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日蓮大聖人・池田大作

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1 二十世紀の「負の遺産」  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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1  フラスコの底に何が残ったか
 サドーヴニチィ 20世紀の最後の4半世紀、人類は、21世紀にあらゆる期待をかけ、その到来が一切の問題の転換点になるかのごとく夢みて歩んできたといえないでしょうか。20世紀はその期待と夢で幕を引くことになりました。
 世紀が新しくなるばかりでなく、一千年の区切りをつける21世紀の夜明け――この神秘的な響きは、数々の会議、シンポジウム、祭典、イベントの名前を飾り、無数の書籍と、雑誌、また絵画、音楽の世界で象徴的役割を演じ、私たちはあらゆる想いをそこに託しつづけました。現代人が思いつく限りの理想が、新しい時代の到来を告げる大きな節目に準えて熱く語られました。
 そしてついに、20世紀は過ぎ去り、新しい世紀と一千年が幕を上げました。人々は、あれほどの思いを託した21世紀を迎え、さて何が変わったのかと、しげしげと自分の周りを見回しはじめているようです。化学の実験室に喩えれば、「実験液は蒸発し終えたし、そろそろ、フラスコの底に何が残ったか調べてみなければ」という段階です。
 池田 残念ながら、フラスコの底をのぞいてみると“正の遺産”よりも、“負の遺産”の方が多いといわざるをえないのではないでしょうか。人類史上かつてない大殺戮時代を現出させてしまったように、20世紀文明史のバランス・シートは、明らかに“負”の方向に傾いているといわざるをえません。
 逆に、そこに21世紀に対する大いなる期待感もあったわけです。
 サドーヴニチィ そうですね。実際のところ、世紀の数字が入れ替わったこと自体においては、何も変わっていません。20世紀の現実をしかるべく継承して今日があることに、冷静に想いをいたさざるをえないのです。
 その20世紀は、基礎科学と学術的知識とが、またそれを母体として生まれた技術の進歩が人類の生活に決定的影響を及ぼすことを、まざまざと見せつけた100年間であったといえるのではないでしょうか。
 池田 まったく同感です。人間の利便・快楽志向と科学技術の発展が、互いに“因”となり“果”となりながら、20世紀とくに後半の歩みは、科学技術文明の急上昇期と位置づけることができるでしょう。交通、通信手段をはじめとして、現在のグローバリゼーションの加速化など、科学技術ぬきには、ありえません。
 ただし、1960年代のはじめごろまでは、未来学がバラ色の未来図を種々描き出していたように、科学技術の行方には楽観論が支配的でしたが、さしたる時をおかずして暗転し、現代文明の行く末は予断を許さぬばかりか、どちらかといえば悲観論の方が目につきます。
 池田 いかに希望を見いだすか、希望をつくり出すか、今こそ、そこに人類の英知が結集されねばなりません。
2  科学は、三度人間の自尊心を傷つけた
 サドーヴニチィ 技術革新は、着々と人間の労働を軽減させてきました。科学技術一辺倒の文明を嘆き、技術文明の否定的側面を告発する声をよそに、21世紀の開幕にあたって、人類は、それでは科学技術に代わって人間生活を支える別の方法があるかと問われると、なんら代替案を見いだすことは出来ておりません。
 現代人の生活が至るところで科学技術の成果に依存するようになり、そしてその依存度が益々高まる一方であることの危険性を警告し、技術のコストが膨らんでいくことを批判する人々がおりますが、そのような人々でさえ、コスト削減の方法はとなると、低コスト化を図るための新たな技術の開発に期待をかけざるをえません。
 したがって、科学文明を単純に否定することはなかなか難しいといえます。それゆえに、なおさら、21世紀における科学の行方と発展の方向性は、人間にとって抜き差しならない重要な問題です。
 池田 かつて、フロイトは、科学は、歴史上、三度人間の自尊心を傷つけてきた、と述べました。一度は、コペルニクスが、自分たちの住む地球が、世界の中心ではないと告げた時、第二は、ダーウィンが、人間は他の動物の主人公ではなく、その従兄にすぎないと断じた時、三度目は精神分析が、人間の意識は、その住家である存在(自己)の主人公ではないと宣言した時である――と。
 その精神分析の創始者がフロイトであることはいうまでもありませんが、これを受けて日本のある学者(中西進・帝塚山学院院長)は、現代科学技術の最先端であるDNAの急速な解明は、人間の尊厳を脅かし、自尊心を傷つける第四の危機ではないか、と警告しています。
3  未来を見つめる二つの方法――宗教と科学
 サドーヴニチィ 遺伝子工学の危険性については、先に若干触れましたが、これからの重要課題です。
 ところで、21世紀の科学の未来を考察する時、私たちが、無意識のうちに比較検討の材料にするのは、学問が歩んだこれまでの歴史です。20世紀、またはそれ以前の時代、学問は如何に発展してきたかを参考にしようとします。ところが、以前にも述べましたように、科学が今後何を発見し、何を証明するかは、実際だれにも予測しがたいのです。「未来を知りたいと思ったら過去に学べ」という一般論が通用しないといえばよいでしょうか。
 人間は、未来を見つめ、考える方法を今のところ二つしか持っておりません。それは、宗教と科学です。
 偉大な物理学者であるスチーブン・ホーキングは、「宇宙膨張論とビッグバンの理論を信じる事は、創造主としての神を信じる事に矛盾しない」と述べた上で、「問題は、神が宇宙を創造するという課題をこなすために設けた時間的制限にある」と指摘しています。
 池田 「創世記」の天地創造に1週間という時間的制限が設けられているということですね。
 サドーヴニチィ ええ。キリスト教の伝統的世界観にあっては、宗教的世界は「時間の外」におかれた、遠近法のない静的な世界です。ひとつも不確定なことがないという意味で「未知のない世界」とも言い換えることが出来ます。未来は決定されたものととらえるのです。
 つまり、創世記以来、世界に展開された、またされるであろうあらゆる事象はすべて、神によってあらかじめ決定されており、プログラムされている。当然、個人における運命も神が定めたシナリオどおりに進んでいることになります。とどのつまり、誰が地獄に落ち、誰が天国に迎えられるか、あるいは輪廻転生するか、それぞれの運命は決定されているとする世界観です。
4  阿片となるか、蘇生の「活力源」となるか
 池田 とはいえ、神による「治罰」や「祝福」にしても、“業(カルマ)のバランス・シート”を背負っての「輪廻転生」にしても、「王国」や「浄土」の出来事ではなく、所詮は何らかの形で「時間の内」にはね返り、そこで検証されざるをえません。そう願うのが人間として当然であり、本然の欲求だからです。
 その欲求にどう応えるかで、宗教が「阿片」となるか、蘇生の「活力源」になるかが決まってきます。
 イワン・カラマーゾフの弟アリョーシャへの告白が想起されます。
 「僕にとって必要なのは応報なんだよ、それでなければ僕は自滅してしまう。またその応報もいつか無限のかなたのどこかであたえられるというのではなく、どうしてもこの地上で、しかもこの眼で確かめなければいけないんだ」(ドストエフスキー『カラーゾフ兄弟』小沼文彦訳、筑摩書房)と。
 宗教とくに21世紀の宗教は「この地上」から目をそらし、「この目」を曇らすようなことがあってはならないと、私は深く期しております。
 サドーヴニチィ 池田博士の年来の主張ですね。
 それに対して、科学は、「時間を意識」する世界観です。すべては時間と共に変化し、その変化の先は決まっていない。
 その意味で、世界を「未知を孕んだ未来」に進む存在ととらえているのが学問ともいえるでしょう。
 したがって、決定論的世界観を基礎にした宗教が確信をもって未来を予言するのとは対照的に、科学の世界にあっては、未来を予測することは、労多くして報われない作業なのです。
 池田 共産主義イデオロギーは、「空想より科学へ」をいいながら、決定論的世界観を僭称することによって、擬似宗教へと堕してしまった。擬似宗教の描き出す擬似ユートピアが、どんな結末をたどったか――これも、20世紀の“負の遺産”の一つでしょう。
5  固定観念を破り、謬見を退ける
 サドーヴニチィ 科学は「未知を孕んだ未来」を相手にしているのだという謙虚さを失ってはいけません。
 科学の進歩の歴史そのものが、このことを雄弁に物語っています。
 基礎科学の分野で世界観を一新するような発明がなされたのは、ほとんどすべての場合において、固定観念を破り、謬見を退けるところから発しています。
 アリストテレスからガリレイに至るまでの物理学では、その主な課題を「物体の運動を分析すること」とし、「運動の変化を研究すること」ではないという固定観念が存在し、そのために物理学の発展はありませんでした。アリストテレスは、「物体は静止していると見るべきである」としました。
 しかし、ガリレイは、「静止状態は運動の一形態である」ことを証明しました。
 このガリレイによる固定概念の否定を、ニュートンは、「あらゆる物体は、外からの力が加えられない限り、静止状態を保つか、もしくは直線上の均質な運動を続ける」という力学の第一法則のなかで表現し、そこに古典力学が誕生したのです。
 池田 「固定観念を破り、謬見を退ける」ところから、新しい発展がなされることは、重要な教訓といえますね。
 サドーヴニチィ そして、デモクリトスからラザフォードに至るまで、原子はこれ以上分割できないものだという考えが、動かしがたいものとされていました。それを取り除いた時に、解き放たれた核エネルギーが生まれました。
 しかし、その一方、この時に、「核子はそれ以上、分解できない」という考え方が広まり、定着してしまいました。
 後に、この考えも退けられるところとなり、核子を構成するクォークモデルが登場します。この段階では、クォークは自由な状態では存在しない、つまり、これ以上分解することは不可能とされていました。
 しかし、最近になって素粒子の分解はここまでとするこの学説も破られつつあります。すなわち、クォークとグルーオンがばらばらに混じった、クォーク・グルーオン・プラズマという理論が既に登場しているのです。ですから、クォークはさらに分解できるということが証明されるのも時間の問題となりました。
6  “単純系”と“複雑系”
 池田 私は、物理学などの自然科学には、まったくの門外漢ですが、今おっしゃったクォークモデルは、近代科学の強力な武器であった要素還元主義――多種多様な物質の世界をより単純な要素へと分析、還元して、その要素の集まりとして理解しようとするもの――の延長として理解してよいのでしょうか。
 20~30年ほど前になりますが、近代科学の在り方が問題になりはじめたころ、分子、原子から電子、原子核、素粒子へと還元されてきた物質の究極要素は、その段階で足踏み状態にある、という説を読んだことがあります。現状は、そうした足踏み状態を脱し、更に“単純系”の探究に突き進んでいるのか、それとも、“構造”や“システム”などの“複雑系”の要因をはらんでいるのか、どうでしょうか。
 サドーヴニチィ 物理学は従来どおり今日も自然科学と技術の基礎であり続けています。その物理学の中心的理論的課題は、大宇宙と小宇宙を包含する物質世界総体の姿を描き、その関係性を整理することです。自然は一体のものであることを前提に据えています。
 具体的な研究テーマとしては、ナノテクノロジーや超速度( ultrasspeed process )など、技術とエネルギープロセスの最小化を図るための物理効果が注目されています。
 さて、「単純系」の探究については、次のように説明できると思います。ご存知の通り、微小世界で確認された最小の粒子はクォークです。それがさらに小さな物質に還元できるかどうかという問題は、現在では多くの学問分野にとってさほど重要では無くなってしまっています。特に、細胞レベルで研究が行われている生物学においては、より極小のレベルが必要でない事は明らかです。
 池田 なるほど。科学研究の現状の一端を垣間見ることができます。
 サドーヴニチィ 古来、人々は、人間が地球という惑星から離れることなど出来ないと考えていました。しかし、人類は、地球の重力を制覇して、宇宙に飛び出しました。ことわざに「高く飛べば飛ぶほど、落ちる時はこわい」とありますが、そのような昔の人の智恵が通用するのは、飛翔速度が11・2キロ毎秒以下の時、つまり「第二宇宙速度」の時に限られることになります。
 ユークリッドの幾何学が誕生して以来、「直線a上にない一点を通ってaに平行する直線はただ一本しか引けない」という定説が存在していました。そこにロバチェフスキーが登場して、この固定観念をやぶり、非ユークリッド幾何学を打ち立てるとともに、それによって人類に新しい世界観をもたらしました。
 このような例は、枚挙に暇がありません。それらが有力に物語っているのは、学問には、永久に変わらない観念や制限など存在しない、ということです。したがって、「21世紀の基礎科学は、いかなる固定観念を打ち破るか」という問いに対する答えがそのまま、未来の学問の姿を描くことにもなります。今日不可能とされていることが、明日は現実味を帯びるということはいくらでもありうることです。
 池田 学問や科学的知見は、絶対的に正しいように見えるものでも、どこかに有限性、限界性をもっているということですね。ちょうど、ニュートン力学のベースになっていた「絶対空間」「絶対時間」が、アインシュタインの相対性理論によって“ゆらぎ”がもたらされたように――。とはいえ、有限性、限界性といっても、それは原理的にそういえるということであって、現実的には、さまざまな曲折があります。じっさい、20世紀初期のように、物理学上の画期的な発見が次々と現れ、「黄金時代」「英雄時代」と呼ばれるような時期は、めったにあるものではありません。
 その物理学をはじめ、また人文系の学問を含め、科学という名の人間の知的営み全体が、大きな曲がり角に立たされているのが、現代であるとはいえないでしょうか。「サイエンティフィック・アメリカン」誌の名物ライターであるジョン・ホーガン氏の『科学の終焉』のような挑発的な書物が、世界中でセンセーションを巻き起こすような、今日特有の時代的背景が横たわっていると思うのです。
 氏は、アインシュタインの特殊相対性理論、量子力学、カオス理論、クルト・ゲーデルの不完全性定理、進化論生物学など、科学それ自体の中に秘められた限界性が明らかになりつつあるとして、こう述べます。
 「こうしたすべての限界を克服できるとする楽観主義者たちでさえ、次にもう一つの、大きな難局に遭遇することになる。そして、これが、すべての障害の中で、最も、始末に負えないものだろう。そして、これが、すべての障害の中で、最も、始末の負えないものだろう」。そして、イギリスの物理学者ロジャー・ペンローズが、インタビューの中でつぶやいた言葉をつけ加えます。「全部、解いてしまったら、あとは退屈でしょうがないじゃないか」(筒井康隆監修・竹内薫訳、徳間書店)と。
 ホーガンが、決して“反科学”の立場ではなく、科学を愛しているだけに、現代という時代が、科学や学問にとって、抜き差しならぬ曲がり角、試練に直面しているように思えてなりません。
7  「ハイパー(超)空間」と仏教の徳生命空間
 サドーヴニチィ そこへいくと、SFの世界は、想像力が自由奔放に駆使されます。
 たとえば、現代物理学は、光の速度を超える速度は存在しないという大前提に立っています。この速度上の制約は、将来人類が星から星へと飛行するというような計画を展望する時の最大の障壁となっています。この事実は、ホモ・サピエンスである人間の可能性に対して厳しい限界を示すものです。人間はそこからの出口を模索しています。20世紀最大のSF作家アイザック・アシモフは、「ファウンデーション」という奇抜な空想長編小説を書きましたが、このなかで、彼は、作中の主人公が宇宙空間を移動する様を次のように描写しています。すこし長くなりますが、引用させて下さい。
 「ハイパースペース(超空間)・ジャンプは、単純な惑星間旅行では経験しない現象であって、これに対してはかれもちょっと身構えてしまった。ジャンプは恒星間旅行の唯一の実際的な方法として存続してきたし、これからも存続していくことであろう。正常空間の移動は、正常の光速以上のスピードでは行われない(この科学知識の断片は、忘却の淵に沈んでいる人類史のあけぼの以来残存している数少ない事柄の一つである)。そして、この方法によればもっとも近い居住星系に行くのでさえ、何年もかかることになる。しかし、空間でもなければ時間でもない、物質でもなければエネルギーでもない、何かが在るわけでもなければないわけでもない、想像を絶する領域である”超空間ハイパースペース”を通っていけば、隣り合った二つの瞬間の間に銀河系の端から端まで横断することができるのである」(岡部宏之訳、早川書房)
 これはもとよりSFですが、いずれにせよ、光の速度という「限界」を取り外そうという大胆な試みのひとつです。
 池田 「ハイパー(超)空間」という着想は、おもしろいですね。それはそれとして、時間、空間という繋縛を同時に超克していくという科学の志向性と、仏教で説く生命空間は、今後、さらに接近していくのではないでしょうか。
 仏教の生命観(森羅万象を“縁”によって“起”こる関係性の総体としてとらえる“縁起観”については、以前にも触れました)は、時間、空間も固定的にとらえないからです。
 私はいつも思うのですが、真の意味での“科学”と“宗教”は、不思議にイメージがダブってくるものです。卓越した数学者であった私の恩師も「理」と「信」とは対立、背反するものではないと常々力説しておりました。
 アインシュタインにしても、大科学者であることはいうまでもありませんが、同時に大宗教家的風貌も併せもっています。規格外のスケールをもつ人格の大きさというか、ギリギリの精神闘争の果てに豁然として開けゆく豊饒にして澄明な世界です。つまり菩薩の「境涯」というか、悪や矛盾、不条理に満ちた社会にあって、生老病死の意味を問い続け、人々のために苦悩し思索の限りを尽くすなかにのみ開けゆくであろう透徹した境地です。

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