Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広宣流布の王者 創価の正義は嵐を越えて厳たり

2002.11.20 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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3  本来、信仰の世界は、利害ではなく、「信頼」を基礎にした良心の結合だ。その強き絆の生命線は、民衆の救済に尽くす指導者の高潔な精神と行動にある。
 ゆえに悪人は、この信頼を壊し、不信の汚辱にまみれさせるために、指導者や教団の醜聞を捏造し、その宣伝に狂奔するのだ。
 あのナチスも、カトリック教会に打撃を与えるために、声望ある修道士のスキャンダルを流していたことは、有名な史実である。
 「嫉妬は架空の醜名をもって、つまり、讒謗をもって攻撃する」(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)とレオナルド・ダ・ピンチは洞察した。
 興味深いことに、悪人どもが迫害のためにつくり上げる中傷は、自分自身が陰でやってきたことが多い。しばしば、金銭問題を起こした者は、金銭問題のデマを流し、異性関係にだらしがない者は、異性問題を捏造して醜聞を流す。
 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といわれるように、でっち上げるデマもまた、自分の行動、願望、思考、境涯の投影にすぎないからだ。
 また、流されたデマの反応にも、その人の人格と境涯が端的に表れていくものだ。自分の生き方に、ごまかしや不正がある人は、醜聞を好み、デマを鵜呑みにする。
 悲しいかな、「無私」の心や精神の尊貴さ、清廉潔白といった生き方を、信じることができないのである。だから”皆、自分と同じである”と思いたいのだ。そこには、自分を正当化したいという心理が働いている。
 いわば、デマの本質を見抜き、一笑に付すか、デマに騙され、翻弄されるか──試されているのは、一人ひとりの人格でもあるのだ。
4  「一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」との言葉がある。一人がでっち上げた流言飛語に乗り、多くの人が騒ぎ立てるとの意味である。
 事実無根でも、社会は「火のないところに煙は立たない」という見方をする。そこへ、デマを流せば、それが増幅されて伝えられ、あたかも、既成事実のようになってしまう。
 ゆえに、正義の人を追い落とすために、古来、デマ攻撃が用いられてきたのである。
 なればこそ、迫害は正義の証明であり、難こそ誉れである。
 広宣流布とは大言論戦だ。今こそ、若き広布の英雄である青年諸君が、「善の言論」の剣を抜く時だ。
 人を苦しめる「悪の言論」を打ち破れ! 民衆を救う、正義の剣を高く掲げよ!
 ともあれ、正義は叫ばねばならない。跡形もなく嘘が消え去るまで、真実の光の剣で戦うのだ!
 マハトマ・ガンジーが先達の言葉を引いて、自らの鉄の信念を語ったごとく!
 「信じない人がいる間は、真理はくりかえし述べる必要がある」(『わたしの非暴力』2、森本達雄訳、みすず書房)

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