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日蓮大聖人・池田大作

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三、文化の進化と人的資源  

「21世紀への警鐘」アウレリオ・ペッチェイ(池田大作全集第4巻)

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1  三、文化の進化と人的資源
 池田 人類がこの地球上での生存を維持していくためには、人間自身、どのように生きるかという生き方の変革とともに、自然観の変革が根本的になされなければならないと私は考えています。それは、一言でいえば、自然は人間のためにあるという考え方から、自然を破壊し征服していった生き方を改め、自然の万物とともに生を享受する生き方以外に、人類の永続的な繁栄の道はないという考え方に立つべきであるということです。
 この点については、第一部「人間と自然」で話し合ったことですが、近代以後の文明、いわゆる科学技術文明あるいは工業文明は、自然を人間のためにあるとする考え方のうえに生み出され、発展してきました。科学は、複雑微妙に絡み合い有機的に営まれている自然の現象を、理性によって切り刻み、そこから数学的に処理できる事象を摘出し、普遍的な法則性を見いだそうとするものです。
 この科学の提供してくれる知識を応用し、自然に対してその部分的な力を抽き出し、利用し、その力によって自然を作り替えたり、破壊してしまったり、あるいは自然界の中には本来存在しなかったものを作り出したりしているのが、技術です。
 こうした自然に対する破壊と征服の結果が、公害などの諸問題を生ずるとともに、人間の精神的荒廃をも生み出しているのです。人間は、その身体を自然界の物質によって構成し、自然界の調和ある秩序によって生存を支えられているばかりではありません。その精神的機能もまた、自然の奏でるリズムと、それが表している豊かな調和を反映して形成され、営まれているのです。
2  だからこそ自然の破壊と改造は、心身両面にわたって人間存在そのものを歪め、破壊することになってしまうわけです。ましてや、現在の自然の破壊は、すでに人格を形成し成人した今日の世代に対してよりも、未来の世代に対して、はるかに深刻で重大な影響を及ぼしていくことを知らなければなりません。広島や長崎に投下された原爆によって生じた放射能障害は、二世代、三世代にわたって影響を残しています。ベトナム戦争で使われた枯れ葉剤はたくさんの身体障害児を生み出しています。精神形成上の影響は、もっと気づきにくい形ではあっても、それだけ深く広範でありましょう。
 私どもは、このような人間の自然に対するあり方の変革が、人びとのうちに実現されることこそが緊急に必要であると信じ、そのためにも人間革命以外に道がないことを訴えつづけてきたわけです。
3  ペッチェイ 私の最大の関心事の一つは、われわれが人間と自然との関係を最重要視すべきことを自覚できるように、文化的に開発されることであり、そのためには、あらゆる形態の生命を包容する、新しい倫理が必要になるということです。これはしかし、他の重要な諸問題から切り離して考えることはできない問題です。総体的なアプローチによってのみ、人類の状況の根底的な変化と、自然との調和の重要性を理解することができるのです。これらの要請を満たすには、われわれは、現在のうぬぼれの強い自己中心主義から抜け出して、あらゆる面にわたる自身の潜在能力を、調和的に伸ばさなければなりません。
 現代は危機の時代ですから、われわれは人間そのものを明確かつ全体的に把握しなければなりません。またこの危機が取り返しのつかないものになるのを防ぐには、われわれの理解力と創造力とが絶対に必要です。われわれがおかれている状況の判断について、少しでも間違いがあれば、それは致命傷となってしまいます。
4  反面、これまでにも繰り返し述べてきましたように、まだ眠ってはいるが各人のうちにあって活用することができる能力はじつに莫大であり、われわれはこれを最大の人的資源とすることができます。われわれは、これらの能力をこの変化した世界の新たな状況に合致するように鍛錬し、開発することによって──ただこの方法によってのみ──自然との関係も含めて、人類の現状に多少なりとも秩序と調和を回復し、安全に先へと進むことができるのです。
 つぎに要請されるのが、文化的進化であり、これはきわめて革命的なものとなるでしょう。なぜなら、この文化的進化を促進して維持すべき、偏見のない前向きの新しい人間主義(ヒューマニズム)は、人間をすべての進歩の中心に据えるとともに、われわれに人間への信頼を回復させるに足る強力なものでなければならないからです。この深部にまで及ぶ革新によって、われわれは、知識や力が増大する一方で道徳的にも存在的にも弱体化しつつあるという現在の不健全な段階から、自己達成と完成への新たな段階へと進むことができましょう。そして、この人間精神のルネッサンス(復興)にともなって、人間は、その知識と力のすべてを自らがおかれた状況の改善に向けるように刺激され、それによって、人間の企てたすべての冒険的事業の、真に分別ある主役となることでしょう。
 ここで、結論として、われわれの現在の姿勢の不適性を浮き彫りにするような、ちょっと腹立たしい問題に触れることを許していただきたいと思います。今日、膨大な量の研究が、“人工の知性”や“第五世代”、つまり自ら学習する「知性あるコンピューター」を発達させるという、複雑な仕事に向けられています。この先駆的な企てにたずさわる優秀な科学者たちには、私も十分敬意を払ってはいますが、しかし、私が知りたいのは、おそらくもっと重要で価値のある本然の知性が多くの老若男女に備わり、いたるところに見いだすことができるのに、なぜそのように遠回りをして、別な種類の知性を開発しなければならないのかということです。
5  われわれはなぜ、向上すること、磨かれることを待っている“人間の知性”を伸ばすことに専念しないのでしょうか。われわれは、そんなにも低くしか人間に期待していないのでしょうか。現代の政治や科学、宗教の各界指導者たちは、高度の知性をもつスーパーコンピューターがはびこる世界よりも、多少なりともそれ以上の知性をもつ、人間が住む世界のほうがよいのではないかと、自問すべきではないでしょうか。そして、もしどの指導者もあやふやな回答しか出せないのであれば、少なくとも、コンピューターの開発と人間の知性の向上の両面で、同等の研究がなされることを支持するのが、ともかくも、まだましなのではないでしょうか。
6  池田 コンピューターは自然を数字化する思考の象徴的存在といえるでしょう。現代の高度技術社会においては、コンピューターのめざましい発達と普及によってわれわれの生活が計り知れない恩恵を受けていることは、認めなければならないと思います。しかし、同時に、それが人間社会から人間らしさを奪い、あるいは人間らしさの発揮される場を縮めていることも認めなければなりません。とくに核ミサイルの発射基地等にコンピューターが大幅に使用されていることは、ちょっとした誤りで人類を絶滅におとしいれるかもしれない危険性を秘めているだけに、根本的な検討がなされるべきでしょう。
 もちろん、人間も誤りが多い存在です。だからこそ、一人の人間にすべての決定権が握られているような体制は望ましくありませんし、多くの人間の判断によって誤りをチェックし、防ぐことのできる体制が必要です。コンピューターは計算や記憶の面ではすぐれていますが、倫理的判断、価値判断、感情などが入り込む分野では、大きな誤りを犯す危険性があります。私は、コンピューターと人間の知性の特色を明確に見極め、その開発と両者の活用の領域を、とくにコンピューターの限界を明らかにすべきであると思います。こうして、人間の知性の“自然”、さらには生命自体の“自然”を大切にするところにこそ、環境としての自然と人間との、真の調和も確立されていくことと信じます。

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