Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広宣流布の王者 創価の正義は嵐を越えて厳たり

2002.11.20 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
2  人民の大指導者・周総理もまた、さまざまな迫害と戦い続けてこられた。
 なかでも、あの悪辣な”四人組”は、デマ記事を使って、周総理の失脚を目論んでいたと、総理の主治医が書いている。
 その記事とは、一九三〇年代の革命闘争の最中、総理が党からの「離脱声明」を出したというものであった。これは、当時の敵側の流した事実無根の捏造であった。
 実は、その記事が出た時、総理はすでに革命の拠点の要職についていた。事情を知る人なら、絶対に騙されるはずもない虚報である。
 ところが四人組は、文化大革命の混乱に乗じて、何十年も前のデマ記事を持ち出し、清廉潔白の総理に”裏切りの過去”があると讒言し、騒ぎ立てようとしたのだ。さらに彼らは、総理の逝去後にも、再び同じデマ記事を使おうとした。(張佐良『周恩来・最後の十年』早坂義征訳、日本経済新聞社、参照)
 私欲に駆られて権力の座を狙う”人民の裏切り者”が、人民奉仕に徹した総理を裏切り者呼ばわりする。笑止千万だが、これこそが悪人の攻撃のやり口であった。
 大聖人は伊豆流罪の大難のなか、こう仰せである。
 「今は世が末になってしまったので、妻子を持っている僧でも人びとの帰依を受け、魚や鳥を食べている僧でも帰依を受けるのが当然となっているではないか。
 ところが、日蓮はそうした妻子も持たず、魚や鳥をも食べず、ただ法華経を弘めようとしているだけである。それを罪過とされ、妻子を持たないのに犯僧(破戒僧)の名が国中に満ち、ケラやアりさえも殺さないのに、悪名が天下にはびこっている」(御書九三六ページ、通解)
 「立正安国論」を世に問われて二年後のことである。
 諸宗の僧たちは、大聖人と「法」の正邪を争っても、とても勝ち目がないと知ったのであろう。卑劣にも、大聖人に「破戒僧」「悪僧」の汚名を着せて、その噂を日本中に流したのである。
 では、諸宗の僧たちの実態は、どうだったか。
 当時から、念仏僧の一部は公然と妻帯していた。魚や鳥を食べる生臭坊主も、幾らでもいた。大聖人を口汚く誹謗している連中の方こそ、破戒僧であり、悪僧であった。
 正義の人に無実の汚名を着せ、悪のイメージを与えることは、古今変わらぬ常套手段といってよい。
 大聖人は、御自身への悪口罵詈について、「釈尊をさまざまな外道が誹謗したことに似ている」(御書九三六ページ、通解)と仰せである。
 釈尊は生涯に九つの大きな難(九横の大難)を受けた。そのうち二つは、女性が関係した、全く、でっち上げの事件であった。
 一つは「旃遮女の謗」である。バラモンの旃遮女が衣の下に鉢を入れて、釈尊のために身ごもったと吹聴し、説法の席で誹謗した。
 もう一つは「孫陀利の謗」である。釈尊の徳望を妬んだ外道たちが、孫陀利という女性をそそのかし、仏の会座に出入りさせたあと、殺害して祇園精舎に遺棄した。やがて遺体が見つかると、彼らは、釈尊らの仕業だと喧伝したのである。
3  本来、信仰の世界は、利害ではなく、「信頼」を基礎にした良心の結合だ。その強き絆の生命線は、民衆の救済に尽くす指導者の高潔な精神と行動にある。
 ゆえに悪人は、この信頼を壊し、不信の汚辱にまみれさせるために、指導者や教団の醜聞を捏造し、その宣伝に狂奔するのだ。
 あのナチスも、カトリック教会に打撃を与えるために、声望ある修道士のスキャンダルを流していたことは、有名な史実である。
 「嫉妬は架空の醜名をもって、つまり、讒謗をもって攻撃する」(『レオナルド・ダ・ヴインチの手記』杉浦明平訳、岩波文庫)とレオナルド・ダ・ピンチは洞察した。
 興味深いことに、悪人どもが迫害のためにつくり上げる中傷は、自分自身が陰でやってきたことが多い。しばしば、金銭問題を起こした者は、金銭問題のデマを流し、異性関係にだらしがない者は、異性問題を捏造して醜聞を流す。
 「蟹は甲羅に似せて穴を掘る」といわれるように、でっち上げるデマもまた、自分の行動、願望、思考、境涯の投影にすぎないからだ。
 また、流されたデマの反応にも、その人の人格と境涯が端的に表れていくものだ。自分の生き方に、ごまかしや不正がある人は、醜聞を好み、デマを鵜呑みにする。
 悲しいかな、「無私」の心や精神の尊貴さ、清廉潔白といった生き方を、信じることができないのである。だから”皆、自分と同じである”と思いたいのだ。そこには、自分を正当化したいという心理が働いている。
 いわば、デマの本質を見抜き、一笑に付すか、デマに騙され、翻弄されるか──試されているのは、一人ひとりの人格でもあるのだ。
4  「一犬形に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」との言葉がある。一人がでっち上げた流言飛語に乗り、多くの人が騒ぎ立てるとの意味である。
 事実無根でも、社会は「火のないところに煙は立たない」という見方をする。そこへ、デマを流せば、それが増幅されて伝えられ、あたかも、既成事実のようになってしまう。
 ゆえに、正義の人を追い落とすために、古来、デマ攻撃が用いられてきたのである。
 なればこそ、迫害は正義の証明であり、難こそ誉れである。
 広宣流布とは大言論戦だ。今こそ、若き広布の英雄である青年諸君が、「善の言論」の剣を抜く時だ。
 人を苦しめる「悪の言論」を打ち破れ! 民衆を救う、正義の剣を高く掲げよ!
 ともあれ、正義は叫ばねばならない。跡形もなく嘘が消え去るまで、真実の光の剣で戦うのだ!
 マハトマ・ガンジーが先達の言葉を引いて、自らの鉄の信念を語ったごとく!
 「信じない人がいる間は、真理はくりかえし述べる必要がある」(『わたしの非暴力』2、森本達雄訳、みすず書房)

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