Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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正義の東海道を讃う(中) 弟子よ綴れ

2007.7.18 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

前後
1   この世にて
    師弟に勝る
      ものはなし
    君よ忘るな
      勝利の絆を
 立宗七百年を祝う昭和二十七年の四月──。
 戦時下、軍部に迎合して邪義を唱え、牧口先生と戸田先生を投獄に至らしめた元凶の坊主を、我ら青年部は徹底して呵責した。有名な「狸祭り事件」である。
 「悪法を以て人を地獄にをとさん邪師をみながら責め顕はさずば返つて仏法の中の怨なるべし
 邪悪を責めよ。正義に照らして、最も正しい慈悲の行動である。だが顛倒の宗門は、あろうことか、戸田先生に対し、「謝罪文」の提出と「法華講大講頭の罷免」「登山停止」を決議したのだ。
 先生は激怒なされた。
 「折伏もできぬくせに、衣の権威で威張るだけの坊主どもよ! すべて学会に対する真っ黒な焼き餅だ!」
 私は即座に戦闘の火蓋を切った。青年部から精鋭を選抜し、全国の末寺に乗り込んだ。
 弟子の言論闘争で、師の正義と真実を奮然と叫び抜いたのである。
 宗教改革の先駆者、チェコのヤン・フスは訴えた。
 「真実を求めよ
  真実に聴けよ
  真実を愛せよ
  真実を語れよ
  真実につけよ
  真実を守れよ
  死に至るまで」(石川達夫『マサリクとチェコの精神──アイデンティティと自主性を求めて』成文社)
 後に具眼の士は言った。
 「あの時はじめて宗門は、戸田先生には池田大作という、ものすごい弟子がいることに驚嘆したのです」
2  文京支部の地区の激励に、神奈川の橋本へ飛び込んでいったのは、相模原市が誕生する前年の一九五三年(昭和二十八年)六月である。当時、人口は八万人ほどであったろうか。
 今では七十万人を超え、神奈川の「第三の都市」として隆々たる大発展を遂げている。
 この二十八年には、復興の熱気にたぎる京浜工業地帯にも通った。横浜で「立正安国論」の地区講義を担当した。トタン屋根の小さな工場のあるお宅が、仏法の極理を学び合う尊き会座となった。
 「立正安国」──まず「立正」である。正義が断じて勝ち栄えることだ。そこにこそ「安国」が実現する。
 「人間の正義と威厳とを保持するために闘いが不可避とあらば、我々はあえて闘おうではありませんか」(『道徳的凋落』市井三郎訳、『晩年に想う』所収、講談社)
 人類の頭脳アインシュタイン博士の絶叫であった。
3  一九五七年(昭和三十二年)の九月八日。
 横浜・三ッ沢の競技場で、戸田先生は「原水爆禁止宣言」を発表され、これが現代世界における「立正安国」の遺訓となった。
 あの大宣言から半世紀──私は世界を駆けめぐった。
 世界と対話を続けてきた。
 恩師が遺命された通りに、人類の生存を脅かす魔性の爪を、もぎ取るために!
 核廃絶を目指す科学者の連帯、パグウォッシュ会議のスワミナサン会長は、おごそかに言われた。
 ──「ラッセル・アインシュタイン宣言」とともに、「原水爆禁止宣言」は全世界のすべての言語で出版されるべきだ──。
 神奈川で発せられた恩師の師子吼が、人類の平和と正義の規範として仰がれゆく時代に入った。
 「真の平和とは、たんに緊張がないことではなく、そこに正義があることです」(『自由への大いなる歩み』雪山慶正訳、岩波新書)
 こう喝破したのは、人道の獅子キング博士である。
4   次々に
    勝利を飾りて
      喝采の
    同志のスクラム
      何と尊き
 一九七〇年(昭和四十五年)──誹謗中傷の暴風の吹き荒れる中、私は箱根へ向かった。
 神奈川と静岡を結ぶ要衝に、金城鉄壁の陣を敷いた。
 七一年(同四十六年)の七月には、「三崎カーニバル」を開いた。
 近代日本の夜明けを告げた三浦半島である。三浦、横須賀、逗子などを抱いた、この半島から、学会が地域と新たな友好を結び、ともに発展していく先駆の光が放たれた。
 その西には、鎌倉、さらに藤沢、茅ヶ崎、平塚と、明るい陽光の街々......。
 また、歴史の都・小田原では、「指導者は史観を養え!」との、恩師の指導のままに、勝利を千里の外に決しゆく作戦会議を重ねた。
 学会本部を発ち、幾度も走り駆けた東名高速道路──。
 左右には、常に東海道の伸びゆく天地が広がっていた。
 大和、座間、綾瀬、海老名、厚木、伊勢原、秦野......。
 大神奈川を支える屋台骨の県央地域だ。
 やがて、足柄山地を越え、静岡県の御殿場、裾野、三島、沼津、富士、清水へ。
 さらに静岡、焼津、藤枝、島田、牧之原、御前崎、菊川、掛川、袋井、磐田へと道は続く。
 日本の新しい中心拠点.にと、恩師が願われていた浜松の天地には、今や浜松南文化会館も荘厳に完成した。
5   迫害と
    黒き弾圧
      はね返し
    正義の英雄
      なんと晴れやか
 会長を辞任後、真っ先に向かったのも、東海道である。静岡であり、そして神奈川である。
 ことに、新しく誕生した神奈川文化会館を本陣として、どす黒い野心と陰謀の魔物どもの毒牙から、私の全生命である学会員を護り抜くためであった。そして、世界に開かれた横浜の港から、一閻浮提の広宣流布への新航路を、創り結びゆくためであった。
 ロシアの大文豪トルストイは言った。
 「我々には世界の人々との交流という人生最大の喜びが与えられている」(『人生の道』北御門二郎訳、武蔵野書房)と。
 一九七七年(昭和五十四年)の五月五日。
 輝く大海原が見える神奈川文化会館で、私は「正義」と、一気阿成に筆を走らせた。
 そして「われ一人正義の旗持つ也」と記したのである。
 「正」の文字は「一」を「止める」と書く。
 「義」の文字は「我」を「美しく」と解く。
 「正義」の師弟──この一筋の大道ほど、人間として心定まり、心美しき道はない。
 御聖訓には「智慧に於ても正智あり邪智あり智慧ありとも其の邪義には随ふべからず」と仰せである。
 そして「邪悪の師を遠離し正善の師に親近すべきなり」と厳命なされている。
 正邪の峻別を忘れた時、日蓮仏法の魂の灯は消える。
 この大仏法の眼目を忘れ果て、魔王の術中にからめとられた幹部たちの、何という愚劣さよ。
 だが、三代の心を深く知る、わが神奈川の友は、微動だにしなかった。
 心に寸毫の隙間もなく、信じ合える瞳が光っていた。まことに不思議であった。頼もしい限りであった。
 私が指揮を執る神奈川文化会館を目指して、毎日また毎日、自発のうちに集ってこられた幾千、幾万の友よ!
 山下公園から、会館にいる私に向かって、懸命に手を振られた母と子の姿よ!
 私は、ここ神奈川から、今再びの学会厳護と広宣流布の法戦を開始したのである。
 妻もまた、東海道の友との忘れ得ぬ歴史を刻んできた。
 一九七九年(昭和五十四年)の五月二十七日には、横浜・神奈川区内の婦人部の集いにも出席した。
 緑深き東海道の全同志に、ご健康、ご多幸あれと、いつも変わらず、題目を送り続ける妻であった。
 「此の経を持つ女人は一切の女人に・すぎたるのみならず一切の男子に・こえたりとみえて候
 この甚深の御聖訓は、東海道の婦人部の大先輩というべき、日眼女(四条金吾夫人)への仰せであられた。

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