Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「仏法即社会」の先駆 神奈川に翻れ 正義の旗

2003.10.30 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  ポーランドのユダヤ人教育者として有名なコルチャック先生は叫んだ。
 「あなたの目を高いところに向けなさい。栄光を勝ち取ろうと努めなさい。そうすれば、必ず そこから何かが生まれるはずです」(サンドラ・ジョウゼフ編『コルチャック先生のいのちの言葉』津崎哲雄訳、明石書院)
 また、正義と勇気の行動で歴史を動かした、アメリカの"公民権運動の母"ローザ・パークスさんは言った。
 「私たちには、まだなすべき仕事があります。ですから、私は、動くのをやめたり静かに座っていたりすることができないのです」(『勇気と希望』高橋朋子訳、サイマル出版会)
 私は、これらの言葉を読んだ時、心から感動を覚えたことを、今でも思い出す。わが創価学会の広宣流布の大運動が、まったく婦人部の献身的な参加と推進力でなされてきた事実を、胸の痛むほど知っているからだ。
 わが神奈川の尊き同志たちも、いつも、いつも、平和革命の運動に、烈々たる情熱をもって立ち上がってくださった。
 ――一九五一年(昭和二十六年)春、戸田先生を第二代会長に推戴する弟子たちの声が澎湃として湧き上がっていった。
 その時、神奈川の明るく賑やかな鶴見支部の同志たちは、万歳を叫びながら立ち上がった。
 「広宣流布の大師匠が学会の会長である。だから折伏の大波を起こし、弟子の決意を示して、戸田先生を会長にお迎えするのだ!」
 鶴見は燃えた。横浜は燃えた。神奈川は燃えた! 
 皆、真剣であった。懸命であった。もう一歩、あと一歩と、自分自身の壁を叩き割って、勇気と信念の足を、幾日も幾日も運んだ。
 そして、四月二十日に創刊された聖教新聞の第一号に、大見出しが躍った。
 「聖火鶴見に炎上」――。
 戸田先生の第二代会長就任という、広宣流布の新時代の発火点が、神奈川草創の勇者たちであったからだ。
2  私が第三代会長に就任し、十周年の佳節を迎えた昭和四十五年、あの「言論問題」の嵐が学会を襲った。
 権力を使って、学会を社会から抹殺せんとするかのような事実無根の喧伝も、さらに悪意に満ちた中傷の嵐も多くあった。世のため、人のために、善意の汗を流してきた同志の悔し涙に、私は胸を突かれる思いをしたのである。
 社会と仏法の関係は、いかにあるべきなのか。
 日蓮大聖人は「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわず、世間の治世の法を能く能く心へて候を智者とは申すなり」と仰せである。
 仏法即社会だ。大衆を幸福にする智慧が仏法だ。波風を恐れて、臆病になり、正法流布の戦いをやめることはできない。仏法の智慧と慈悲が生かされた社会は、必ず栄えていくからだ。
 私は固く決意した。
 "この社会のなかに正義を打ち立ててみせる! 世界が学会を賞讃する時代を築いてみせる! それには、人間の交流だ。勇気の対話だ。垣根を取り払って世界に飛び込み、学会の真実を伝え抜くことだ"
 その私の心を知り、共に立ち上がったのが、神奈川の同志の皆様であった。
 「神奈川から新時代の幕を開きます。仏法即社会の模範をつくります!」と。
 翌一九七一年(昭和四十六年)七月、地域社会との交流と繁栄を願って、鎌倉会館で「鎌倉祭り」を開催した。さらに、三崎会館を中心として、「三崎カーニバル」が、晴れ晴れと行われたのである。
 ――我らが生活しゆくこの地域に、新しい友情の連帯を広げるのだ! これが仏法流布の第一歩であるからだ!
 皆で様々な思いを抱きながら企画を出し合った。
 模擬店もあった。音楽演奏や合唱、寸劇も行われた。
 三崎では、「三崎の繁栄のために頑張ります」との大きな横幕も掲げられた。それは、地域貢献をめざす、皆の決意を代弁していた。
 私も、賑やかにして懐かしき友と友との輪のなかに入り、汗まみれになって、全力で励ましの対話を続けた。地域の皆様方も、その行動に対して、心から喜んでくださった。その心と心の触れ合いのなかで、多くの地域の方々も、学会への認識が大きく変わっていった。
3  日蓮仏法の際立った特色の一つには、「立正安国」の大思想がある。
 それは、一人ひとりの心に正法を打ち立て、社会の平和と繁栄を築き上げるという、社会変革の原理である。
 大聖人は、その実現のために、この神奈川で、「立正安国論」を認められ、この地で国主を諌暁された。そして、ここで大難に遭われ、発迹顕本されたのだ。
 人間、そして民衆の苦悩の解決――そこにこそ、仏法者の真の原点がある。
 ゆえに、大聖人直結の我らは、庶民を苦しめる、あらゆる権力の魔性とは、断固として、戦わねばならない。社会の矛盾や不正、不合理を、断じて許してはならぬ。
 民衆こそが王である。民衆こそが主人である。政治も、経済も、教育も、文化も、すべては、民衆の幸福、人間の勝利のためにあるのだ。
 広宣流布とは、生命の尊厳と慈悲の哲理が開花した人間主義の社会の建設なのだ。
4  私には、忘れられない一点の名画がある。
 十年前、神奈川の友が届けてくださった版画だ。英雄ナポレオンの名が天下に轟いた、「ツーロン港の攻略」の場面を描いた作品である。(以下、長塚隆二『ナポレオン』上、〈読売新聞社〉、メレジコーフスキイ『ナポレオン』〈米川正夫訳、東晃社〉などを引用・参照)
 ――一七九三年、地中海に臨むフランスの軍港ツーロンが、反革命軍とイギリス艦隊に占領された。革命軍はこの港を奪還するため、二十四歳のナポレオン大尉に砲兵隊長を命じた。
 ナポレオンは、砲台の一つに、こう名前をつけた。
 「恐れを知らぬ勇士の砲台」――それは彼の決意であり、心意気であった。
 兵士たちも、この名に恥じない行動をしようと心に誓い合った。しかし、「恐れを知らぬ勇士の砲台」の名に最もふさわしかったのは、ナポレオン自身であった。
 彼の仕事量は、兵士たちを驚嘆させた。たった今、ここに姿を現したかと思うと、たちまち別の場所で奮闘する。将軍のように命令し、一兵卒のように働いた。
 この青年ナポレオンの勇気は、全軍に伝染した。兵士たちは、一段と勇気と信念を増幅させながら、彼に続いた。
 肩と足を負傷したある兵士は塹壕に落ちたが、すぐに起き上がり、再び砲弾に身を晒しながら、自軍に向かって、高らかに叫んだ。
 ――断じて勝つのだ! おお兄弟よ! 勇敢にやれ、勇敢にやれ! 俺たちは「恐れを知らぬ勇士の砲台」に共にいた者じゃないか!
 この勇敢な一人の決起が、万人の決起を創り上げた。
 勇気こそ万事の決定打である。あきらめや弱気を打ち破るのも勇気だ。限界に挑むのも勇気である。
 御書には、「各各師子王の心を取り出して・いかに人をどすともをづる事なかれ」と仰せである。
 「師子王の心」が学会魂である。その勇気は「取り出す」ものだ。勇気のない人はいない。出していないだけなのである。
 彼、ナポレオンは言った。
 「誰でも元気よく、敏活に行動せよ。決して『しかし』『あるいは』『もし』『何となれば』というような曖昧な言葉のために煩わされるな」(長瀬鳳輔『ナポレオン・ボナパルト』実業之日本社)
 敗者は、座して困難や不可能の理由を、際限なく並べ立てる。勝者は、恐れなく勇敢に行動する。そこに、勝敗の決め手があるのだ。
5  神奈川は、わが故郷・大田と川一本隔てた隣であり、切っても切れない宿縁の天地である。
 さらに五十年前、私が支部長代理となった文京支部には、相模原や横浜の保土ケ谷方面にも同志がおられた。それまで以上に、青春時代の炎を燃やし、この神奈川を走ったことは懐かしい。
 戦えば戦うほど、戦野は広がり、励ますべき同志の人間関係も広がった。
 同志が悩み、苦しんでいたら、どこへでも飛んで行った。そして、そこで友を励まし、支部を応援し、勝利への確実な道を開いてきたのだ。
 悔いなき使命に生き、使命に戦う青春ほど有り難いものはないはずだ。
 そこにこそ、後悔なき人生の充実と勝利の土台が創造されていくからだ。
 私は、師を胸に抱きながら、常に戦い抜いた。走り抜いた。勝ち抜いた。この充実の青春には、永遠に悔いはない。
 わが愛する横浜の同志よ、尊敬する神奈川の同志よ! わが英雄たる大首都圏の同志たちよ! 
 今こそ「正義」の心と心の団結で、人間主義の勝利の旗を、わが神奈川城に高々と打ち立てよ。広宣流布の新しき航路を断じて開くのだ! 
 崇高な"人間の使命"を説き続けた十九世紀イタリアの大革命家マッツィーニの言葉を、私は贈りたい。
 「革命は民衆のために、民衆によって遂行されなければならない」(『ボルトン・マッツィーニの生涯』力富阡蔵訳、黎明書房)
 我らの勝利の暁に、君よ、あなたよ、最高無上の幸福の万歳を叫ぶのだ!

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