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日蓮大聖人・池田大作

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広布の賢者の壮年部(下) 師子の勇気を 不死鳥の大生命力で

2008.12.18 随筆 人間世紀の光5(池田大作全集第139巻)

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1   仏法の
    広布の賢者の
      君なれば
    誇りも高く
      勝利の指揮とれ
 ある日、私は、逆境のなか、懸命に戦っている後輩に、この一首を贈った。
 秀才である彼からは、即座に決意の手紙が届いた。
 そこには、”古悩してきた人間は、苦労知らずを信用しない”という意味の、スイスの哲人ヒルティの言葉が綴られであった(『眠られぬ夜のために』第一部、草間平作・大和邦太郎訳、岩波文庫、参照)。そして手紙は、私も、この決心で、労苦を惜しまず、真の賢者となってまいります」と結ばれていた。
 この哲学者のヒルティ自身も、苦悩の連続であった。しかし最晩年、訪ねてきた知人に、ヒルティは語っている。
 「わたしの生涯から苦しみの時を抹消しようとすれば、よい想い出はぜんぜんのこらないことになるであろう。すべてよいことは苦しみの時間のうちに成長した」(アルフレート・シュトゥッキ『ヒルティ伝』国松孝二・伊藤利男訳、白水社)
 正義の指導者が多くの難に遭うことも、大勢の人びとを励まし、リードしゆくための試練なのである。
 決して、この道理を忘れてはならない。
 ともあれ、蓮祖大聖人は仰せである。
 「大難来りなば強盛の信心弥弥いよいよ悦びをなすべし
 立ちはだかる苦難や競い起こる強敵こそ、壮年の生命を、いよいよ雄々しく蘇らせ、いよいよ壮んに燃えたぎらせてくれるのだ。
 さらに哲学の達人ヒルティは、「若さの秘訣」について、「つねに新しいことを学ぶこと」(『幸福論』2、斎藤栄治訳、『ヒルティ著作集』2所収、白水社)を誇らしげに挙げている。
 「学ぶ人生」は老いない。
 創価大学の通信教育部でも、青年と共に学びゆかれる人生の先輩方の姿は、何よりも若々しく、美しい。
2  「私は口先だけの男を友にはしたくない」
 「仕事を見せろ、できれば立派な仕事を」(「エレゲイア詩集」久保正彰訳、『世界人生論全集』1所収、筑摩書房)
 私が大切にしてきた、古代ギリシャの詩人テオグニスの言葉だ。
 戸田先生も、「口先だけの男」には、それはそれは厳しかった。
 その反対に、地味であり、朴訥であっても、誠心誠意、努力を重ね、確かな実証を示す人を、抱きかかえるように大事にされた。
 弟子たちの「祈り」と「戦い」を、じっと見守っておられた。師匠とは、本当にありがたいものだ。
 一九五三年(昭和二十八年)の九月度の本部幹部会で、先生は、こう指導された。
 「長たる地位にありながら、闘争力のない者には福運が出ない」
 常々、戸田先生は──
 「臆病者になるな! 臆病者は、指導する力も出ない。資格もない」と厳しく言われていた。
 家庭であれば、その大黒柱には、一家を護り支える使命と責任がある。
 組織も、厳しく見れば、「長の一念」と長の闘争力」で決まるのだ。
3  この月(同年九月)、わが蒲田支部の折伏は、初めて千世帯の大台を突破した。あの「二月闘争」で、私と共に、二百一世帯という、大きな壁を破る結果を出してから一年半余り。蒲田支部は、また新たな金字塔を打ち立てたのである。なかでも、支部の最大の牽引力となった矢口地区は、三百世帯を超えた。
 この矢口地区の黄金柱が白木薫次地区部長であった。後の第二代蒲田支部長でもある。社会では、会社の重役を務め、良識豊かな大人の風格の人であった。地区員を、いつも慈愛の眼差しで見つめ、親にも勝る愛情を注いでいた。
 組織がタテ線の時代である。東北の秋田や北海道、愛知、岐阜、山梨等々、遠方で苦闘する同志のためにも、喜んで走った。真剣に走った。
 何でも親身に、気さくに相談にのってくれる地区部長を、皆はで慕っていた。その「白木のおじさん」と呼んで慕っていた。その「おじさん」という呼びかけのなかに、最上の敬愛と信頼の響きがあった。
 ひとたび戦いに臨めば、燃やす闘志は、情熱あふれる青年の如くであった。幾つになっても、意気軒昂に戦う生命は輝き光る。だから人材も陸続と出た。
 「白木君は、あらゆる面で福運を受けているな」
 陰で、戸田先生は、常にそう誉めておられた。
4   健康と
    長寿の生命
      大切に
    壮んな年に
      誉れ多かれ
 「闘争力」とは、勇んで第一線に立つ生命力だ。
 中国の周恩来総理は、その模範を示され続けた。(以下、新井宝雄『革命児周恩来の実践』潮出版社を参照)
 北京郊外のダムの建設現場を訪れ、一週間、寝食を共にして働いたこともある。五百人を超える中央の幹部も、勇んで総理に同行した。
 周総理らは、この現場でダムの堤を築くため、手押し車で石材を運び、列を作って石を手渡ししていた。
 周総理は、既に六十歳。幹部たちも平均年齢は四十五歳を超えていた。だが仕事に取りかかると、”竜か虎のように”意気盛んであったという。
 しかも総理は、皆が昼間の労働に疲れて眠った後、睡眠時間を削って、国家の執務も行った。
 総理の部屋は、いつまでも明かりが消えなかったのである。
 周総理が率いた一隊は、尊敬の念を込めて、「黄忠隊」と呼ばれた。
 黄忠は、三国時代、諸葛孔明の下で活躍した名将である。七十歳近くになっても、勇んで陣頭に立った。
 敵将に向かっては、「わしを年寄りとあなどるか。わしの刀はまだ若いぞ」(『完訳 三国志』5、小川環樹・金田純一郎訳、岩波文庫)と、猛然と突入していった。
 黄忠が立てば、全軍が奮い立った。
 「鋒を突きたて、あくまでも進撃し、率先して士卒を励まし、鍾と太鼓は天を振わせ、歓声は谷を動かすほど」(陳寿著・裴松之注『正史 三国志』5、井波律子訳、筑摩書房)──黄忠の天晴れな戦闘を、正史『三国志』はこう伝えている。
 広宣流布のため、平日の昼間から奮闘される、わが壮年部の「太陽会」「敢闘会」などの皆様方は、誉れの「創価の黄忠隊」である。
 お体を大切に、晴れ晴れと進んでいただきたい。
 当然、仕事の上では「定年」はある。しかし、南無妙法蓮華経を唱え行じゆく生命には、定年はない。
 常に、元初の旭日の生命力で、永遠不滅の勝利の人生を飾っていけるのだ
5   子々孫々
    末代までの
      功徳をば
    父たるあなたの
      因果の土台で
 波乱万丈の大闘争を越えて築き上げた、わが生命の城は難攻不落である。
 釈尊が信頼する弟子であった須達長者は、「七度貧になり・七度長者となりて候いし」と言われる。
 現実社会において、浮き沈みは避けられない。
 特に七度目は、最も苦しい窮地に立たされた。しかし、この一番、苦しい時に、須達長者は夫妻して、身命を惜しまず、すべてを捧げて、師をお護りした。
 この時の大福運によって、夫妻は、どん底から立ち上がった。そして、当代随一の長者となり、やがて祇園精舎まで建立寄進する大境涯になったのだ。
 日蓮大聖人は、この「師弟不二の信心」で勝った須達長者夫妻の姿を讃えられ、「これをもって万事を弁えなさい」と仰せである。
 仏法には、汲めども尽きぬ福徳を積みゆく因果律が明かされているのだ。
 仏典には、仏を指して「出世の長者」と言われ、この長者には「魔を降し外を制す」力があるとも示されている(同八一八ページ)。
 仏の大力を出せ! 卑劣な魔の蠢動を打ち破り、外にも厳として勝て。そして、健気な婦人部や女子部を護り抜け──これこそ、"男の戦い"である。なかんずく地域や職場で信頼されゆく壮年の戦いだ。
6  有名なインドの哲学者ラダクリシュナン博士は、私の大切な友人である。
 博士の父上は、マハトマ・ガンジーと共に勇敢に戦った非暴力の闘士であった。亡くなられた後も、「地位や権力や金銭にとらわれない、恐れを知らぬ人であった」と賞讃された。
 博士は、お仕えする師匠からも、偉大な父上の勇気ある息子として、断じて勝ち誇る人間になれ! と、薫陶されてきたのである。
 自らの信念を貫いた、悔いなき勝ち戦の歴史こそ、わが子や後輩に対する最高の遺産となるのだ。
 「一人の人間こそすべてである」(オクターヴ・オブリ編『ナポレオン言行録』大塚幸男訳、岩波書店)と、ナポレオンは必勝の将軍学を語った。広宣流布の勝利も、一人の人間で決まる。
 我ら壮年の誉れとは、いったい何か。それは、わが人生の道にあって、信心を根本に打ち立てた「勝利の旗」の数ではあるまいか。
 「誰か」ではない。「自分」である。自分が勝つことだ。自分に勝つことだ。
 その姿こそが、常に勇気を波動させていくのだ。
7   不死鳥か
    依正不二なり
      君と僕
 私が、この句を詠んだのは、入信三十周年を迎えた一九七七年(昭和五十二年)の八月二十四日であった。この日は、「壮年部の日」であった。
 私は、信頼する全国の壮年部の同志に、共に"不死鳥"の如く前進をと、この句を贈ったのである。
 句に詠んだ「依正不二」とは、行為の主体である「正報」と、その依り所となる環境の「依報」が不二だと洞察した、仏法の奥義である。
 想像を絶する艱難をも、「法華経の兵法」で勝ち切って、何ものにも微動だにせぬ自分自身を鍛え上げるのだ。
 この勝利また勝利の自分に即して、壮大なる栄光の環境が出来上がっていくのである。全部、「依正不二」だ。自分の胸中の制覇が、すべての環境も勝利させていくものである。
 日蓮大聖人は、我ら壮年部の大先輩である池上兄弟に厳しく仰せである。
 「強盛に歯噛みをして、決して弛む心があってはならない」(同一〇八四ページ、通解)
 そして師匠の大聖人が、幕府の権力者・平左衛門尉に向かって威風堂々と振る舞い、破邪顕正を師子吼されたように、少しも恐れる心があってはならないと、励まされたのである。
 師の如く、「師子王の心」で戦え──これこそ、師弟不二の壮年部の魂である。
 わが弟子よ、師匠が切り開いた「勝利の大道」に、敢然と続け!
8  一九七四年(昭和四十九年)、日本で開催された、あの至宝の名画「モナ・リザ展」の折、フランス政府の特派大使として来日されたのが、行動する文化人アンドレ・マルロー氏であった。
 この折、氏と私は、聖教新聞社で、三時間近くにわたって対話を重ねた。
 翌七五年の五月には、パリ郊外のご自宅にお招きをいただいた。文明の未来を見つめ、様々なことを語り合ったことが懐かしい。
 このマルロー氏の哲学を凝結した言葉がある。
 「なすべきことをなして、コメント(=論評)は人にまかせろ」(竹本忠雄『アンドレ・マルロー日本への証言』美術公論社)
 まったく、そのとおりだ。
 傍観者の戯言(たわごと)などが、なんだ!
 傍観者の無責任な態度が、なんだ!
 傍観者の勝手気ままな臆病な言動が、なんだ!
 我らは"不死鳥"の如き広宣流布の闘士である。我らには"不死鳥"の如き師弟の誓いがあり、久遠からの偉大な使命がある。
 戦いはこれからだ。
 必ず、勝つのだ。
 我らに開けぬ道はない。
 我らに破れぬ壁はない。
 勝利できぬ戦いはない。
 戦おうではないか!
 そして勝ちまくるのだ。
 勝って勝って、深く大きい歴史を子孫に残すのだ。後世に残すのだ。
 勇敢なる凡夫という、最高の俳優となって、今世を生き抜いていくのだ。
 わが大切な大切な、壮年の同志よ!
 偉大なる道を歩みゆく、わが不二の戦友よ!
 私たちを、君たちを、諸天善神は、万歳を叫びながら見守り、喝采しながら未来永遠に護ることを、忘れてはならない。
  走り抜け
    師子の如くに
      勝ちまくれ
    師弟不二なる
      長者の君なば

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