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日蓮大聖人・池田大作

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威風堂々の京都 世界の憧れの都に舞え 創価の英雄よ!

2002.3.19 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
3  名刺と呼ばれる寺院が甍を並べる街で、学会は、宗門に新しい寺院も寄進した。
 そして「これこそ聖僧である」という手本を示してほしいと願い信じて、赴任した僧を守りに守った。
 あの日顕も、一九六三年(昭和三十八年)から何年もの間、学会寄進の京都の寺の住職であった。
 しかし「聖僧為る可し」の遺誡に背き「遊戯雑談」に明け暮れる「法師の皮を著たる畜生」の腐った姿であったことは、多くの同志が見聞きし、当時から憤慨していた。それらの不祥事を、皆であえて庇いもし、押し隠して、守り抜いてあげたのである。
 そうした真心も踏みにじって、狂った宗門の坊主どもは、一九七七年(昭和五十二年)ごろから、広宣流布に献身しゆく学会員を侮蔑し、迫害したのだ。
 「魔沙門」とも「狗犬の僧」とも、御書に喝破されている如く、どれほど異常な強欲、冷血の坊主たちであったか!
 なかでも宇治市を中心とする、当時の洛南圏の同志は、ひとかたならぬ苦渋を強いられた。
 学会が寄進した寺の坊主は、御書の講義もそっちのけで、学会批判の罵署雑言を繰り返すのみであった。
 また、故人を悼む葬儀や通夜の席でも、「学会についていったら地獄に堕ちる」等々、冒漬の極みの暴言を言い放った。
 さらには、一部の名聞名利の幹部を誑かす、和合僧の撹乱と破壊に狂奔した。他宗も呆れ果てるような、京都の長い仏教史においても空前の狂態であったといってよい。
 だが、学会精神、そして関西魂の真髄を知りたる京都の友は、死に物狂いで創価の法城を厳護し抜いてくれた。なかんずく、わが婦人部の正義のスクラムは健気であった。
 私が、宇治平和会館へ走ったのは、その迫害の渦中の一九七八年(昭和五十三年)の十月十二日である。それは開館十周年の記念勤行会であった。
 私は、指導の結びに「開目抄」の有名な一節を拝した。
 「我並びに我が弟子・諸難ありとも疑う心なくば自然に仏界にいたるべし……」
 「我並びに我が弟子」──師弟は一体であり、師弟は不二である。
 いかなる苦難が襲いかかろうとも、大聖人に直結して、広宣流布の師弟の道を貫く人が、必ず仏になる。必ず大境涯を聞き、最後は勝つ。
 「熱原の法難」から七百年の意義あるこの年、が師子の京都は猛反撃を開始し、威風堂々と邪悪を粉砕していったのだ。
4  大聖人は、広布に戦う御心境を、京都の宇治川の合戦で先駆けた武士の誉れに譬えられた。そして、「広宣流布の戦いには、必ず天魔が人の身に入って迫害する。その時に先陣を切って戦う人は三世十方の仏を供養するのと同じ功徳を受けるであろう」(御書一四一五ページ、趣意)と仰せであられる。
 七年前の五月、「二十一世紀の先陣」を切らんと、わが直系の関西青年部が第一回の総会を開催したのも、ここ京都の天地であった。
 「悪玉が正法を破ろうとする時に邪法の僧らが味方をする」(御書九五七ページ、趣意)と仰せ通り、当時、提婆の一類が権力と結託し、信教の自由を弾圧していた。
 まさにその時、京都を先頭として、関西の青年が正義の宝剣を抜いたのだ。
 その頼もしき決意の魂を、私は永遠に讃歎したい。
5  キルギス出身の世界的作家のアイトマートフ氏は、京都で私に語られた。
 「創価学会の運動は、実に人間的です。それは内面的な『理想』と『哲学性』を追求する運動です。
 この運動は、まかりまちがっても、若者を『戦争の英雄』へと駆り立てていくことはありません。
 若者を、本当の意味での『英雄』に育てていくことが大事です。それを実行しているのが創価学会です」
 一九九八年(平成十年)の錦秋、世界遺産の二条城に隣接する京都国際文化会館に、ご夫妻を、お迎えした時の言葉である。
 ともあれ、アメリカの民衆の英雄たるキング博士は、こう叫んだ。
 「私は「暴力を慨嘆しますが、暴力よりいっそう悪質なものがあります。臆病がそれであります」(アーサー・M・シュレジンジャー監修、ナンシー・シュッカー著『MARTIN・LUTHER・KING』瀬戸毅義訳、燦葉出版社)
 「意志薄弱な黙従は卑怯である」(『汝の敵を愛せよ』蓮見昭訳、新教出版社)
 日本の都・京都、そして世界の憧れの京都!
 京都の皆様方は、一生涯、愛するわが都を、「幸福の都」「和楽の都」、さらにまた、「広布の都」「創価の都」として、すばらしき広宣流布の模範の歴史を綴っていただきたい。

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