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日蓮大聖人・池田大作

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永遠なれ栄光の五月三日(上) わが「創価の出発」の記念日

2007.5.3 随筆 人間世紀の光4(池田大作全集第138巻)

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6  五月の三日は、学会において一番、祝賀の式典で賑わう日である。
 特に、戸田先生が第二代会長に就任されて晴れの一周年に当たる、昭和二十七年の五月三日の佳き日を、恩師は、あえて私ども夫婦の結婚の日としてくださった。
 両家を、お一人で訪問され、この縁談をまとめてくださったのも、先生であられた。
 昭和二十六年の師走、先生は、私の妻の実家である白木家へ訪ねてくださった。この時、妻は銀座にある銀行の勤めに出ており、同席はしていない。
 先生は「今日は、素晴らしい一世一代の話を持ってきたぞ」と切り出され、白木の両親に語ってくださった。
 それから数日後の寒い日、先生は今度は、大田区の糀谷にある私の実家にも、お一人で来てくださったのである。
 深い深い、弟子を思われる先生のこの行動に、私の父も母も、誠に恐縮し、感激していた。粗茶をお出ししながら、「急であったもので、何の準備もしておらず申し訳ありません」と、何度も申し上げたようだ。
 先生は話してくださった。
 「大作は、私の大事な弟子です。私が一生涯、訓練し、私の後を継いでもらいたい人物です。学会は今は小さい。しかし、いかなる非難中傷を受けることがあっても、大作のような、私の弟子が成長したならば、必ず学会も大きくなります。日本はおろか、世界的になるでしょう。どうか、お父様も見守ってあげてください。お母様も、お願いします」と。
 それはそれは丁重な言葉であった。
 両親は、満面、緊張して、応対申し上げたのである。
 「大作は、一切、先生に差し上げたものです。先生に、学会に、うんと、ご奉公してもらいたいと思っています」
 やがて話は、結婚の件となった。
 父母は、感謝に堪えない様子で、御礼を申し上げた。
 先生は、最も意義ある五月三日を、結婚の日として決めてくださった。この日もまた、晴天であった。
 ささやかな結婚式の席上、師であり、主であり、慈父でもある戸田先生は、本当に嬉しそうに、私たちを見守ってくださった。
 そして厳として言われた。
 「私の願うことはただ一つ、これからの長い人生を広宣流布のために、二人で力を合わせて戦い切ってもらいたいということであります」
 この師の心のままに、歩み通してきた五十五年である。
7  戸田先生は、私たちが結婚早々の時代、住んでいた大田区の大森山王の「秀山荘」という小さなアパートにも、お一人で来てくださった。
 一九五三年(昭和二十八年)六月十二日お認めの常住御本尊の入仏式の導師をしてくださったのである。
 四畳半の仏間で、勤行が終わってから、私たち夫婦に、深く未来の学会への指導をしてくださった。
 妻の膝の上には、生まれて四カ月の長男・博正がいた。
 博正と命名してくださったのも、先生である。
 先生は、赤子の生命に刻みつけておくように真剣に語りかけておられた。私たち夫婦は、その姿を見つめながら、深く感動した。
8  私が共に対談集を発刊した"アメリカの良心"ノーマン・カズンズ博士は論じられた。──活力に満ちた人びとが、少人数であっても、社会を動かし、歴史を変える実証を示せば、現代の無力感を打破できる(『ある編集者のオデッセイ サタデー・レビューとわたし』松田銑訳、早川書房)、と。
 戸田先生の会長就任前の昭和二十六年三月、一カ月の折伏は、全国で九十五世帯であった。
 先生は、「このままでは、広宣流布は一万年かかる」と嘆かれた。いな、側近の弟子たちを叱った。
 彼らは、師匠である戸田先生の心を知らなすぎる──。
 私の心は怒りに変わった。
 私は立ち上がった。一人が壁を破り、一カ所が突破口を開けば、全軍が希望と確信に燃えて続くからだ。

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