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日蓮大聖人・池田大作

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1 二十世紀の「負の遺産」  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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7  「ハイパー(超)空間」と仏教の徳生命空間
 サドーヴニチィ そこへいくと、SFの世界は、想像力が自由奔放に駆使されます。
 たとえば、現代物理学は、光の速度を超える速度は存在しないという大前提に立っています。この速度上の制約は、将来人類が星から星へと飛行するというような計画を展望する時の最大の障壁となっています。この事実は、ホモ・サピエンスである人間の可能性に対して厳しい限界を示すものです。人間はそこからの出口を模索しています。20世紀最大のSF作家アイザック・アシモフは、「ファウンデーション」という奇抜な空想長編小説を書きましたが、このなかで、彼は、作中の主人公が宇宙空間を移動する様を次のように描写しています。すこし長くなりますが、引用させて下さい。
 「ハイパースペース(超空間)・ジャンプは、単純な惑星間旅行では経験しない現象であって、これに対してはかれもちょっと身構えてしまった。ジャンプは恒星間旅行の唯一の実際的な方法として存続してきたし、これからも存続していくことであろう。正常空間の移動は、正常の光速以上のスピードでは行われない(この科学知識の断片は、忘却の淵に沈んでいる人類史のあけぼの以来残存している数少ない事柄の一つである)。そして、この方法によればもっとも近い居住星系に行くのでさえ、何年もかかることになる。しかし、空間でもなければ時間でもない、物質でもなければエネルギーでもない、何かが在るわけでもなければないわけでもない、想像を絶する領域である”超空間ハイパースペース”を通っていけば、隣り合った二つの瞬間の間に銀河系の端から端まで横断することができるのである」(岡部宏之訳、早川書房)
 これはもとよりSFですが、いずれにせよ、光の速度という「限界」を取り外そうという大胆な試みのひとつです。
 池田 「ハイパー(超)空間」という着想は、おもしろいですね。それはそれとして、時間、空間という繋縛を同時に超克していくという科学の志向性と、仏教で説く生命空間は、今後、さらに接近していくのではないでしょうか。
 仏教の生命観(森羅万象を“縁”によって“起”こる関係性の総体としてとらえる“縁起観”については、以前にも触れました)は、時間、空間も固定的にとらえないからです。
 私はいつも思うのですが、真の意味での“科学”と“宗教”は、不思議にイメージがダブってくるものです。卓越した数学者であった私の恩師も「理」と「信」とは対立、背反するものではないと常々力説しておりました。
 アインシュタインにしても、大科学者であることはいうまでもありませんが、同時に大宗教家的風貌も併せもっています。規格外のスケールをもつ人格の大きさというか、ギリギリの精神闘争の果てに豁然として開けゆく豊饒にして澄明な世界です。つまり菩薩の「境涯」というか、悪や矛盾、不条理に満ちた社会にあって、生老病死の意味を問い続け、人々のために苦悩し思索の限りを尽くすなかにのみ開けゆくであろう透徹した境地です。

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