これを“対機説法”と言います。医学的な表現をすると、“応病与薬”ですね。病気には、その人にもっとも適した薬を与えるということです。「第三の教育モデル」は“対機説法”“応病与薬”と同じ発想がありますね。
 シマー 今、会長より、釈尊の“対機説法”の話をお聞きしまして、さっそく思い出したのは、「ソクラテスの対話」です。
 古代ギリシャの当時には、従来の知識を伝達するだけの教育者がたくさんいました。たとえば、ホメロスの詩を暗記したり、「これはこうだ」というふうに教え込む教育者です。それに対して、ソクラテスはつねに問いかけをする。そして、その答えを聞くと、矢継ぎ早に、次の質問をして、その人がつねに向上していく、その人の考え方がつねに熟していくような“生きた対話”の教育をしていたことを思い出しました。
 池田 釈尊の“対機説法”のなかに、こんなエピソードがあるのです。一人っ子を亡くしたキサー・ゴータミーという婦人が、嘆き悲しんで釈尊のところに来ます。そして、子どもを生き返らせてほしい、と。
 シマー 釈尊は、どう答えたのですか。
 池田 釈尊は言いました。民家に行って、カラシの種をもらっていらっしゃい。そうすれば、生き返らせてあげよう。しかし、そのカラシの種は、今まで一度も死者を出したことのない民家から、もらってきたものでなければならない、と。
 シマー 当然、すべての家庭が、「死苦」を体験しているわけですね。
 池田 おっしゃるとおりです。キサー・ゴータミーは、必死に家々を回って、死者を出したことがないかどうかを聞いて歩きます。そのうちに、すべての人間にとって「死」はまぬかれえないものである
 と、心の底から実感するのです。彼女は、家々を回る過程で、みずから「生死」の真実を悟り、一人っ子を亡くした悲しみを乗り越えようと決意します。そこで、釈尊は、仏法の「真理」を説き、キサー・ゴータミーとともに、「生死」を超える道の探究に入っていきます。
3  教師も学生も菩薩道に生きる
 ブルジョ 会長は、北京大学での講演(「教育の道文化の橋――私の一考察」、一九九〇年五月。本全集第2巻収録)の中で、教育とは、ただ教えるということだけではなくして、教師の側からも問いかけていくことが大事な姿勢であると話されていますね。
 池田 そのとおりです。インド最高裁判所の元判事であるモハン博士や、ハワイ大学のチャペル教授も、対話の重要性を強調していました。
 モハン博士は、大阪での講演会でこう語っています。「教育とは、教師による生徒の“支配”であってはなりません。教育とは、先生と生徒の間の一対一の“対話”なのです。“一方通行”ではいけません」と。
 チャペル教授は、こう述べています。「教師は生徒に教えるとともに、生徒から刺激を受けて学ぶ。この『双方向』の対話が必要です。教育とは、『あたえる』とともに『学ぶ』こと、そして、人間から何かを引き出すことではないでしょうか」と。
 教師と学生との間の豊かな「対話」によってこそ、人生のいかなる苦難にも挑戦し、乗り越えていく強い「生命力」と「知恵」と「勇気」、「他者への慈愛」が開発されるのではないでしょうか。そしてまた、「知識」が、自分のものとして血肉化されると思われます。
 ブルジョ この第三の「連帯型教育」、また「交流型教育」のみが、「四苦」を乗り越えていくための教育です。と言いますのは、「四苦」には、客観的な側面と主観的な側面があります。第一型の従来の教育は、人生にふりかかる客観的側面を分析したり、理解するのに役立つと思います。
 池田 「四苦」を引き起こす原因や現象についての科学的分析ですね。たとえば、シマー博士が行われているガンの診断法とか治療法などですね。ともあれ、知識は必要不可欠です。
 ブルジョ 第二型の主観的な側面は、自分自身の体験です。貴重な体験から学んでいくこともできると思います。
 池田 苦難の体験が、生命を鍛え、人格を陶冶していくことですね。
 ブルジョ この第三の「連帯型教育」は、客観的な知識と主観的な体験を止揚して、社会の伝統とダイナミクス(力学)をふまえた相互作用、対話、交流を、教師と学生との間に生みだします。だからこそ、このような教育は、「四苦」を乗り越えるのに役立つのです。
 池田 教師と学生の交流のなかで、客観的な「知識」が生かされ、「自己中心性」も克服されていくのではないでしょうか。
 教授の「教育のモデル」を仏法の視座から考えますと、第一の先人の「知恵」に学ぶ類型は、“声聞”に当たります。第二の自身の体験から真理を探る類型は、“縁覚(独覚)”に当たります。第三の「交流型」は、他者へのかかわりを重視する“菩薩”の姿勢に深く通じるものと言えましょう。
 教師も学生も、ともに菩薩道に生きるのが、教授の言われる「連帯型教育」であると思います。これこそ、四苦を乗り越え、人類のために生きる人生を開く教育だと思います。
4  「いかに学ぶかという知恵を教えよ」
 池田 あるべき教育の姿が示されたところで、次に、「教師と学生」の理想的関係から話しあってはいかがでしょうか。
 シマー 賛成です。私も創価大学の創立者である会長に、ぜひ、おうかがいしたいと思っていました。
 ジョン・ヘンリー・ニューマン枢機卿の『大学の理念』の中に、次のような文章があります。
 「大学とは、いかに学ぶかを真摯に学び取ろうとする学生と、学生を導いて知識を統合させ、文化・技術・科学という理論の中で、“人間的要素”こそが重要視されるべきことを、学生に自覚させる教師が出会う、特別な場所である」と。このような学生と教師の関係を、どのように考えますか。
 池田 学生と教師の理想的なあり方が、きわめて鮮明に述べられています。学生にとっては、「いかに学ぶか」という視点が大切です。
 牧口初代会長は、「知識をあたえるのではなく、いかに学ぶかという知恵を教えよ」と主張しています。
 シマー まったく、そのとおりです。牧口会長が、真の意味での教育者であることが、この一言からわかります。この正鵠を射た金言は、現代において、ますますその重みを増していると言えるでしょう。
 人はふつう、教育を「知識をあたえること」と解釈して、それですませてしまう。しかし、教育とは、それ以上の何かです。大学が他の教育レベルと違うのは、具体的な知識ではないものを教える点です。わかりやすく言えば、「魚を与えるのではなく、釣り方を教える」のが教育です。自分で考える能力を学生に教えるのです。
 池田 つまり、「知識でいっぱいの頭」ではなく、モンテーニュの言う「しっかりした頭」の養成ですね。
 シマー その意味では、大学教員は、ある分野の専門家であり、その知識の伝達者であるとともに、科学的かつ知的な、さらには倫理的・社会的・文化的な「手本」として、学生の前に現れなければなりません。
 したがって、彼らは、知識の移転だけでなく、オープンで、しかも健全で批評的な精神をもちつつ、研究・分析・結果の大局的統合ができる科学者を育成するという、きわめて重要な役割を担っています。
 池田 理想的な教師像です。そのような教師に出会うことこそ、学生にとって人生最高の喜びであり、幸福です。両先生とも、理想的な“師”に出会われていますね。
 ブルジョ まさに、明日の社会と人類の発展は、教育機関のあり方、そして学ぶ者と教える者――教える者も学び続けるべきですが――との間に確立される関係性によって決まりますね。
5  「柔軟な精神」「確かな判断力」「忍耐強さ」
 シマー 科学的研究において大切なのは、たんに最終的結果だけではなく、そこにいたる長い道のりを支える“精神力”なのです。未知を受け入れる偏見のなさ、揺るぎない批判精神、思わぬ展開への柔軟な反応――これらは何よりも精神力の問題です。
 科学者は、とっくの昔に、ユニークで目に見えない真実があって、それは現実の反映であり、発見されることを、ただ、待っているというような考え方は捨て去っています。彼らは、仮の不完全な答えを受け入れなければならないことを心得ております。概して、彼らが探し求めていることは、実際に発見するものと、しばしば違う場合があり、彼らが探し求めていることを見つけだすことはきわめて稀であることを知っております。
 したがって科学者をめざす学生や研究者は、目的を達成するための辛抱が必要です。「柔軟な精神」と「確かな判断力」と「忍耐強さ」をもった青年が、科学者として将来、楽しみな者と言えるでしょう。
 池田 貴重なアドバイスです。
 どのような分野においても、何のためという目的を忘れたとき、また地道な努力を重ねる忍耐強さを失ったときが、衰退の始まりです。
 つねに自身の心を見つめ、鍛えていくことが、万人に必要なのです。それゆえ、仏法者は、自身の心を見つめ、自身の志向を高めていくことを基本中の基本として大切にします。
 自分自身の中に、上の段階へと向かわしめる規範があり、向上するためのエネルギーがあるのです。それをつねに開こうと間断なく努力することが仏道修行です。仏法はこの実践に人間の生きるべき道を見いだしたのです。
 ブルジョ それは、経典でどのように説かれているのですか。
 池田 たとえば、法華経では、菩薩がそなえるべき特質として、「衣座室」の三点をあげています。
 第一の「衣」とは、「忍辱の衣」という意味で、どのような苦難にも忍耐強く勇気をもって挑戦する強靭な意志をさします。
 第二の「座」とは、「空の座」とされます。本質を見据える「智慧」をもち、大空のごとき自由自在の大境涯をさします。ここから、「柔軟な精神」と「確かな判断力」が生まれてきます。
 第三の「室」とは、「慈悲の室」です。すべての人々に慈悲の心で接し、人々と同苦しつつ、ともに幸福をめざすことを示しています。「忍耐」と「智慧」と「慈悲」をそなえた菩薩の姿は、シマー博士の青年へのアドバイスとも通じあうものです。
 ブルジョ なるほど。難解な仏法の用語が身近に感じられるお話です。まさに、教師と学生との「対話」や「触発」を意味する「連帯・交流型」の教育モデルによってつくられる人間像ですね。
 池田 先ほど、シマー博士が紹介されたニューマン氏の言葉の中に、「人間的要素」こそが重要視されるべきとありました。「人間尊重」の思想こそ、すべての学問の根本です。
 教育は、この一点から出発しなければなりません。だからこそ、牧口会長は、子どもの幸福を最重要の目的としたのです。
 人間を幸福にするための教育であり、研究です。「人間のための学問」です。その目的と手段を転倒させて、「学問のための人間」を生みだしてはなりません。
 真理探究で得られた知識を、人々に役立つ知恵へと転換していかねばなりません。知識を蓄えて、それを利用して分析するだけなら、現代のすぐれたコンピューターにもできるでしょう。しかし、知識を何のために用いるかという方向づけは、人間にしかできません。この人間にしかできないことを教えられるのは、人間だけです。人間を磨くのは人間です。
 大学は、教師と学生という人間の出会いをあたえ、“人間的要素”を継承していく重要な場です。
6  不合格の学生から教えられたこと
 ブルジョ ここで、私の四十年の教員経験から若干話させていただいていいでしょうか。
 池田 後世の人々のためにも、ぜひ貴重な経験を語り残してください。
 ブルジョ 教授になって最初のころ、このような体験をしました。
 ある学生の成績が悪くて、不合格の印を押さなくてはならなかった。その彼が「もう一回、ブルジョ先生の講義を受けたい」と言ってきたのです。もちろん、私のクラスで受け入れてもよいのですが、不思議に思って、本人に会って理由を尋ねました。彼が言うには「私は不合格ではあったけれど、一年を通して、先生は“あなたは頭が悪い”とか“できない”とかいうような言葉は、一回も言わなかった。ですから、もう一度、先生の講義を受けようと思ったのです」と。
 池田 いばった教員に聞かせたい話です(笑い)。青年の可能性を信じ、引き出そうとする人の心に、青年は応えるものです。
 ブルジョ 博士の学生に対する深い信頼がうかがえます。それで、彼は二度目は合格しましたか。
 ブルジョ ええ。無事に。(笑い)
 池田 ほかにも思い出に残っている体験はありますか。
 ブルジョ たくさんあるのですが、今でも印象に残っている体験を、もう一つ紹介させてください。
 それは、私自身、学生から教えられて、大きく考えが変わった体験です。教授になって一年目のことです。
 私は、文学と戯曲を教えていました。そのなかの一人は、前年不合格で、もう一度講義を受けている学生でした。不合格の学生ばかり取り上げていますが、励みになる人もいると思いますので。(笑い)
 池田 そのとおりです。(笑い)
 ブルジョ 彼は、成績が伸びなくて、きっと今度も不合格になると思っていました。それでも、とりあえず、冬休み前に、春に演ずる劇の脚本を渡して、「目を通してみたら」と軽い気持ちで言いました。
 ところが、冬休みが明けてみると、彼は舞台の図面だけでなく、模型までつくっていたのです。設計が好きで、建築家をめざしているのは知っていたのですが、そこまでできるとは思ってもみませんでした。しかも、「これは何か説明してください」と言うと、みごとな説明で作品を分析したのです。
 “彼は文学をきちんと分析できる能力がない”という私自身の先入観が、大きな障害になっていたのではないかと反省しました。私は、私流のやり方を彼に押しつけていたのではないか――と気づいたのです。
 “人それぞれに学び方があり、その独自の方法を発見しなければならない”と自身の考え方を切り替えました。
7  すべての人にそなわる「仏知見」
 池田 感銘しました。みごとな“教育”のドラマです。
 博士は、学生との共同作業で、豊かな才能の可能性を開発されています。「連帯・交流型の教育」のみごとな姿です。
 牧口会長は、こう述べています。
 「教育は、最優最良の人材にあらざれば成功することの出来ぬ人生最高至難の技術であり、芸術である。是は、世上の何物にも代え難き生命という無上宝珠を対象とするに基づく」(『創価教育学体系』下、『牧口常三郎全集』第六巻)と。
 シマー 牧口会長は、勇気をもって、真の教育者のあるべき姿を示しておられます。良質の教育機関には、こういう判断を下せる教師がいるものです。
 このような教師の教育方針が、首尾一貫したカリキュラムに反映され、さらに学校・大学の特色になっていたら、さぞかしすばらしいでしょう。
 池田 現在では、日本から遠く離れたブラジルでも、牧口会長の教育学説を理解し、実践している学校が生まれています。これからも、ふえていくことを期待しています。
 ところで、今、紹介しました牧口会長の言葉に「無上宝珠」とありました。これは法華経に基づいています。
 法華経では、「仏知見」すなわち“仏の慈悲に満ちた智慧”を、“無上の宝玉”と表現しているのです。
 法華経は、この仏知見が、すべての人にそなわっていることを明かしました。そして、この智慧を開き、示し、悟らせ、この智慧に基づく生き方に入らせる(開示悟入の四仏知見)――これこそ、釈尊が生涯を懸けて教えようとしたこと(出世の本懐)であると説いています。
 人間生命に本来そなわる無限の尊厳性の覚知――これが、生老病死の「四苦」を乗り越える法を探求した釈尊の結論だったのです。このことを教えた釈尊は、「天人師」(神々と人間の教師)と呼ばれます。
 牧口会長は、この開示悟入の法理に注目し、メモに書き留めています。
 シマー 牧口会長は、本当にすぐれた教育者ですね。
 学生はすぐれた教員との関係性のなかで、初志を貫徹することを具体的に学び、また倫理と責任の意味を学びとっていくことができます。
 明日を担う優秀な科学研究者や専門家たちは、好奇心に富み、才能に恵まれて、刻苦勉励している学生のなかから輩出するものです。

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