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日蓮大聖人・池田大作

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教学研鎮の喜び 偉大なる慈悲と哲理の闘士たれ

2001.10.19 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

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1  「われわれの魂の進歩も一編の完全な詩のようである。ひとたび無限な思想に触れるなら、その思想は魂のすべての活動に意味と喜びを与える」(「サーダナ」美田稔訳、『タゴール著作集』8所収、第三文明社)
 インドの大詩人タゴールは、このように書き残した。
 思想の正邪、善悪、高低、浅深を真摯に探究し、至上至善の大哲学を、わが生命に刻むことこそ、人生の一大事である。
 「日興遺誠置文」には、「当門流に於ては御書を心肝に染め」と誠められている。
 この秋、「対話の拡大」の大いなる上げ潮のなか、仏法という大哲理で、若々しき生命を染め抜く、教学の研績の波が高まっている。
 今月から来月にかけ、青年部の「一級試験」と、伝統の「任用試験」が行われる。
 受験される方々も、研錆を応援してくださる先輩方も、共に無限の「太陽の仏法」を学びゆく、絶好の機会としていただきたい。
 今回、青年部諸君が挑戦する「御義口伝」は、日蓮大聖人の御講述を、日興上人が筆録された重書である。
 この”師弟ー体”の口伝書は、戸田先生と私にとっても、ことに思い出の深い御書である。
 師のもとで、私が教学を学び始めた時、まず「御義口伝」から入ったのである。
 先生の訓練は厳しかった。普段から、「この語句はどういう意味か?」「御文を解釈してみなさい」等、いつ質問が飛んでくるかわからない。
 毎回、冷や汗が出る思いだったが、これこそ「剣豪の修行」のごとき訓練であったと感謝は尽きない。
 仏の振る舞いは、人民のためにある。平和のためにある。人びとをして幸福にせしめるためにある。全世界の救済である。
 その原点ともいうべき、信仰の推進力になるのが、教学である。
 ゆえに、教学なき信仰はなく、教学は必ず信仰の源泉となるのだ。
2  若き日、私は、感銘した御書の一節を日記に留めることが、いつしか習慣となっていた。
 折伏精神に燃え立つなかで学んでこそ、蓮担の御精神に触れることができる。
 観念的な学者ぶった、ただ知識の暗記の教学などは、日蓮仏法の教学ではない。それは傲慢な虚栄心に富んだ、エセ信仰者、エセ学者の行為である。
 「戦いは、毎日激烈を極む。唯、勝つことを願い、前に前に進む以外の道なし。
 仕事も大事、而し、御書の研究を、確実にすることを、決して忘れぬこと」
 昭和二十五年の秋霜の夜、日記に書き綴った私の決意であった
3  教学の力を持たなければ、真実の偉大な信仰者とはいえない。
 信仰が原動力となり、教学が翼となってこそ、幾百千万の人びとの心をつかみ、人びとの知性を啓発させながら納得させることができる。一人ひとりが、その広布の闘士となっていくのだ。
 そこに、妙法が広がっていくのだ。
 「信心」と「教学」を持った人が、本格的な創価の指導者である。
 戸田先生は、戦時中の大法難を顧みて、教学の深化の必要を、しみじみと感じておられた。
 ──それは、信心の過程において、「このような難、このような現象は、こう捉えていくべきである」「このような場合には、こうしていくべきである」等と、御書には明確に記されている。このことを、弟子たちに深く教える暇がなかった、と。
 教学なきところに、戦前の学会は敗北した。
 重ねて言うが、信心のない教学では、エセ学者であり、エセ信者だ。
 元教学部長の退転した、あのぶざまな姿が、一つの証左だ。
 有名大学の学歴を持ち、しかし退転し、破仏法、破和合僧の狂気の毒を撒き散らした愚者も、これまた信心なき見栄の教学であった。
 決して騙されてはならない。信心があるかないかは、御書の通りの行動をしているかどうかである。
 その根本たる「信行」をごまかして、「学」だけで、さも「仏法を我知れり」と思うことは、増上慢であり、邪知である。必ず破滅していくことは間違いない。
4  「思想の意味が深ければ深いだけ、思想は、魂の扉を強く叩いて、語られること、行為にうつされることを執勘に求めるのが常である」(「芸術」斉藤光訳、『エマソン選集』5所収、日本教文社)とは、アメリカ・ルネサンスの旗手エマソンの言葉である。
 「わが身が宝塔、わが身が仏」と、高らかに生命尊厳を謳った日蓮仏法こそ、病める現代社会を救う、確かな平和の指標にほかならない。
 私たちは、常に「末法の経典」たる御書に立ち返り、そこから、無限の勇気と英知と慈愛の光線を浴びながら、前進するのだ。
 御書には、あらゆる迫害を忍び、末法万年の広宣流布の道を開いてくださった、蓮祖の大生命が赫々と輝きわたっているからだ。
 なぜ「正義の人」が讒言され、迫害されるのか。その変わらぬ構図を見抜く目も、深く、また鋭く磨いていける。
 地涌の菩薩が進む当然の道筋として、三類の強敵と戦い、広宣流布を断行しゆくための教学である。
 教学をわが血肉とし、身読してこそ、凡夫即極の諸法実相の仏といえるのだ。
 仏法を学ぶ喜びが、信心の確信を深めるその確信が、仏法を語る勇気を、満々と漲らせるのである。
5  本来、仏教は、釈尊が友と語り合い、自らが倍った法を納得させたところから始まっている。
 まさに、その出発点から「対話」の宗教であった。
 蓮祖の御書も、燃え上がるような「対話の魂」の結晶といってよいだろう。
 主人と客人の問答からなる「立正安国論」はもちろんのこと、一級試験の研鑽御書である「撰時抄」のほか、数多くの御書が「問うて云く」「答えて云く」という「問答形式」で綴られている。
 御消息文でも、信徒の質問に、「よくぞ聞かれた!」と、喜んで答えておられる。
 「行学の二道」に徹した、この強靭なる「対話の魂」こそ、創価学会の鉄壁な伝統である。
 学び、語り、また学ぶ。その生き生きとした、求道の往復運動にこそ、真実の仏法修行の道があるからだ。
 戸田先生は言われた。
 「最も高き思想のものから学べ。御書が拝せれば、あとは全部わかってくるのだ」
 若き探究者たちよ、栄光の同志たちよ、今こそ学び抜け! 叫び切れ!
 「人類の経典」たる御書を手に、新しき歴史の舞台に躍り出でよ!
 人類の希望の明日のために! 地球を人間主義の光で包みゆくために!

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