Nichiren・Ikeda
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第二節 『ファウスト』
随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)
前後
26 これは、あくなき自我拡大という、いわゆる“ファウスト的”なるものを典型的に示す言葉として知られるが、同時に、自我を宇宙大にまで拡大しようとする普遍化への欲求は、「宇宙即我」「我即宇宙」として、ミクロコスモスとマクロコスモスの融合を説く広大な仏教的生命観、宇宙観にも通じる視点といってよい。
先にもふれたように、ファウストは、机上の観念論者ではなく、逞しい現実主義者であり、実践の人であった。己が自我を人類的スケールにまで拡大しようとの壮大な抱負を、実践に即して追求しようとしたファウストが、象牙の塔はもとよりプライベートな幸福の場にも安住できず、政治という“公共”の場へと身を挺していったのは、ある意味では必然の成り行きであった。大きな仕事、大きな活動は、必然的に、それに応じた自我の拡大をもたらすからである。
たしかに、ファウストの踏み出した道は、事業欲や権力欲が必ずつきまとう危険性をはらんではいた。しかし、ゲーテは、ファウストを誘惑してよいか、との悪魔メフィストフェレスの申し出に対し、神に次のように答えさせている。
よい人間はいくら暗黒の衝動にうながされていても、
けっして正しい道はわすれない(天上の序曲)
27 果たせるかな、長い長い魂の遍歴の果てに(ゲーテは、その時のファウストの年齢を百歳と言っている)ファウストが到達した境涯は、権力意志の貫徹ではなくて、“人間の幸福は、他者のために働いていくなかにのみある”というものであった。
それは、大乗仏教の菩薩行、あるいは自行化他の精神にも通じていく、広々した心境であったといってよい。目は見えなくなったが、「心の中には明るい光がともっている」からである。
盲目のファウストは「最後の仕事で、最大の仕事」である、海岸一帯の大開拓事業を志す。
そして、最後の独白――。
おれは数百万の人々に、
新しい土地を作ってやる。
堅固でないかも知れぬが、働いて自由に住める土地だ。
(中略)
人間叡知の最後の言葉は、こうだ――
「自由と生命をかちえんとするものは、日々、新しく、
これを戦いとらねばならぬ」
だから、ここでは、子どもも大人も年よりも、
それぞれ危険とたたかって、すこやかな年月を送るのだ。
おれはそのような人間の、みごとな共同社会をながめながら、
自由の民と自由な土地に住みたい。
おれはかかる瞬間にむかって、
「まあ、待て、おまえは実に美しい」と呼びたい。
おれのこの世に残した痕は、もはや
永劫を経ても滅びはせぬ。
そうした高い幸福を予感して、
おれは最高の瞬間を味わうのだ。(悲劇第二部第五幕・宮殿の広い前庭)
28 民衆の海の中へ、果敢に身を投ぜずして、偉業の成就も、真実の幸福もありえない。法華経に「三界は安きことなし 猶火宅の如し」(開結二三三㌻)という法理がある。すでに、米ソ両大国の核兵器の保有量は、あの惨劇をもたらした広島型原爆の百五十万倍であるという。まさに「火宅の如し」である。人類の平和と幸福という夢を実現するには、ファウストが雄々しくもそうであったように、この火宅のごとき「娑婆世界」の現実から逃げたり、避けたりしては絶対にならない。
最後の独白を終えると、ファウストは、後ろに倒れ、死ぬ。理想の国土を作っているつもりであった彼は、その国土が、その実、悪魔メフィストフェレスの企みによる、ファウスト自身の墓であることも知らずに……。
悪魔は、墓からファウストの魂を盗みとろうとしたが、奪うことができず、天から天使が降りてきて、その魂を守りぬいて、昇天していく。“救い”の手がさしのべられる。
詩劇『ファウスト』は、たしかに悲劇といえるかもしれない。しかし、あらゆる優れた悲劇がそうであるように、そこには、魂のカタルシス(浄化)をもたらす強力な力がある。ファウストの、波瀾万丈の魂の遍歴は、人間いかに生くべきかという、近代人の“自律”の問題をめぐって、汲めども尽きぬ泉のように、多くの示唆をはらんでいる。