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日蓮大聖人・池田大作

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大九州の誉れの使命  

2004.2.28 随筆 人間世紀の光1(池田大作全集第135巻)

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1  ″創価完勝″は我らの手で!
 フランスの偉大な人道主義者であり、大文豪と言われたロマン・ロランは、大革命を描いた戯曲に、決起した民衆の叫びを書き残した。
 「われわれにとって選択の余地はないのです。どうしても勝たなければならないのです」(『七月十四日』宮本正清訳、『ロマン・ロラン全集』9所収、みすず書房)
 彼自身も、ファシズムへの抵抗運動に奮闘し、命をなげうって戦っていった。彼の代表作には、『ジャン・クリストフ』『魅せられたる魂』等があり、日本でも有名だ。
 私の友人であり、幾度となく語り合ったフランスの知性ルネ・ユイグ氏ご夫妻も、ロランのことを大変尊敬されていた。氏とは、対談集『闇は暁を求めて』(本全集第5巻収録)を出版させていただいている。夫人は、後に、鋭い言葉で語っておられた。「ロランの思想は二百年先を進む。それと同じく、牧口初代会長の思想も二百年先を進んでいるように感じた」――深く温かい評価をしてくださった。
 ユイグ氏自身、ファシズムの野蛮と戦った文化の闘士である。魂の戦友として、私たちは、ロランの戦う精神を愛した。
 「負けるな。何ものもお前を、お前の目的から外れさせてはならぬ」
 「お前のうちには唯だ一つの考えあるのみ。つねにそれを考えていろ。勝つのだ、勝たねばならないのだ!」(『アエルト』波多野茂弥訳、『ロマン・ロラン全集』11所収、みすず書房)
 そして、この言葉も、私の好きな一節であった。
 「勝利をうるためには、すべての力を糾合せねばならないのだ」(『狼』波多野茂弥訳、同全集9収録)
2  本年は、懐かしき九州の愛唱歌「東洋広布の歌」が生まれて五十周年と伺った。私もよく覚えているが、この歌は誕生した当初、「九州制覇の歌」という勇ましい名前であった。全九州に妙法を広めていくとの、心意気を託していたのである。それが現在の名前に変わったのは、戸田先生を迎えて意気軒昂に開催された、第一回九州総会(一九五七年=昭和三十二年)がきっかけであった。登壇者がこぞって「九州制覇」を叫んだ総会に、″その意気やよし!″と先生も喜んでくださる――皆はそう思っていた。
 ところが、先生は、意外な言葉を口にされた。
 「先ほどから、『九州制覇は我等の手で』と言っているが、そんな了見の狭いことは言わん方がよいと思う」
 「自分たちのことしか考えないようで、スケールが小さい。どうせなら、『東洋広布は我等の手で』と言ってほしいものだ!」
 同志は皆、驚いた。
 九州の広布といっても大変な目標であり、先生が常に「東洋広布、東洋広布」と言われていても、それが自分たちの使命と責任だとは、思ってもいなかったのである。
 しかし、その″小境涯″が破られた時、九州男児の胸には、創価の先駆者たる崇高な使命感が、一段と燃え上がっていったのである。「東洋広布は我等の手で!」と。
 もっと大きい、偉大な気概をもつことだ。もっと広い世界に目を向けることだ。″小さな了見″の心は捨て去っていかなくてはいけない。
 偉大な使命と目標が、汝自身の偉大な人生を創っていくのである。
3  「創価完勝の決定打は我等の手で!」。この気宇壮大な責任感こそ九州魂である。
 「九州に続け!」。福岡、佐賀、長崎、熊本、鹿児島、大分、宮崎――大九州の皆様方の先駆けの、そして命がけの奮闘が、全国、全世界の同志をどんなに鼓舞してきたことか! 私の胸からは一生涯、離れることはない。
 「先駆」とは、″人に先んじる″だけではない。いざ新たな戦いを起こそうとした時、誰でも最初に突き当たるのは、自分自身の心の壁である。「難しい」「苦手だ」「できない」――そうした自身の壁に、勇気を奮ってぶつかることだ。
 壁を破れ! 汝の戦場から逃げてはならない。古代ギリシャの詩人エウリピデスが歌ったごとく、「勇者は真向から立ち向ってこそその名に恥じぬもの」(『レソス』柳沼重鋼訳、『ギリシャ悲劇』4所収、筑摩書房)なのだ。
 すなわち″自分との戦いに先んじる″人こそ、偉大なる深き人生を生き抜いた、まことの勝利の人の異名だ。
4  それは、一九八○年(昭和五十五年)四月のことであった。
 第五次訪中を終えた私は、飛行機で、上海から長崎へ飛んだ。一年三カ月ぶりの九州だったが、私を取り巻く状況の変化は激しかった。
 前年(一九七九年)の四月、私は会長職を辞任した。反逆者と悪坊主らが結託し、私と学会員の絆を断ち切ろうとする、どす黒い謀略が渦巻いていた。
 九州の友も陰険な坊主らに散々いじめられ、辛酸をなめ尽くした。その同志のもとへ自由に行けない――身を切られるような日々であった。
 しかし、わが同志は、私を待っていてくれた。あの時、福岡に向かう特急が停まった諌早や佐賀の駅で、私を見つけて、「必ず勝ちます」と叫ぶように走り寄ってきた、健気な長崎の友たちよ、そして佐賀の同志たちよ!
 わずかな停車時間の、一瞬の出来事だった。側に行き、抱きかかえたかった。だが、特急の窓は開かない。ホームと反対側の座席にいた私は、停車のたびに、友の笑顔が並ぶ窓に駆け寄った。「頑張れ、頑張れ!」と、車窓を平手で何度も叩いた。
 出会いは一瞬でも、戦う師弟の魂は、必ず一生涯、響き合っていくのだ。
 五月一日、私は九州平和会館(当時)を訪問し、わが福岡の弟子に訴えた。
 「広宣流布の胸中の旗を断じて降ろしてはならない!」
 「折伏の修行の法旗を決して降ろしてはならない!」
 「一生涯の成仏の、信心の炎の光を消しては絶対にならない!」
 私は一回、もう一回と、この言葉を強く繰り返した。
 立ち上がれ、大九州の心臓部・福岡の友よ! 先駆の中の先駆・北九州の友よ!
 我らの天地から、大反撃の痛烈な先駆けの地響きを起こしゆけ!
 戦いの魂を、戦いの牙を、戦いの炎を失えば、わが同志を守れない。正義を倒さんとする邪悪を滅亡させることもできない。
5  この直前に私が訪れていた中国は、内戦の如き「文化大革命」は終結しても、なお、その余塵が漂っていた。私は、各界の要人と語り合ったが、ひときわ印象深かったのは、人民の言葉の端々から感じる、革命の理想と人民を守り抜こうと命がけで戦った周恩来総理への敬愛の深さであった。
 また、「文革」で国家を撹乱した「四人組」が何をやってきたのか、その残酷な所業も、人びとの口振りに見え隠れしていた。
 なかでも、私の心に焼き付いたことは、「四人組」を打倒したのが「人民の怒り」であったという事実だ。
 周総理の逝去(一九七六年一月)から三カ月後の四月、「清明節」(死者を悼む伝統の日)が来た。総理を追悼する声は全国に高まり、北京の天安門広場を埋めた人びとは延べ二百万人に達した。
 だが、「四人組」は追悼をことごとく邪魔した。人民が広場に置いた花輪も、総理の遺影も、夜間にすべて撤去された。さらに、この暴挙に抗議した人びとを暴力で弾圧までしたのだ。人民の怒りは爆発した。
 卑劣な権力者よ、お前たちに総理と我らを引き離すことは絶対にできない! 総理への哀悼の花輪は、我らの心の中にあるのだ!
 「四人組」への広範な大反撃が始まった。そして、その半年後、彼らは遂に打倒されたのである。
 まさに、誰よりも人民を愛した周総理が、死して後も、人民と共に戦い、私利私欲の悪党どもを倒したのだ!
 私も広布のため、同志のために身命を捧げてきた。同志もまた、必死の奮闘で応えてくださった。卑劣な謀略も、この師弟の絆を切ることは、絶対にできなかった。
 民衆のなかへ先駆せよ!
 民衆のなかで正義を叫び、邪悪を追撃しきっていけ!
 周総理は、なかんずく青年に強く教えられた。
 「青年諸君が分散して大衆のなかへはいり、全国の津々浦々にひろがってゆくなら、われわれの力は無敵である」(中共中央文献編集委員会編『周恩来選集〈一九二六年〜一九四九年〉』日本語版《周恩来選集》翻訳室訳、外交出版社)
 その通りだ。
 民衆第一! ここに徹した行動が、正義なのだ。真実なのだ。仏法なのだ。
 創価の偉大な歴史も、同じ方程式をとっている。だから、学会は断固として勝ってきたのである。
6  あるシェークスピア劇に登場する王は、勝利に終わった一戦の最後に語った。
 「さいわい今日の戦いは上々の首尾であった、この上は手をゆるめてはなるまいぞ、完全な勝利を見るまでは」(『ヘンリー四世 第一部』小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』5所収、白水社)
 今、全九州の同志は、創価の完勝へ先陣を切った。
 今月は若々しき十万の壮年勇者が大結集した。三月には、意気高く九州総会が行われる。
 さらに嬉しきことに、明二〇〇五年、大分に完成する九州の記念墓地公園に、「世界広布先駆の碑」が設置される。(=九州池田記念墓地公園として二〇〇五年七月に開園)
 永遠に新しき出発をするための、そして同志たちのための記念碑である。
 偉大な敬愛する九州の同志たちよ! 我らの記念碑に、圧倒的な先駆と勝利の輝く歴史を刻んでくれ給え!
 先駆の尊き九州の友よ、立ち上がれ!
 真剣な九州の先駆の友よ、いついつまでも健康で、朗らかであってくれ給え!
 懐かしき九州のいつも元気な友よ、どうか日本一仲良く、「気取らない」「誠実である」「真剣である」「必ずやりきる」という伝統を、日本中の同志のために貫いていただきたいのだ。
 中国の英雄・魯迅先生の、悪と戦う魂は激しかった。
 ――人生は闘争! 闘争は正しいのだ!
 大九州の友よ、負けるな!

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