Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第二節 『ファウスト』  

随筆「私の人間学」(池田大作全集第119巻)

前後
1  「原点」を深めゆくことの尊さ
 ゲーテの『ファウスト』は、ダンテの『神曲』と並んで、世界の哲学的文学の最高峰に位置するといわれる。それは、まことに難解ではあるが、私も、若いころから何となく身から離すことのできなかった“一書”であった。
 周知のように『ファウスト』は、戯曲の形をとった文学である。驚くべきことにゲーテは、その着手から完成まで六十年という歳月を費やしており、亡くなる寸前まで筆をとり続けている。
 途中の二十年ほどは、他の仕事――ゲーテは、ザクセン・ワイマール公国の大臣として、政治に携わるなどしている――に忙殺されて手をつけられなかった時期があるが、それにしても大変な持続力の結晶である。『ファウスト』は、“持続は力なり”という古今の鉄則の、芸術上からなされた見事な裏付けといってよい。
 『ファウスト』は、「捧げることば」「舞台の前戯」「天上の序曲」をプロローグとして「悲劇・第一部」と「悲劇・第二部」から構成されている。ファウストは、ルターなどと同時代を生きた、実在の人物である。多少いかがわしいところはあったらしいが、医学、芸術、数学、哲学を究めていた伝説的な人物であり学者であったといわれる。ゲーテ以前にも、イギリスの劇作家マーローなどが、この人物を描いているが、内容的には物足りなさが残るといわれている。そのファウスト伝説を本格的に取り上げ、掘り下げ、見事な芸術性と哲学性の輪郭を与えたのが、ゲーテである。主人公のファウスト博士の死にいたるまでの魂の遍歴には、ゲーテ自身の胸中の思いの一切が託されていた、と私は思う。
 ゲーテが、この畢生の大著に着手したのは弱冠二十三歳の時といわれている。自身、若き友人のエッカーマンに「『ファウスト』に筆を初めたのは『ヴェルテル』と一緒であった」(エッカーマン『ゲーテとの対話』神保光太郎訳、角川文庫)と語っている。
2  ちなみに『若きヴェルテルの悩み』がヨーロッパ全土に衝撃と感動の渦を巻き起こしたのは、ゲーテ二十五歳の時のことである。すなわち、生と死の深淵をのぞきこませた青春の灼熱の激情こそ、やがて、六十年の歳月を経て、世界文学の至宝として結実する原体験であり原点であった。
 その間、ゲーテは、さまざまな角度から『ファウスト』を書き継ぎ、推敲し、重層化していっている。この壮大なドラマには、個人と社会、宇宙との関連性を主軸にした「生」のあらゆる多様な局面が網羅されているといってよく、その意味で『ファウスト』は、青春時代の原点を、生涯かけて深め続けたゲーテの激しい一生を象徴する存在であった。それは『ファウスト』を書き終えた時、“私の今後の命はすべて贈りものと考えたい”としていることからも、はっきりとうかがい知ることができよう。フランスの文学者P・ヴァレリーは『ゲーテ頌』の中で「ゲーテのなかで何よりも私の注意を引くのは、あの非常な長命であります」(伊吹武彦訳、『ゲーテ全集』12所収、人文書院)と述べている。この「長命」とは、たんに長く生きたということではなく、一つのかけがえのない原点を、焦らず、時間をかけ、年を追って深くそしてまた大きく成熟させていった、大文豪の持続の力を指しているのだと思う。そのように、原点とは、人生行路を照らす導きの星であり、豊かな創造と前進をもたらすばねである。また大樹をはらんだ種子といってもよい。そして正義の信念を燃やす核であり、自己を静かに客観視するための座標軸といってよい。
 ともあれ、ゲーテに限らず、芸術家であれ、思想家であれ、経綸の人であれ、多くの一流の人物というものは、その人の人生を決定づけたそれぞれの不動の原点、光源を、生涯、胸中にいだいているものだ。彼らの一生は、ある意味で、その原点を確認し、行動のなかで実証していった「原点への旅」であったといえる。その「一もって貫く」信念の翼が、彼らを人間としての偉大さの高みにまで運んだのだということを、忘れてはなるまい。
3  「対話」ということの意味
 言うまでもないことだが、『ファウスト』は戯曲であり、対話で成り立っている。もちろん、独白部分もかなりあるが、対話が基調となり、そのなかに独白が効果的に織り込まれている。
 アテナイのソクラテスも、文字通り、対話一本やりであり、書いたものは、一切残さなかった。ソクラテスの言動にわれわれが接触できるのは、すべてプラトン等の筆を通してであり、その大部分が「対話編」であることは、改めて指摘するまでもない。このことは、簡単なことのようだが、非常に大切な、ある真実を示しているように思う。
 それは、人間とは、独りではなく、人と人との間に成立するものであるということ、そして、古来、多くの哲人が、言葉を持つことを人間としての第一の条件に挙げているように、人と人との間に交わされる対話こそ、人間を人間たらしめる証であるということである。すなわち、対話とは、人間が人間に成るための“場”なのである。
 ゲーテも、このことを鋭く見抜いていたと思う。
4  彼の『箴言と省察』には、次のようにある。
 「書くということは、おそらく言葉の乱用だ。文字を黙読することも、生きた対話の、みじめな代用物でしかないだろう。人間は『個体』によって、あらゆる可能なものを直接人間につたえるのだから」(大山定一訳、『ゲーテ全集』11所収、人文書院)
 もとよりゲーテは、書いたり読んだりすることの効用を否定しているわけではない。そうではなく、言葉が、最も正確かつ生き生きとした伝達作用を発揮するのは「一対一の対話」であり、それを基軸とすれば、書くことや読むことの営為は、どちらかといえば補完的な役割にあたる、ということなのである。それゆえ、ゲーテは「個体」を重視しているのであり、考えてみれば、われわれが優れた文学作品などを読んで感動するのも、「作家」対「自分」という個体関係、すなわち「一対一の対話」が成り立っているからだ、ともいえるのである。
 ただ、それをより円滑に、直截に成り立たしめる文学形式としては、小説よりも戯曲のほうが適していることは事実であろう。台詞よりも説明、描写が主体となる小説にあっては、どうしても、ゲーテの言う「言葉の乱用」になりがちだからである。ゲーテの作品では、『ファウスト』をはじめ、多くが戯曲という形式をとっているのも、そのへんの理由によるものと思う。
 だから、ゲーテは、エッカーマンに次のように言っている。
 「人々がやって来ては『ファウスト』の中で、どんな理念を具象化しようとなさったのですかと訊ねる。――あたかも、私がそれを自分で知っていて、述べ立てることができるかのようだ。――天国から現世を通って冥界に至る。これは必然の経路だろう。それはなんらの理念ではなくて、筋の運びである」(前掲『ゲーテとの対話』)
 そして、こう嘆いている。
 「ドイツ人はどうも奇妙な人たちである。――彼らは至る所で深遠な思想や理念を探し求めて、これを至る所に持ち込み、必要もないのに、生命あるものを晦渋なものにしてしまう」(同前)
5  『ファウスト』にあって大切なことは、難解な思想や理念ではなく「筋の運びである」とゲーテは言う。すなわち、対話と対話とが織り成していく生き生きとした「筋の運び」こそ『ファウスト』劇の成否を決定する生命線である、ということである。そして、このゲーテ渾身の力作が、どのような成功を収めたかということは、こと改めて言うまでもないことである。
6  偉大な人ほど常に謙虚
 ゲーテの描くファウスト博士は、五十歳を超え、すべての学問を究め尽くしたといっても過言ではないが、その結果、彼が達した結論は、「役にたつことは何一つ知ることができず、知っていることは何の役にもたたぬ」ということであった(以下『ファウスト』は大山定一訳、『世界古典文学全集』50所収、筑摩書房による)。『ファウスト』の「悲劇第一部」は、ファウスト博士の次のような有名な独白から始まっている。
  哲学も、法学も、医学も、
  そして、よけいな神学までも、
  一生けんめいになって
  おれは研究した。思えば、
  何という馬鹿げたことだろう。
  ここにこうしたまま、おれはちっとも賢くはなっていない。
  マギスターだのドクトルだのいわれて、
  もうかれこれ十年ばかりも、
  上へ、下へ、右へ、左へ
  おれは学生たちの鼻を引っぱりまわしたが、
  しかし、けっきょく、何も知ることができないとわかっただけだ。
  それを思うと心が灼けるように痛い。(悲劇第一部・夜)
7  この独白にみられるものは、学問や知識というものに対する謙虚な姿勢である。有名なソクラテスの「無知の知」――「知らないということを知っている」という前提から、知ったかぶりをしている普通の知の立場を論破するもの――に象徴されるように、一流の学者や思想家というものは、常に謙虚である。
 私も世界を旅して、数多くの人々と対話を重ねてきた。そのなかには、トインビー、ルネ・ユイグ、デュボス等の大学者もいるが、それらの人々に共通していることは、謙虚さの一点である。トインビー博士に最後にお会いしたさい、私へのアドバイスを求めたところ、博士は「自分は学問の人間であり、あなたは実践者だ。実践者に何もいうことはない。勇敢に進んでいってください」と言っておられた。子どものような年齢の私に対して、である。さすが、超一流の学者にしてこの言あり、と感銘を深くしたものである。
 ファウスト博士のように、後輩に対して「それを思うと心が灼けるようだ」といった思いをいだき続けることは、教育者としては当然のこと、学者として使命を全うするうえからも欠かせない一点である。
 これを「知識」と「知恵」という観点からとらえることもできよう。ファウストは言っている。
  おれは大胆に
  あらゆる人智の宝庫をつかみ取ったが、何にもならぬ。
  それを手もとにあつめて、さて、じっとここにすわっていても、
  内部からちっとも新しい力が湧いて来ぬのだ。
  髪の毛一本ほども、おれの身たけは伸びていないし、
  ほんの一歩でも無限に近づいてはいない。(悲劇第一部・書斎)
8  ファウストは、そしてゲーテは、「知識」は必ずしも「知恵」につながらないことを、知悉していたにちがいない。『ファウスト』の中の他の登場人物も「わかき友よ、一切の理論は灰いろで、みどりに萌えるのは、生命の黄金の樹だ」(同前)と言っている。
 また、私が、若いころに親しんだ哲学者のベルクソンは「精神の行為と状態と能力の迷宮に於て、何処までも手離してはならない糸は、生物学が与える糸である」(『哲学の方法』河野與一訳、岩波文庫)として、その糸を「生きることが第一」という命題に求めている。この指摘も生きるための支えや助けにならないような、知識のための知識、学問のための学問への警鐘といってよい。そうした知識や学問は、人間や人生を睥睨し、君臨しゆく傲慢な性格しか生まないからである。このような「知識」と「知恵」との乖離現象は、残念ながら、現代において、ますます際立っているようである。核兵器の製造を推進したアインシュタインやオッペンハイマーなどの卓越した知性を待ち受けていた深刻な苦悩は、「知識」と「知恵」との乖離、背反という現代的課題を、浮き彫りにしているといってよい。ファウストの深く、根源的な問いかけは、こうした文明論的課題をもはらんでいるのである。
9  男子の生き方について
 『ファウスト』の深遠にして豊潤なる内容を簡単に要約することは不可能だが、煎じつめれば、第一に、美、宗教、愛、政治等が、人間と人生にとっていかなる意味を持つのか。第二に、男子の生き方はどうあるべきか、との二点を抽出することができると思う。もとより、女性的なるものの尊さについても、ゲーテは怠りなく目を据えてはいるが、それは後にふれる。
 そのうち、男子の生き方について、考えてみたい。
 ファウストは、悪魔メフィストフェレスと契約するさい、次のように述べる。
  呑気に安楽椅子の上に寝そべるようになったら、
  おれはおしまいだ。
  うかうかと甘い言葉に乗せられて、
  ぬくぬくとおれがいい気になって収まりかえるなら、
  そして、欺されて快楽の夢に酔いしれるなら、
  もうおれの最後の日だといっていい。(悲劇第一部・書斎)
10  生涯、青年のような若々しいエネルギーを燃やし続けてきたゲーテの人生観が、このファウストの言葉によく示されている。この雄々しい覚悟、決意は、いつの時代にあっても偉大な仕事をなしとげた人々に共通するものであろう。安逸に酔いしれていたり、中途半端なところで妥協してしまう、いわゆる“易きにつく”姿勢からは、大偉業は、決して生まれるものではない。
 “山中の賊を斥けるは易く、心中の賊を斥けるは難し”という。すなわち、人生の挫折というものは、多くの場合、否、ほとんどといってよいくらい、己心の魔、己心の悪魔との妥協によってもたらされるものである。男子たるもの、そんな弱々しい生き方であってはならない。ファウストは言う。
 「どこかでじっと立ちどまれば、おれは奴隷だ」「一刻も休まずに活動をつづけるのが男だ」(同前)
 また、ファウストは言う。
  おれもちいさくかたまって、幸福になろうなどと思っていない。
  戦慄は人間のもっとも深い精神の部分だ。
  いくら世間が戦慄をわすれさせ、人間を無感動な生きものにしようとも、
  戦慄に打たれた人間でこそ、とほうもないものを深く感じとることができるのだ。
 (悲劇第二部第一幕・暗い廊下)
11  男というものは“節々”に生きていくものである。一点に集中された力といってもよい。人生の“いざ”というとき、その集中された力をもって苦難を乗り越えていく――それには、生命の打ち震えるような戦慄、緊張感なくして、とうていなしとげられるものではない。
 ファウストが「もっとも深い精神の部分」「とほうもないもの」と言っているように、魂の奥深くを揺さぶるような戦慄こそ、男の人生の深さと大きさを形成しゆく、最大の要因なのだ。そうした「戦慄」の一瞬を持たず、日常性のなかに安閑と埋没しきった人生であっては、まことに寂しく、また、はかないものと言わざるをえない。
12  「戦慄」といっても、何も特別な天分の人にのみ訪れるものではない。若いころ、黒沢明監督の「生きる」という映画を観たことがある。主人公は、初老の一地方公務員である。彼は、その日その日の仕事を、何の変哲もなくただこなしていく、惰性そのものの生活を送っていた。その彼が、ある日、ガンの宣告を受ける。一時は、絶望のどん底に沈むが、やがて、真実の生き方に目覚めて、限りある命を、住民の待望していた公園の造成に注ぎ込んでいく――という粗筋である。
 「生きる」の主人公にとって、ガンの宣告は、まさに「戦慄」の一瞬だった。それは、たしかに不幸なことではあったが、もしその「戦慄」がなかったとすれば、彼の人生は、無為徒食の何の意味もないもので終わっていたであろう。「戦慄」には、いかなる人をも使命の庭に蘇生させゆく、そうした起爆力が秘められているものである。
 さらに、ファウストは言っている。「自然の面前に、男一匹として立ったら、人間としてほんとうの生き甲斐を感じるだろう」(悲劇第二部第五幕・真夜なか)と。
 人生には、それぞれ使命があり、運命がある。その流れのなかで、一個の独立した男子として、毅然として立つことだ。宿命に流されるだけであっては、弱々しい“負け犬”の一生になってしまう。そうであってはならず、流れに抗して毅然として一人立つ、腹のすわった男らしい生き方を、ファウストはうながしている。
13  また、ファウストは言っている。
 「またとないこの工事を完成するには、千本の手をつかうただ一つの精神さえあればいい」(同前)
 同様に、『ファウスト』の登場人物の一人も、こう吐露している。
 「堡塁もいらぬ。城壁もいらぬ。
 めいめいが自分で自分の力をたよるだけだ。
 最後まで持ちこたえる堅塁は、
 ただ金鉄の男の胸」(悲劇第二部第三幕・木かげの濃い森)
 それぞれ、一念の強さの大切さを言っているのである。
 私には、ある識者の語っていた「事業を左右せよ、事業に左右されるな」という言葉が、大変感銘深く残っている。事業であれ何であれ、人生すべてにあって最終章の勝利を決定づけていくのは、自分を取り巻く環境や諸条件ではなく、いつに己が胸中の一念と確信の強さである。それを、ゲーテは「ただ一つの精神」とも「金鉄の男の胸」とも言っているが、古今東西を問わずこれは真理であろう。
14  透徹した一念を示す一つに若き豊臣秀吉の有名な“三日普請”のエピソードがある(吉川英治『新書太閤記』、『吉川英治全集』所収、講談社)。信長の居城・清洲城の城壁が、暴風雨で百間以上も崩れてしまう。ところがその修復工事は二十日たってもほとんど進まない。
 工事が進まないのは、実は普請奉行が謀反心をいだき、故意に遅らせていることを察した藤吉郎は、わざとけんかを売り、信長から普請奉行を請い受ける。しかし、世間ずれしているうえ、前任奉行から、工事を遅滞させれば金品を……と約せられた棟梁たちは、いっこうに笛吹けど踊らない。そこで秀吉(藤吉郎)は一席を設け、静かに訴える。
 「興る国――亡びる国――おまえらもずいぶん見て来ただろう。国の亡びた民の惨めさも知ってるだろう。(中略)……国の興亡は、実はお城にあるわけじゃないからな。――では、どこにあるかといえばお前らの中にあるのだ。領民が石垣だ、塀だ、濠だ。――おまえらはこのお城普請に働いて、他家の壁を塗っていると心得ておるか知らんが、そいつは大間違いだ。おまえら自身の守りを築いているのだ」
 いささかも巧むことなく、涙ながらの訴えに、棟梁たちの間から嗚咽がもれ、彼らは、酒杯をなげうって、工事に突入する。藤吉郎も一工夫として泥にまみれての突貫工事の結果、城壁は約束通り、三日にして修復され、事なきをえた。
 ひたすら領国を思い、領民を思うことに徹した藤吉郎の一念が、冷めきり、凍てついた心を、ついに溶かしたのである。
 人間の、とくにリーダーの確信と一念は、目には見えない。否、目に見えないがゆえに、一切の物事の成否、勝ち負けを決定づける要諦といえよう。透徹した一念は、やがて最終の勝利を招き寄せる最大の要因であろうし、そこに曇りが生じたならば、何事も成就するものではない。
 三日普請の故事は、その微妙にして枢要な、そして決定的な分かれ道を教えている。留意し、透徹すべきは「ただ一つの精神」であり「金鉄の男の胸」である。
15  女性的なるものの価値
 ファウストは男性であるが、彼の生き方に即して、女性的なるものの偉大さも、この詩劇の重要な構成要素を成していることも見逃せない。
 『ファウスト』第一部の中心を成しているのは、可憐な乙女グレートヘンの悲劇である。ファウストは、グレートヘンに恋し、グレートヘンもまた、その恋に身も心も捧げる。それによって、彼女は愛の幸福感を得るのだが、代償は、あまりにも大きかった。恋ゆえに、母と兄と嬰児を死なせてしまい、グレートヘン自身も、刑場の露と散ってしまうのである。
 通説によると、このグレートヘンの悲劇には、ゲーテの若いころの恋愛体験が、色濃く反映されているという。シュトラスブルクの遊学時代、若きゲーテは、そのシュトラスブルクからわずかの距離にある近郊の村の牧師の娘フリーデリケと恋仲になる。その経験はあふれんばかりの愛の表現となって奔出し、そこで知り合った作家ヘルダーからの刺激ともあいまって、新しい詩をあふれんばかりに次々とつくっていった。しかし、その反面、若き天才の魂の充溢した力は、この牧歌的な恋愛の小宇宙に安住することを許さなかった。
 破局は、半ば必然的に訪れ、ゲーテは、無垢のフリーデリケを傷つけ、捨てることになってしまう。しかし、このようにして美しい少女の心の奥にぬぐえぬ傷を負わせたことは、ゲーテの心に深い罪責感として残り、その後の作品に、しばしば顔をのぞかせている。『ファウスト』のグレートヘン悲劇も、その一つだといわれる。
16  ともあれ、ファウストは、罪責感にさいなまれながらも、牢獄の中から、「ハインリヒ、ハインリヒ」と必死に呼びかけるグレートヘンの声を振りきるように、新たな世界へと旅立っていく。小市民的な、恋愛という“小世界”から、男子の本懐を満たすに足る、国事という“大世界”へ――。
 もし、このままの流れで終わってしまったならば『ファウスト』は、男性原理のみを描いた作品となってしまったにちがいない。それでは「強さ」は描き出されても、「優しさ」や「潤い」がなくなってしまう。事実、ファウストを指して、ヒトラーのような権力意志の権化のように言う評者もあるようだ。
 しかし、たしかにそうした側面を持つファウストを変貌させ、最後に、盲目となって倒れ、死亡した彼の魂を救済するのは、贖罪の女グレートヘンに仮託された“女性的なるもの”であることを見逃してはなるまい。
 『ファウスト』の末尾は、次のような「合唱」で締めくくられている。
  亡びゆくものは
  すべてこれ比喩。
  及ばざるものが
  ここになし遂げられ、
  言いがたきものが
  事実となって成就した。
  永遠の女性は、高い空へ
  われわれを導く。(悲劇第二部第五幕・山谷、森、岩、荒涼たるところ)
17  この「永遠の女性」に、他の訳者は「永遠に女性的なるもの」との訳を当てている。その内容については、古来、おびただしい論議がなされているようだ。男性的な行動原理に対する女性的な愛護の心、能動に対する受動、意思に対する包容等々――。いずれにせよ、そのような“女性的なるもの”なくしては、われわれの人生や世界の完成も完結もありえないのかもしれない。
 こうした調和やバランスを重視するゲーテの立場は、ある友人に語った次のようなさりげない言葉にも躍如としている。
 「君は女性を告発して、男性から男性へと揺らいでいると言う。女性を非難してはいけない、女性は揺るがぬ男性を求めているのだ」(手塚富雄『いきいきと生きよ』講談社)
 このような件にも、ゲーテの心広々とした懐の深さがうかがわれる。女性に対していささかも皮肉めいた意地悪がなく、大きく包み込み、男性よ男性であれ、とうながしている。まことに心温まる思いがしてくるのである。
 かつて、私は、青年たちが、戦争という生か死かの極限状況に立たされたとき、必ずといってよいほど“母”のイメージを思い浮かべるという話を聞いたことがある。戦争といえば、男性原理の最も悪魔的な突出といってよい。そのぎりぎりの、追い込まれた状況にあって、期せずして“母”を脳裏に浮かべるということは、ゲーテの言う“女性的なるもの”と考え合わせ、大変、考えさせられる事実と思われる。
18  「実践」こそ人生の要諦
 バイブルの「ヨハネによる福音書」の冒頭に「初めに言ありき、言は神とともにありき、言は神なりき」という有名な一句がある。これはバイブルの中でも要句中の要句といってもよい。
 さて、『ファウスト』の最初のほうに、ファウストが、ラテン語のバイブルのこの部分を、ドイツ語に翻訳しようとする場面が出てくる。少し長いが引用してみたい。
  こう書いてある。「はじめに言葉ありき」と。
  すでにここで、おれはつかえてしまう。誰の助けをかりて先へすすめばいいだろう。
  おれは言葉をそんなに高く評価することができぬ。
  別の訳し方を考えずばなるまい。
  おれの心が霊の光に照らされているなら、何とかうまくできるかもしれぬ。
  こう書いてある、「はじめにこころありき」と。
  軽率に筆を下さぬように、
  第一行を慎重にしなければならぬ。
  あらゆるものを創り出し、あらゆるものを生動させるのが意だろうか。
  むしろ、こう書いてあるはずだ。「はじめに力ありき」と。
  しかし紙の上にそれを書いているうちに、
  どうやらそれも完全でないような気がしてくる。
  霊のたすけだ! おれはとっさに思いついて、
  安心してこう書く。「はじめに行ないありき」と。(悲劇第一部・書斎)
19  言葉でもなく、意でもなく、力でもない。行い、行為なのだ――この転換はまさに文明史的な大操作といってよく、私はここに、東洋的な演繹性ともいうべき、詩人の天才的な直観があったように思えてならない。
 このことは、第一に、より身近な観点からいえば、言葉の真の意味での「実践」の大切さを教示しているといってよい。ファウストは、そしてゲーテは、真実の実践主義者なのだ。ファウストが、アカデミックな象牙の塔に閉じこもる学究に甘んじていられず、悪魔との危険な契約に身を投じていくことからも、実践主義者たるゆえんは明らかなのだが、だからといって彼は、理論を理論であるがゆえに軽んずる単純な行動派ではない。人間とは、愛とは、宇宙とは……と、人生の意味を問わずにはすまされない、人一倍激しい意識家である。だからこそ、ファウストの志向するところは、言葉の真の意味での「行為」であり「実践」となるのである。
 第二に、このファウストの大操作を、思想的、宇宙的観点から考察してみれば、西洋的発想から東洋的発想への、ドラスティックな転換を志向しているといえる。
 「はじめに言葉ありき」の「言葉」とは、ギリシャ語で「ロゴス」という。そして、西洋的発想にあっては、ギリシャ的伝統によるものであれ、ユダヤ的伝統によるものであれ、「ロゴス中心主義」ともいうべきものが基調を成しているといえる。すなわち、生々流転する現象世界の背後に、永遠不変の超越的実在=ロゴスを定位し、それを万物の根源であるとするのである。例えば、はじめに言葉(ロゴス)=神という固定的、超越的な実体が存在し、それを創造主として、すべてが生じてくる――これが西洋的思考、発想に共通にみられる特徴である。
 ファウストは、この点に対して異議を申し立て「行い」「行為」を先にもってくるのである。
 先に「実践」と言ったが、より抽象度の高い言葉を使えば、「実践」とは一つの「動き」といえると思う。
 最初に神やロゴスのような固定的な実体があるのではなく、初めは、生々流転してやまない「動き」、宇宙的な流動性が存在するのである。
  あらゆるものが一個の全体を織りなしている。
  一つ一つがたがいに生きてはたらいている。
   (中略)
  それは天上から下界をとおり
  くまなく宇宙万物のなかに美しい諧調を鳴りひびかす。(悲劇第一部・夜)
20  こうした、一種汎神論的なファウストの宇宙観は、たしかに、万物流転の宇宙的流動性を見すえていたにちがいない。私は、ゲーテの大操作を「東洋的な演繹性ともいうべき、詩人の天才的な直観」と言ったが、こうした宇宙観は、東洋的な発想に、きわめて近接しているのである。
 ここは、その東洋的な発想について、詳しく論及する場ではないが、一つだけ指摘しておけば、東洋の思想的伝統にあっては、生々流転してやまない「動き」を、ロゴスであれ何であれ「言葉」によって固定化することへの警戒、言ってみれば言語不信が、一貫して強く働いていたということである。
 そして、そうした東洋的発想のほうが、あらゆる妄念や固定観念を排して、事象の真実の相にはるかに迫ることができると、私は信じている。
21  演説・弁論について
 プラトンは、言語不信が高じた結果、日常生活でも言葉を使わず、身ぶり手ぶりに頼っていた古代ギリシャの哲学者クラチュロスの姿を描いている。それは、言葉の使用ということが、いかに人間にとって本然的なものであるかということの、逆説的な証明といえるだろう。さまざまな人間関係にあって、自らの意見や主義主張を訴え、そこに合意と納得をもたらしていくことは大切なことである。
 ファウストは、演説や弁論についても重要なことを述べている。弟子から成功する弁論術について、問われていわく――。
  いや、成功はまっとうなものでなければならん。
  鐘や太鼓ではやし立てる馬鹿者にはなるな。
  正常な悟性とまっとうな意見さえあれば、
  技術がなくても演説はひとりでにできるのだ。
  真剣になって物をいおうと思えば、
  いまさらあわてて言葉をさがすことはいらぬ。
  世間の人の雄弁といえば、いくらきれいに飾ってみても、
  造花のように人生のくず紙を縮らせて細工するだけだ。
  だから、秋の枯葉を鳴らす
  しめった夜風のように、いささかの感興をもあたえることができぬ。
 (悲劇第一部・夜)
22  人間の心を動かすものは、真剣の二字、真実の二字である。自分を飾ろうなどという技巧や、自分を売り込もうなどという低次元な策など、一切必要ない。魂のこもらぬ型通りの雄弁などは、少しも胸を打たず、人々の脳細胞の上を滑走していくだけである。
 真実を訴えることに、何の飾りもいらない。かつて、ロサンゼルス・オリンピックで金メダルに輝いた体操の具志堅選手が、「自分の点数を知らなかった。ただ、自分らしい演技をしてきた」と語っていた。弁舌と体操の違いこそあれ「真剣になって物をいおうと思えば……」とのゲーテの言葉に通ずるものがあるといえまいか。
 また、ファウストは「弁論で人を動かすには……」との質問に答えて、次のように言う。
  それにはまず自分で実感することだ。
  おのずから肺腑からわき出すものが、
  一人のこらず聴衆の心を
  根づよい力と興味でとらえなければ駄目だね。(同前)
23  人を動かすには、まず自分で実感せよ――まことに、そのとおりだと思う。たとえ、原稿があったとしても、自分のものにしていないで、通りいっぺんに読むだけでは、何の訴える力も持たない。
 かつて、私は「教育所感」の中でふれたことがあるが、ソクラテスの絶大な感化力を世人が“シビレエイ”のようだと評したのに対し、ソクラテスは、“シビレエイ”は、まず自分がシビれているからこそ、他人をシビれさせることができるのだと応じている。ソクラテスやファウストの言葉は、名聞を追い、名利に走る政治家の演説などとは、次元を異にした真実の言論のあり方を示唆しているといってよい。その実感という土壌のみが「おのずから肺腑からわき出すもの」を生むことができる。私の恩師は、常々「信なき言論は煙のごとし」と言われていた。ファウストの言う「肺腑からわき出すもの」とは、恩師のいう不抜の信念と行動に裏打ちされた言論と相応じている。その一点を欠けば、千万言を費やしても、煙のごとく空しく雲散霧消してしまうだけである。
 さらにファウストは言う。
  羊皮紙の古文書が、おまえは神聖な泉だというのかね。
  その水を一口すくって飲んだだけで、永久に喉がうるおうというのかね。
  身心をさわやかによみがえらすものは、
  自分の魂のいずみから掬み出さねばならぬ。(同前)
24  演説や弁論とは若干角度を変え、ファウストが第二に、読書や考証の心構えを教えているところである。
 「羊皮紙の古文書」すなわち古典は、それ自体で価値を生ずるのではない。読み手のほうにそれ相応の心構えができていなければ、たんに知識が多少増えるにすぎない。そうではなく、古典に取り組むということは、知識の増大よりも何よりも、それによって新しい自分になることなのだ。そう心して臨まないと、いたずらに頭でっかちになるばかりで、少しも人間的成長をもたらさない。そのことをファウストは「自分の魂のいずみから掬み出さねばならぬ」と戒めている。
25  自我を拡大しゆく「活動」
 ファウストは、悪魔メフィストフェレスとの契約にさいし、新たな苦難への旅に出発する心境を、こう吐露している。
  おれは人類全体にあたえられたすべてのものを、
  内部の自己で味わいつくすのだ。
  おれはおれの精神で、もっとも高いものと、もっとも深いものをつかむ。
  おれはおれの胸のなかに、あらゆる幸福とあらゆる悲嘆をつみかさねる。
  そして、おれの自我を人類の自我にまで押しひろげ、
  ついには人類そのものといっしょに滅びてみよう。(悲劇第一部・書斎)
26  これは、あくなき自我拡大という、いわゆる“ファウスト的”なるものを典型的に示す言葉として知られるが、同時に、自我を宇宙大にまで拡大しようとする普遍化への欲求は、「宇宙即我」「我即宇宙」として、ミクロコスモスとマクロコスモスの融合を説く広大な仏教的生命観、宇宙観にも通じる視点といってよい。
 先にもふれたように、ファウストは、机上の観念論者ではなく、逞しい現実主義者であり、実践の人であった。己が自我を人類的スケールにまで拡大しようとの壮大な抱負を、実践に即して追求しようとしたファウストが、象牙の塔はもとよりプライベートな幸福の場にも安住できず、政治という“公共”の場へと身を挺していったのは、ある意味では必然の成り行きであった。大きな仕事、大きな活動は、必然的に、それに応じた自我の拡大をもたらすからである。
 たしかに、ファウストの踏み出した道は、事業欲や権力欲が必ずつきまとう危険性をはらんではいた。しかし、ゲーテは、ファウストを誘惑してよいか、との悪魔メフィストフェレスの申し出に対し、神に次のように答えさせている。
  よい人間はいくら暗黒の衝動にうながされていても、
  けっして正しい道はわすれない(天上の序曲)
27  果たせるかな、長い長い魂の遍歴の果てに(ゲーテは、その時のファウストの年齢を百歳と言っている)ファウストが到達した境涯は、権力意志の貫徹ではなくて、“人間の幸福は、他者のために働いていくなかにのみある”というものであった。
 それは、大乗仏教の菩薩行、あるいは自行化他の精神にも通じていく、広々した心境であったといってよい。目は見えなくなったが、「心の中には明るい光がともっている」からである。
 盲目のファウストは「最後の仕事で、最大の仕事」である、海岸一帯の大開拓事業を志す。
 そして、最後の独白――。
  おれは数百万の人々に、
  新しい土地を作ってやる。
  堅固でないかも知れぬが、働いて自由に住める土地だ。
   (中略)
  人間叡知の最後の言葉は、こうだ――
  「自由と生命をかちえんとするものは、日々、新しく、
  これを戦いとらねばならぬ」
  だから、ここでは、子どもも大人も年よりも、
  それぞれ危険とたたかって、すこやかな年月を送るのだ。
  おれはそのような人間の、みごとな共同社会をながめながら、
  自由の民と自由な土地に住みたい。
  おれはかかる瞬間にむかって、
  「まあ、待て、おまえは実に美しい」と呼びたい。
  おれのこの世に残した痕は、もはや
  永劫を経ても滅びはせぬ。
  そうした高い幸福を予感して、
  おれは最高の瞬間を味わうのだ。(悲劇第二部第五幕・宮殿の広い前庭)
28  民衆の海の中へ、果敢に身を投ぜずして、偉業の成就も、真実の幸福もありえない。法華経に「三界は安きことなし 猶火宅の如し」(開結二三三㌻)という法理がある。すでに、米ソ両大国の核兵器の保有量は、あの惨劇をもたらした広島型原爆の百五十万倍であるという。まさに「火宅の如し」である。人類の平和と幸福という夢を実現するには、ファウストが雄々しくもそうであったように、この火宅のごとき「娑婆世界」の現実から逃げたり、避けたりしては絶対にならない。
 最後の独白を終えると、ファウストは、後ろに倒れ、死ぬ。理想の国土を作っているつもりであった彼は、その国土が、その実、悪魔メフィストフェレスの企みによる、ファウスト自身の墓であることも知らずに……。
 悪魔は、墓からファウストの魂を盗みとろうとしたが、奪うことができず、天から天使が降りてきて、その魂を守りぬいて、昇天していく。“救い”の手がさしのべられる。
 詩劇『ファウスト』は、たしかに悲劇といえるかもしれない。しかし、あらゆる優れた悲劇がそうであるように、そこには、魂のカタルシス(浄化)をもたらす強力な力がある。ファウストの、波瀾万丈の魂の遍歴は、人間いかに生くべきかという、近代人の“自律”の問題をめぐって、汲めども尽きぬ泉のように、多くの示唆をはらんでいる。

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