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第十二章 新世紀をひらく「王道」――『…  

「旭日の世紀を求めて」金庸(池田大作全集第111巻)

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1  青年時代に親しんだ吉川『三国志』
 池田 金庸先生との文学対談の締めくくりのテーマとして、お国の文学、特に私たちが青年時代に若き血を燃え立たせた『三国志』『水滸伝』を取り上げてはいかがでしょうか。
 金庸 うれしいことです。『三国志』『水滸伝』『西遊記』『金瓶梅』――中国の「四大奇書」のなかでも、その二つは、とりわけ親しまれている作品です。
 池田 汲めども尽きぬ中国文学の広がりのなかでも、『三国志』は、ひときわ光彩を放つ作品です。私も青年時代から幾度となく繰り返して読みました。強くひかれてきた一人です。
 ただ、ひと口に『三国志』といっても、歴史書としての『三国志』もあれば、物語としての『三国志演義』もある。その『三国志演義』にも、いくつかの種類があります。
 そこで、ここでは一応、吉川英治氏の小説『三国志』を題材に語り合うことにしたいと思うのですが。
 日本のある中国文学者も、「中国で読まれてきた『三国志演義』のおもしろさを生かしつつ、現代人にマッチさせた作品」と評価しています。また、中国出身の評論家も語っています。「吉川先生に至っては、三国志も水滸伝も、これを全く薬篭中のものとすることにつき、立派に成功しているのである。『見仁見智』と言葉の通り、之を正しい反骨精神、義侠精神への滑車として駆使する点について、吉川先生の筆は十分な成功を示し、諸葛孔明や百八星よりもさらに高度の自己開発に役立てているといって差支ない」(『吉川英治全集』月報⑫所収の苗剣秋「永遠の生命」)と。
 日本で『三国志』といえば、たいてい吉川『三国志』を指すほど、親しまれています。恩師・戸田城聖先生を囲む青年たちの勉強会でも、吉川『三国志』を教材として用いました。
 また、ご存じのように吉川氏は、ちょうど金庸先生が「中国の国民作家」と呼ばれているのと同じように、「日本の国民作家」と呼ばれる作家です。そのため日本では、金庸先生を紹介する際、「中国の吉川英治」と呼ぶ人もいます。(笑い)
 金庸 結構だと思います。私も吉川氏の作品は、いくつか読んだことがあります。また吉川氏は、『三国志』『水滸伝』のいずれも小説化しています。精彩に富んだ氏の文章のおかげで、現在にいたっても、この二つの作品に対する日本の読者の興味は衰えていません。
 それに私は、池田先生が吉川氏について論じた対談集(『吉川英治人と世界』六興出版)を読んだこともあります。一読して私は、先生と吉川氏の作品が深い友情で結ばれているように感じました。
 池田 恐縮です。吉川氏とは生前、お目にかかったことはありませんが、一○年ほど前に東京・青梅にある吉川英治記念館(草思堂)を訪れて、氏の夫人とお話ししたことがあります。
 夫人から氏の思い出をうかがいながら、在りし日の文豪をしのんだひとときは、今も忘れえません。そのときの感動を一篇の詩にも、したためました。(『富士のごとくに』)
 金庸 詩は私も拝見しました。吉川氏に寄せる先生の思いが伝わってくる詩でした。
2  英雄豪傑が織り成す「詩」と「ロマン」
 池田 ありがとうございます。
 さて、『三国志』の魅力の源泉が、どこにあるか。スケールの大きさもそうですが、何よりも、その人物像の多彩さにあるといってよいでしょう。
 文学とは、具体的な人物の名前で語られるとき、最も生き生きと人間の心に刻まれるものです。少なくとも、それが中国文学の伝統であり特質であるように思います。『三国志』は、その特質を最も象徴している作品です。
 王道の人・諸葛孔明。仁徳の人・劉備。覇道の人・曹操。剛毅果断の人・孫権。
 さらには、信義の英雄・関羽、直情の豪傑・張飛、英勇の闘将・趙雲等々、いずれも中国大陸ならではの気宇壮大な人物群です。一人一人の人物に「詩」があります。「ロマン」があります。
 この作品が朝鮮・韓半島や日本で長く愛されてきたのも、幾多の英雄豪傑が織り成す、「詩」と「ロマン」あればこそだといってよいでしょう。
 金庸 同感です。吉川氏も「三国志には詩がある」と語りましたが、まことにいい得て妙だと思います。
 池田 お国でも事情は同じではないでしょうか。特に明の時代以降の庶民生活では、街角で講談師が語る『三国志』に、大人も子供も息をのんで聞き入るといった光景が、あちこちで見られたといいます。
 そこでは劉備や孔明が勝つと、皆、喝采する。逆に曹操が勝つと、地を踏み鳴らして悔しがった。それも朱子学流の「勧善懲悪」思想の影響ばかりではなく、庶民の心のひだに染み入る「ロマン」あってのことでしょう。
 金庸 中国の古典小説のなかで『三国志』ほど崇高な地位を獲得した作品は、ほかにありません。これに比肩できる小説は何かと考えてみても、ちょっと思いあたりません。この三○○年間、『三国志』は、「第一才子書(才子が第一に読むべき書)」、あるいは「第一奇書」と呼ばれ続けてきました。
 ただ、近代の文学批評家たちは、純文学の観点から、『紅楼夢』のほうに、より高い価値を見いだしています。私も、そう考える一人です。毛沢東は、『紅楼夢』には封建意識を打破しようという革命的な意味が含まれていると考えました。これは、階級思想の立場から、『紅楼夢』に未曾有の評価が与えられたことを意味します。その影響は、毛沢東をして、豪快で小さなことにこだわらない性格と、数々の目覚ましい軍功で知られる許世友将軍に対しても『紅楼夢』をしっかり読まなければならない、と語らせたほどです。
 池田 この対談でも話が出ましたが『紅楼夢』といえば、中国・清の時代を代表する小説ですね。大貴族の繁栄と没落を背景に、貴公子と、彼を取り巻く女性たちを描いた物語です。日本でいえば、『源氏物語』のような作品でしょうか。
 日本では中国ほど幅広い読者を得ていないようですが、たとえば作家の杉浦明平氏は、『紅楼夢』と『源氏物語』を対比させつつ、日常生活の描写の巧みさや、リアリティの点で、『紅楼夢』に軍配を上げています。
 金庸 中国でも誰もが愛読しているというわけではありません。毛沢東から『紅楼夢』を読むよう勧められた許世友将軍も、実際に本を手にしたとき、どんな反応を示したでしょうか。「情切々として良宵に、花は語を解し、意綿々として静日に、玉は香を生ず」といった深い情緒を漂わせた光景には、とても辛抱できなかったことでしょう。(笑い)
 むしろ、『三国志』の「虎牢関での三英(劉備・関羽・張飛)と呂布の一戦」や、「周瑜が敵を壊滅させた赤壁の戦い」などの場面にこそ、胸を躍らせていただろうことは、容易に想像できます。
 池田 杉浦氏は、幸田露伴の言葉に寄せて、ちょうど逆のことをいっています。
 「露伴であったか、『紅楼夢』ではいつも飯をくってばかりいる、と批評したとか。露伴もこの大長編をあえて翻訳したぐらいだから、この作品が好きだったのだろうが、どういうつもりでそんなことを言ったのやら。わたしは、小説の中でいつも飯をくっているから、とても好きなのである」と。(笑い)
 ところで文学作品としての評価は別として、『三国志』が時代を超えて、多くの人々の心をつかんできたことは事実ですね。
 金庸 そうです。『三国志』が社会に及ぼしてきた影響は、この作品の文学的な価値以上に大きい。
 とはいえ、この作品が文学的に劣っているというわけではありません。純粋に文学として論じた場合でも、『三国志』の人物描写はたしかに一流の域に達しているといえます。中国では、後世の小説家は皆、この作品から栄養を吸収してきたのです。
 池田 人物描写に成功している理由は、どこにあるとお考えですか。
 金庸 やはり場面の設定や周辺の雰囲気づくりに、抜群の手腕が発揮されているからでしょう。
 たとえば有名な「三顧の礼」のくだりです。ここでは、主人公の一人である諸葛亮(孔明)を登場させるにあたって、銅鑼や太鼓の音を、あたり一面に鳴り響かせながら、少しずつ少しずつ表に引き出してくるような舞台効果を狙っています。
 その後の諸葛亮の活躍にしても、あたかも、ぼやけた焦点を少しずつ少しずつ合わせていくように描いています。次第次第に浮き彫りにしていきます。
 たとえば、「草の束を載せた船で敵の矢を借りる」場面で、矢をどうやって調達するのか。また、「東の風を借りる」場面で、風がどのようにして大勝利をもたらすのか、といったくだりです。
 池田 なるほど。劇的効果が存分に発揮されるよう、細心なまでの工夫がこらされているわけですね。
 金庸 ええ。こうした手法は外国の小説、少なくとも名著と呼ばれる作品では、まず見られません。外国の小説の主人公は往々にして、突如として姿を現すか、あるいは逆に、あくまで正体は隠されていて、どんな人物なのか最後まで見当がつかないかのどちらかです。
 ところが『三国志』の登場人物は、性格がはっきりしています。「忠」の人物は、まるで天に届くほど忠義心が篤い。「奸」の人物は、類いまれな残忍さで、悪逆の限りを尽くします。読者は本をひもとくやいなや、たちまち登場人物一人一人の立場を見分けることができます。そのうえで、好き嫌いをはっきりさせることでしょう。
3  孔明・劉備の理想主義と曹操の現実主義
 池田 さすがに創作に苦心してこられた文豪ならではの視点ですね。
 私の恩師は、ことあるごとに『三国志』を用いては、私たち青年に、育成と触発の機会を与えてくれました。指導者論、人間観、歴史観――その一つ一つが、私にとってかけがえのない青春の財産です。
 特に、孔明と劉備に代表される「王道」と、曹操に代表される「覇道」の相剋を対比させつつ、「諸葛孔明も、劉備玄徳も、理想主義者であった」「『三国志』においては、曹操のごとき現実主義者が、彼ら理想主義者に打ち勝ってしまったという悲しみがある」と語っていたことが忘れられません。
 理想主義と現実主義。現実を踏まえない理想は幻想です。理想なき現実は醜悪にすぎる。また、何よりも民衆に多大な犠牲を強いる結果になってしまう。この二つの矛盾を、どう克服するか。換言すれば、「正義と力」の兼備こそ、指導者に求められる条件ではないでしょうか。
 金庸 偉大な作品は、読む者に多くの想像を与えてくれるものです。おっしゃるとおり、『三国志』も、現代に生きるわれわれに、さまざまな思索の糧を与えてくれます。
 池田 ただ、「王道」「覇道」と申し上げましたが、『三国志演義』と吉川『三国志』とでは、多少スタンスが違いますね。
 曹操のとらえ方にしても、『三国志演義』では悪の権化のように扱っている。吉川『三国志』では、人材を惜しみ、愛した英傑としての側面も忘れない。むしろ、関羽に対する溺愛といってもよいほどの執着ぶりに象徴されるように、一面では情の厚い、きわめて魅力ある人物として描いています。
 しかも彼は、その子の曹丕、曹植(「そうち」とも)とともに当時有数の詩人だった。実際、単なる俗物奸物なら、あれほど多くの人材が集まってくるはずもありません。
 「判官びいき」は、いずこの国にもあることでしょうが、その点、『三国志演義』は、曹操に点が辛い。(笑い)
 金庸 私も子供のころ『三国志演義』を読んだときは、全面的に劉備の蜀漢の側に立っていました。蜀漢が、呉や晋よりも先に滅んだことを、絶対に認めようとはしませんでした。(笑い)
 そのために長兄と何時間にもわたる激論を交わすことになりました。長兄は仕方なく、彼が当時、中学校で使っていた歴史の教科書を引っ張り出して、数行を指差しました。そこには蜀漢が、鄧艾とうがいと鍾会によって滅ぼされたと明確に書かれていました。
 私は敗北を認めざるをえなくなったわけですが(笑い)、それでも腹の虫がなかなか納まらず、悔しさのあまり涙が止まりませんでした。
 『三国志演義』でも、鄧艾と鍾会が蜀漢を滅ぼし、蜀漢の姜維が殺される一段が出てきます。とても丁寧に描き込まれています。しかし当時の私は、諸葛亮が五丈原で亡くなった後まで、物語を読み進めていく興味を失っていました。
 池田 特に魏と雌雄を決せんと五丈原に駒を進める心境を切々と綴った「臣亮もうす」で始まる"出師の表"は、涙なくしては読めません。孔明に寄せる人々の思いは、正義が勝つことを願う万古不易の人間の心理ですね。吉川『三国志』も、孔明の死で事実上、終わっています。
 恩師も、ある年の正月、私が孔明の死を悼んだ「星落秋風五丈原」(土井晩翠作詞)を歌うと、「もう一度、歌いなさい」「もう一度だ」と何度もうながされ、歌に聞き入っては、さんさんと涙しておられた。苦心孤忠の孔明の心情に、自らの心情を重ね合わせておられました……。
 ところで金庸先生は、数々の武侠小説を著すなかで、多くの魅力ある人物を描いてこられました。その苦心の経験に照らして、最も心ひかれる『三国志』の人物とは、誰でしょうか。
4  異彩を放つ英雄・趙雲、傑出した大人物・周瑜、陸遜
 金庸 いちばん好きなのは、趙雲です。関羽や張飛ですら遠く及ばない大英雄だと、ずっと思ってきました。
 趙雲は、長坂坡で曹操の大軍を相手に獅子奮迅の働きをします。これは、関羽が敵の顔良、文醜を討ち取ったり、五つの関所を通り過ぎて六人の大将を斬り捨てたことよりも、はるかに難しいことです。また、ずっと生き生きとしています。同時に趙雲は、人柄が、とても高潔であり、小さなことにも注意を怠らず、知謀にも長けています。
 池田 「武」の側面もそうですが、趙雲は『三国志』の登場人物には珍しく、長寿をまっとうして大往生というにふさわしい、眠るような安らかな死を迎えている点に、私は注目しています。いつ亡くなったのか、わからないほどです。関羽といい、張飛といい、いずれも非業の死、劇的な死を遂げているのとは、大きな違いがあります。人間として「生きたように死ぬ」という意味では、関羽も張飛も完結していますが、趙雲の場合は一見、豪傑らしからぬ平凡な死です。それだけに印象は、かえって鮮烈です。
 話は若干、広がりますが、長寿であるということは、その人の生きざまの態様、思想の成熟の仕方、あるいは後世への影響という点で、かなり決定的な意味をもつのではないでしょうか。もちろん、私どもの宗祖が「百二十まで持ちて名を・くたして死せんよりは生きて一日なりとも名をあげん事こそ大切なれ」と仰せのように、長生きしたところで酔生夢死であっては何の意味もありません。
 しかし、一瞬一瞬を激しく生き抜き、完全燃焼させたうえでの長寿は、卓越した人物の天才的発想――歴史上の事例が語るように、それはしばしば驚くほどの若年時に見られます――が、どのような成熟過程をたどっていくかに決定的な意味をもちます。
 たとえば釈尊の長寿は、仏教の性格に大きな影響を与えたといわれます。歴史に"もし"は禁物ですが、もしイエスが釈尊ほどの長寿をまっとうしたとすれば、キリスト教の性格も、今、伝えられているものとは、かなり違った様相を呈していたにちがいない――そんなことにも私の連想は及ぶのですが。
 金庸 興味深いお話ですね。単純な例でいえば、『三国志』でも、もし天が孔明に長寿を与えていたなら、歴史は大きく変わっていたことでしょう。
 池田 日本の歴史でも、秀吉が家康と同じくらい長寿であったならば、その後の歴史は大きく変わったはずです。
 ところで話を元に戻して、いちばん好きな人物は趙雲。そのほかは、どうでしょうか。
 金庸 趙雲の次に好きな人物は、馬超と呂布です。少年のころといえば、とかく戦闘力のある武将に目を奪われ、馬超の性急さや呂布の愚かさなど、性格上の重大な欠点には、あまり注意が向かないものです。
 それに、この二人は舞台では、キリッとした二枚目として演じられますので、私の心に鮮やかな印象が残っていて、その分、点数がいいのです。
 池田 「三つ子の魂、百まで」といいますが、そうした少年時代の体験は、卓越した小説家としての金庸先生にとって、いわば「ひこばえ」のような役割を果たしたのではないでしょうか。私の場合、『三国志』を読んだのは青年時代でしたので、呂布にしても、たしかに腕は立つが、いささか思慮に欠け、我欲に溺れやすいなど、マイナス面のほうが印象に残っており、金庸先生の評価は、いささか意外でした。
 金庸 いったん、定着したイメージというものは、ぬぐいさりがたいものです。『三国志』の話にしても、街角の講談師にしろ、史実と民間伝承をもとに『三国志演義』を書きまとめた羅貫中にしろ、いずれも蜀漢へのえこひいきには、まったく度を超えたものがあります。(笑い)
 羅貫中は山西省太原の人――以前は私と同郷の杭州の人と一般にいわれていたのですが、最近、北京大学の周兆新教授が、人々を納得させる考証を発表しました――なので、彼の同郷である関羽に、特に肩入れしているようです。
 池田 お国の方ならではの同郷意識が、作品にも微妙に反映されている。
 金庸 そうなのです。だから曹操を徹底的に悪くいうのは、仕方ない(笑い)。しかし私は長じてからは、故郷である江東の人々を一様に低く評価していることに、いつも不満を感じるようになりました。
 特に孫堅、孫策、孫権といった人たちは私の故郷・浙江省の同郷で、富陽というところの人です。富陽は、漢の時代は富春県と呼ばれており、作家の郁達夫の故郷です。
 ですから私は、ぜひとも江東を主体として『三国志』を書いてみたいと考えたことがあります。主役はもちろん、周瑜と陸遜です。準主役としては、孫策、孫権。それに大政治家の顧雍。それに美女の大喬、小喬が挙げられます。しかし、これは全国の民間に深く根を下ろした伝統思想とは相いれないものですから、書き上げたとしても読者の反応は、きっと良くないにちがいありません。(笑い)
 池田 いえ、ぜひ書いていただきたいものです。
 以前、山本周五郎氏の『樅ノ木は残った』について、ご紹介しました。徳川時代の日本のある藩の、お家騒動を扱ったもので、もちろんスケールの点では『三国志』と、比べものになりませんが、この作品で、著者は、長く大悪人と見なされてきた原田甲斐という武士の評価を、ひっくりかえしました。実際は世人の評価とは逆に、わが身を犠牲にして主君の家を守った苦心孤忠の人物として描いたのです。
 金庸先生が"筆一本"で、従来の『三国志』像を塗り替えるとなると、想像するだに胸が躍ります。
 金庸 勇気づけられるお言葉です。
 ただ、今のところは、自分の頭のなかだけで周瑜についての空想をめぐらせてみるばかりです。たとえば小喬が嫁入りするとき、どんなにさっそうとした英姿だったろう。歌曲の誤りに、どんな反応を示しただろう。江東の大将・程普は「周瑜と友人になるということは、まるで極上の美酒を飲むようなものだ。知らず知らずのうちに酔いつぶれている」と語ったが、それは彼の、どんな品格を指していっているのだろう、と。
 また陸遜は、文武の二道に通じた人物でした。政治のうえでも、あれこれ悪口をいわれるのに耐えて、敢然と重責を担っていきます。中国の歴史全体を通しても陸遜は一流です。私が心から敬服する人物です。
 こうした人物たちを、江南独特の風景と織り合わせながら描き出していく喜びを、独り楽しんでいます。想像を思う存分にめぐらせながら、「江南主体の『三国志』」という、文字の遊戯を堪能する。それだけで十分に満足感を覚えるのです。
 もし本当にペンをとって書き出したとしたら、とてもたいへんなことですし、第一、そうする必要もないでしょう。
 池田 たしかに陸遜は魅力ある人物です。関羽を計略にかけて殺したのも陸遜ですが、人物としての悪印象は受けません。一般には、「士別れて三日なれば、すなわちまさに刮目して相待つべし」のエピソードで知られる魯粛などのほうが、有名かもしれませんが。
 ちなみに『三国志』は、名言・名句の宝庫ですね。「髀肉の嘆をかこつ」「水魚の交わり」「陣中戯言なし」「泣いて馬謖を斬る」「死せる孔明、生ける仲達を走らす」……ちょっと思い浮かべただけでも、引きも切りません。そうした意味でも、いかに『三国志』の物語が人口に膾炙してきたかがわかります。
5  人物描写に長けた中国古典小説の技法
 金庸 『三国志』の人物描写についてさらにいえば、その特徴の一つは内心を直接、叙述しようとしない点です。語りと動作だけに頼って、人物の精神を表現するのです。
 これは戯曲の手法です。戯曲と映画は、役者の語りと動作だけを伝達します。しかし、内心のありようは、おのずと外に表れてきます。これは中国古典小説がはぐくんできた高度な技巧です。
 近代に入って中国では、西洋の小説を学ぶ努力がなされてきました。登場人物の内心の思想を描き出すことに重きをおこうという試みです。しかし読んでみますと、沈鬱な印象を受けるだけでなく、人物の性格が、かえってはっきりしないことが多いようです。これは、中国古典小説の技法を学ばないから、そうなるのです。
 池田 ここ一○○年ほどになりますか、洋の東西を問わず、人間心理の微細な描写を中心に追う文学が主流になってきた観があります。しかし物語性というか、人間の天翔ける想像力や退屈な日常性を錦繍綾なす別世界へと一変させる豊かな構想力をつちかうという意味では、かつての大文学を乗り越えることはできないままできたのではないでしょうか。
 たとえばゲーテは語っています。
 「だいたい、シェークスピアは自分の脚本が印刷文字によって残され、一々取り上げられ、相互に比較され、そして、算え上げられるなどとは夢にも考えていなかった。それよりむしろ、彼が書いたその時に念頭にあったのは舞台であった。彼は自分の脚本を、動くもの、生きたものとして考えた。それは舞台から下りて、迅速に眼と耳とを通過して流れていくもの、人がこれを心に留めて置くこともできなければ、一々あげつらうこともできないものと考えた。それで、つねに現在の瞬間だけに効果があり、重要であるところのものだけを問題とした」(エッカーマン『ゲーテとの対話』〈下〉神保光太郎訳、角川書店)
 シェークスピアの念頭にあったものは「舞台」であり「行為」であり「生きたセリフ」であって、心理分析や心理描写などというものとは無縁であった。書斎で独り、活字と向き合う読者(書)など、彼はまったく想像していなかった。そうしたシェークスピアの世界の豊饒なる広がりに比べれば、精緻な心理描写を駆使した近代文学の世界は、何とも貧寒に思えて仕方がありません。読者も文学青年や知識層に偏っています。
6  中国の歴史と大衆の精神に根ざす『三国志』
 金庸 その点、『三国志』の物語は、中国の一般大衆の精神生活の一部になってきました。人民は『三国志』から、道徳教育と価値基準を受け取ってきました。すなわち劉備や関羽のように友情を大切にし、人民をいたわらなければならない。曹操のように恩を忘れて義にそむき、自身の利益のために腹黒く、悪辣なことは決して行ってはならない、といったことです。
 一般社会では、劉備と関羽は、孔子や孟子よりも重要な道徳的規範です。孔孟の道徳よりも幅広く普及し、効果を発揮してきた存在なのです。
 中国では香港の警察をはじめ、いたるところで神棚を設けて関羽を祭っています。孔子を拝むことはありませんし、イエスも、如来も拝みません。小説の登場人物が大衆の崇拝する宗教的な対象になったことは、世界のいかなる文学作品も成しえなかったことです。古代ギリシャの人々は、ギリシャの神々を崇拝しましたが、それは叙事詩『イリアス』を読んで、そうしたわけではありません。『イリアス』は、ただギリシャ人が神々を崇拝するという事実を記したにすぎません。
 池田 日本にも楠正成とか徳川家康などを神社に祭るといったことはありますが、中国の人々が関羽に捧げる尊敬の念は、私たちの想像をはるかに超えているようですね。
 作家の陳舜臣氏の回想によれば、かつて七○○○人から八○○○人の中国人が住んでいた神戸の街で、中国の寺廟は、ただ一つ。それは関羽を祭った関帝廟だったと。関羽に寄せる尊崇のほどがしのばれます。
 金庸 『三国志』が、中国の歴史を発展へと導くうえで重大な役割を果たしたことは、厳然たる事実です。
 一つの例を挙げて説明しましょう。のちに清朝を打ち立てた女真族が明に進攻を始めた当初は、文化をもたない粗野な民族でした。ですから「孫子の兵法」などの難解な書物を読むことはできなかったのです。
 では、将軍が軍隊を率いて戦争をするとき、何を頼りにしていたかというと、方法も技術も、すべて『三国志』を参考にしていたのです。清朝第二代の君主は、「反間の計」、つまり敵の内部を離間する策を頻繁に用いて、明の崇禎皇帝を惑わせ、大将の袁崇煥を処刑させることに成功しました。
 池田 金庸先生の小説『碧血剣』にも出てくる史実ですね。
 金庸 ええ。これは周瑜の計略にひっかかった曹操が、水軍大都督の蔡瑁と張允を殺したという『三国志』の話にならったものです。袁崇煥が、もし死ななければ、呉三桂が(明の主要な軍事拠点である)山海関を守備することはなかったでしょうから、清の軍隊が、あれほど簡単に北京に攻め込むことなど、不可能だったはずです。
 池田 堅城は外部の敵によってではなく、内から崩れ去る。古今の通例です。日蓮大聖人も「獅子身中の虫の獅子を食む」と述べています。大事にあたって何よりも大切なのは、内部の団結です。
 それにしても、今のお話を聞くにつけても、金庸先生の周瑜に対する思いが伝わってきます。『三国志』では、その知謀の将・周瑜との対比のうえで、孔明の深謀遠慮が強調されていますが、無双の知将であったことに変わりはありません。
7  関羽崇拝に象徴される中国社会の「孝」と「義」
 金庸 先ほど関帝廟の話が出ましたが、中国には、いたるところに関帝廟があります。なかでも洛陽近郊の関帝廟は、たいへん大きな規模です。
 しかし歴史上、実在した関羽はといえば、取り立てて抜きんでた人物ではないのです。勇猛さは、張飛、趙雲、馬超とさほど変わりませんし、曹操の部下である勇将たち、たとえば張遼、徐晃、許褚などは、おそらく関羽と一騎打ちをしたとしても、互角の戦いができたはずです。もちろん呂布は関羽より強かったでしょう。
 兵を使った戦術となれば関羽は明らかに曹操、諸葛亮、司馬懿、周瑜、呂蒙、陸遜、羊粘、陸抗、趙雲に及びません。関羽が後に人の崇拝を受けるようになったのは、すべて『三国志』が、彼の「義」を重んじる性格を誇張して描いたことによります。
 中国人民の間で最も重視される道徳は、第一に孝、第二が義です。一つの小説が、一人の武将を神にまで祭り上げることになったのは、小説の魅力もさることながら、中国人の伝統的な性格が背景にあることを知るべきでしょう。
 池田 たしかに孝と義の強調は、際立っていますね。劉備が新野というところを足場に雄飛していこうとする矢先、軍師と頼んだ徐庶が、曹操の策略にまんまとはまり、母親が病と聞き、すべてを投げ捨てて旅立っていくところなど、孝の道徳を強調した有名なくだりです。また、吉川『三国志』で、冒頭に劉備の孝子ぶりが強調されているのも、孝という徳目が、いかに重いかということを証しています。
 義といえば、劉備、関羽、張飛が義兄弟の契りを結んだ「桃園の義」をはじめ、全編が義の道徳で貫かれています。
 正義、意義、忠義、恩義、信義、道義、情義、大義等々、思いつくままに並べても、みな、人倫の香気を帯びている素晴らしい言葉です。ここから考えても、義とは人間が踏み行うべき正道、人間と人間社会が成り立っていくうえで欠かすことのできない秩序感覚の基であることが理解できます。
 かつてトインビー博士が、未来の「統一された世界」を遠望するにあたって、二○○○年以上にわたって広大な版図を治め続けてきた中国民族の統治経験、統治感覚に注目していたのも、義という観念が代表するような、中国独特の秩序感覚が背景にあってのことでしょう。
 もちろん、そうした秩序感覚が、一歩間違えると社会を固定化させ、窒息させてしまうという危険性を忘れてはなりません。魯迅が「礼教」、つまり儒教道徳との戦いを説く一方で、始皇帝、曹操などの、いってみればそうした秩序感覚への異端児を、時代を画する改革者として高く評価したのも、中国民族の伝統的な精神的遺産の、いわば負の面を厳しく見すえていたからにほかなりません。
 そのうえでなおかつ、義の道徳が象徴するような秩序感覚は、人間社会を律する規範として、やはり中国の人々の心の基底部で生き続けることでしょう。
 金庸 もう一つ、文章上の技巧の面についてですが、『三国志』の文章には、文語が、かなり含まれています。そのため私が小学生のころ、この本を読んだときは、わからない文章が、たくさんありました。しかし物語と人物の絶大な魅力に引きつけられるまま、興味津々で読み進めるうち、わからない部分は飛ばしながら一気に読み終えてしまいました。
 池田 それが『三国志』の魅力ですね。それだけ人を引きつける力をもっている。物語性をもっているのです。先生の身近な方たちも、そうでしたか。
 金庸 私の母はといえば、『紅楼夢』が大好きで、友人たちを集めては、いつも各章の題名や、書中の詩句を暗唱する競争をしていました。勝てば、アメ玉一つが自分のものになります。(笑い)
 私は、そばで黙って見ていたのですが、女性たちがペチャクチャとおしゃべりに興じているだけで、まったくつまらないと思っていました。ただ母の手からアメ玉を一つ一つ受け取るたびに、興味がふくらんでいったことは、いうまでもありません。(笑い)
 池田 よくわかります。
 日本でも『源氏物語』の微妙な心理描写は、少年のころには、なかなかわからないものです。
 中国には『紅楼夢』の魅力に取りつかれた人を指して、「紅迷(『紅楼夢』ぐるい)」という言葉があると聞きました。それほど熱中する読者が多いということでしょうが、お母さまの思い出をうかがって、そのありさまが、ほうふつとします。
8  民衆を憂い、戦った『水滸伝』の英雄たち
 池田 『三国志』と並んで中国、日本の民衆に愛されてきた作品に、『水滸伝』があります。
 青年時代、私は恩師のもと「水滸会」という青年育成のグループで薫陶を受けました。これも『水滸伝』の名にちなんだものです。東京・氷川渓谷の野外研修などで恩師を囲みながら、『水滸伝』はじめ世界の大小説を教材に学び合った日々は、あまりにも懐かしい。
 金庸 池田先生の小説『人間革命』にも綴られていますね。
 池田 おっしゃるとおりです。
 ご存じのように『水滸伝』は、ほぼ全編が架空の物語です。頭領の宋江らについても、歴史書に、ごくわずかな記述が見られるだけです。それが民間に語り継がれた英雄譚をもとに、数百年の歳月をかけて、現在見られるような物語がつくられてきたといいます。
 わずかな記述から、あれほどの大河ドラマが生まれた。作者の想像力もさることながら、時代を超えた民衆の支持がなければ、到底なしえないことです。
 権力に虐げられながら、「こんな英雄がいれば」「こんな理想郷があれば」と求める、民衆の夢あればこそ生まれた『水滸伝』――当時の民衆の願望が、どれほど真摯なものであったか。それはたとえば、英雄たちが立てこもった理想郷・梁山泊についても、農作、酪農、養蚕など、日々の生活のありさままでもが、こと細かに記されていることからもわかります。
 その意味で『水滸伝』とは、権力の圧制とは無縁の、自由自立の世界を求める、民衆の「心の世界」を表現しているともいえるのではないでしょうか。
 金庸 『水滸伝』はふつう、謀反の書、つまり権力者に反抗した英雄たちをほめたたえた小説と考えられています。物語は通常、120回に分かれており、最後は"水滸"の英雄たちが朝廷に投降し、「四寇を征し」ながらも戦死したり、朝廷側によって毒殺されるなどして、一人また一人と亡くなっていくという悲劇で終わっています。
 池田 そこで見落としてならないことは、豪傑たちが自分たち一身の安堵だけを望まなかったという点でしょう。彼らは自由自立の別天地で、何不自由ない生活を満喫していた。進んで激戦の場に身を挺する必要はなかった。ましてや民衆を虐げる朝廷の窮地を救ういわれなどさらさらなかった。
 だが彼らは、庶民を見殺しにはできなかったのです。自分たちの保身を考えるには、彼らはあまりにも庶民に近かった。その「民衆のために生きる」という鮮烈な生きざまにこそ、人々の心をとらえて離さぬ一点があったのではないでしょうか。
 また、そこには英雄たちの憂国憂民の真情につけこみ、さんざんに利用し、ついには切り捨てた権力の非情への痛烈な批判もこめられているのでしょう。
 権力と「民衆の勢力」をめぐる、こうした流転の悲劇に、どう終止符を打つか。『水滸伝』の世界を語る恩師の教えの一つも、ここにありました。私も、このテーマに生涯をかけて取り組んできたつもりです。
9  "水滸"の英雄はなぜ「投降」を選んだのか
 金庸 かつて毛沢東は宋江の「投降主義」を激しく批判して、『水滸伝』は悪い本であると決めつけてしまいました。
 私個人としては、北宋という時代において、"水滸"の英雄たちが朝廷に投降したことは、おそらく最も自然な結末であっただろうと考えています。
 もちろん、英雄たちが謀反を最後まで放棄することなく、いみじくも黒旋風・李逵が語ったように、朝廷をひっくりかえして宋江に皇帝の服である黄袍を着させ、玉座に座らせる可能性も一方にはありました。
 しかし、実際には梁山泊は蜂起することなく、宋江にも皇帝になる野心はありませんでした。
 池田 毛沢東の思想の根底にある「造反有理」や「永続革命」の観点からいえば、『水滸伝』諸豪の朝廷への投降は、既成の秩序や体制への屈服に見えるのかもしれません。
 しかし、とめどもない「造反有理」がもたらすものは、果てしない混乱であり、テロであり、人心の荒廃であり、社会の停滞です。
 「造反有理」はアナーキズムと表裏一体であり、アナーキズムの"黄金律"は「自由」でしょう。しかし、この「自由」はパラドックス(逆説)というか、きわめて凶暴な背理をはらんでいることに注意しなければなりません。それは「自由」を求めて出発した運動が、揚句の果てには「独裁」「専制」を招き寄せてしまうという「自由の背理」です。
 近代の歴史を見ても、アナーキズムの熱狂の嵐は、必ず恐怖政治、強権政治の手段として利用されていった。文化大革命など、その端的な例ではないでしょうか。
 金庸 おっしゃるとおりだと思います。
 『水滸伝』の英雄たちには、二つの選択しかなかったように思います。一つは、引き続き梁山泊を拠点にして、盗賊集団として勢力を拡大し、山東全域――河北南部と江蘇北部を加えることも可能だったでしょう――を支配下に置いて、一つの独立国を建設する。もう一つは、朝廷の招きを受け入れて、投降帰順する。この二つです。
 宋江、盧俊義、呉用、関勝、秦明、呼延灼、徐寧、花栄という指導的立場にあった英雄たちは、もとはといえば下級役人であったり、大富豪であったり、教養ある読書人であったり、官軍の指揮官でした。したがって盗賊生活を脱して朝廷に帰順することは、心理上きわめて自然なことだったのです。
 林冲、李逵、武松、魯智深、阮三兄弟、劉唐など、反逆性の強い英雄たちも、いるにはいましたが、梁山泊の最高指導層に地位を占めていた者はおりませんでしたので、首領や副首領のいうことに、従うほかなかったのです。
 池田 梁山泊に立てこもった面々が、そうしたアウトローたちだけだったならば、良い意味でも悪い意味でも、盗賊集団の域を出ることはなかっただろうと、私も思います。
 金庸 『水滸伝』の英雄たちが最後に投降したということは、おそらく事実でしょう。しかし、そうだからといって、先ほど池田先生が指摘されたように、彼らのすべてを否定することはできません。
 『水滸伝』の重点は、朝廷に反抗し、道理に背いている権威に対して闘争を起こしたことにあります。基本精神は反抗です。結末が投降だからといって、そこだけ取り上げて、「『水滸伝』は投降主義を宣揚している」と評価することは誤りです。
 『水滸伝』は、英雄たちの悲惨な末路を悪い見本として、読者に反省や戒めの材料を提示し、かつ教え導こうとしたのです。封建君主や賄路をむさぼる悪役人に投降して、良い結果が得られるはずがありません。いかなることがあろうとも、戦い抜かなければなりません。悪とは決して妥協してはならないのです。
 池田 そのとおりです。
 魯迅についても先生と論じましたが、彼は「悪との闘争」について厳しく語っています。「水に落ちた犬は叩け!」と。陸にいようと、水中に落ちていようと、人間にかみつくという習性が改まらぬ限り、犬は叩き続けなければならない。悪に対しては、その根を絶つまで戦いをやめてはならない。よしんば、悪の側がひるもうとも、戦いつづけなければならない。追撃の手をゆるめるな、と。
10  「成敗をもって英雄を論ずることなかれ」
 金庸 『水滸伝』は、宋江たちが投降したことを描いていますが、同時に投降のあとに英雄たちを待っていた運命が痛ましい惨死であったことも描かれています。ですから、実際には激しい「反投降主義」なのです。
 毛沢東は『紅楼夢』を賛嘆しました。主人公の賈宝玉は、周囲の事情でやむなく、薛宝釵と結婚して子供をもうけ、恋人の林黛玉は恨みをのんで死んでしまいます。
 しかし、これは「父母の命令」には一切従うという、古い礼教による婚姻を宣揚したものではありません。自由恋愛や個性の解放を賛美し、古い礼教の精神に反対しているのです。
 結果としては、父母の命令による婚姻が成立するわけですが、この小説全体を貫く精神は、反封建・反礼教にこそあることを知るべきです。
 池田 封建的な「家」のしがらみが生む悲劇ですね。その意味では、巴金氏の『家』などと同じテーマを扱っているといえます。
 金庸 『三国志』でも、同じようなことがいえます。曹操の息子の曹丕が帝位につき、司馬氏が呉と蜀を滅ぼす。一方で劉備、諸葛亮、関羽は戦乱のさなかに挫折し、無念のうちに死んでいきます。しかし、こうした史実を踏まえた展開を描いているからといって、『三国志』が狡猾な曹操や司馬懿を賛美し、人間性豊かな劉備や諸葛亮を否定していると断じることなどできないのは明らかです。
 中国人はよく「成敗をもって英雄を論ずることなかれ」ということわざを口にします。これは『三国志』『水滸伝』の二つの書にこそ、ぴったりとあてはまる言葉ではないでしょうか。
 池田 私もそう思います。「星落秋風五丈原」の一節に、こうあります。「成否を誰れかあげつらふ一死尽くしし身の誠」と。人間の偉大さは、ことの成否でのみ判断することはできないでしょう。また、時にはその「成否」を一○○○年、二○○○年といった長いスパンで見ていかなければならないときもあります。
 金庸 『説岳全伝』では、岳飛が忠勇であるがゆえに、かえって殺害され、秦桧が奸悪であるがゆえに、かえって財産と地位にめぐまれ、長寿をまっとうします。こうした叙述もまた、歴史の事実にそったものです。
 しかし、この書の主眼は、あくまでも忠勇を賞賛し、奸悪をおとしめることにあるのです。それは読んでみれば、すぐにわかることです。
 池田 南宋の時代の忠臣・岳飛が、秦桧の讒言によって罪におとされ、ついには殺害される物語ですね。たしかに岳飛は陥れられ、非業の最期を遂げた。秦桧は生きた。しかし、その後の歴史は、秦桧を厳しく裁きます。今なお中国で秦桧といえば、「売国奴」「裏切り者」の代名詞のように扱われていると聞きました。
 金庸 清の時代の金聖嘆は、『水滸伝』の後半にあたる四九回分を、すべて削り取ってしまいました。ちなみに金聖嘆は本名を金人瑞といいます。何ごとにおいても従来のしきたりを守らないことを理想とした彼は、聖人の代表格である孔子が、こうした自分の姿を見たなら、頭を横に振りながら嘆息したにちがいないと自賛し、「聖嘆」というペンネームをつけたのです。
 池田 反逆児の面目が、ほうふつとしていますね。
 金庸 ええ。彼が削ったところは、内容で申しますと宋江が朝廷に投降し、『水滸伝』の英雄たちが次々と惨死していく結末部分です。最初から七一回までは残したのですが、最後は英雄たちが皆、縛られて、裁きの場で斬罪に処せられるのを待っているというシーンを、盧俊義が夢に見るというところで終わっています。悪い運命が英雄たちを待ちかまえていることを示唆して、小説を終わらせているのです。
 この削除本は、読者にたいへん歓迎され、大いに流行しました。そのため、かえって本来の一二○回本を読む人は、ほとんどいませんでした。ここから『水滸伝』は、朝廷への投降を喧伝したものであると考えた人は、全中国の幾千幾万の読者のうち、毛沢東およびその追随者を除けば、ごく少数であったことがわかります。
 池田 金聖嘆の、いわゆる七○回本が、あまりにも広く流布したため、本来の一二○回本や一○○回本は忘れられてしまった。一二○回本や一○○回本が再び人の目に触れるようになったのは、今世紀に入って、それも日本から逆輸入されてからだともいわれています。
 金庸 梁山泊に英雄たちが打ちそろい、謀反を起こしたことに反対した人はいました。兪万春の小説『盪寇志』は、朝廷に忠実な勇将たちが梁山泊を攻撃し、"水滸"の英雄たちを惨殺したり、生け捕りにするという話です。しかし興味深いことには、朝廷の立場から書かれた作品であっても、梁山泊側が朝廷の招きを受け入れて投降したという結末を採用していないことです。反抗は徹底して続けられ、官軍による鎮圧で終わっています。
 中国には昔から「若くして水滸を読むなかれ。老いては三国を読むなかれ」という言葉があります。『水滸伝』は、勇猛果敢な激しい気性の英雄たちが、朝廷に反抗し、権威に反抗し、いったん抑圧にあえば、たちまち刀を抜いて立ち上がり、人を殺し、謀反を起こすことが書かれています。そのため、こうした内容が、青年たちに悪い影響を及ぼすと考えられたのです。
 池田 文化大革命当時の「紅衛兵」の暴走を思うと、うなずける面もあります。もし『水滸伝』の面々が文革当時に生まれていたなら、さしずめ黒旋風・李逵など、先頭に立って暴れていたのではないでしょうか。
 金庸先生の炯眼は文化大革命についても、いちはやく、その本質を「権力闘争」であると喝破されました。青年の、ある意味で純粋な情熱も、大人の狡猾な権力闘争に利用されてしまったわけです。大人の老獪さというものは、決して小説の世界にとどまるものではありませんね。
 金庸 『三国志』は、権謀術数の数々が描き込まれていることを特徴とする小説です。機略に富む、ひとかどの人物が次々と登場します。なかでも主役の諸葛亮、そして劉備、曹操は際立っています。
 人は老齢になると、目先のことにとらわれず、将来を見すえたうえで、周到に考えをめぐらして、物事に対処できるようになるものです。ところが、そこで『三国志』を読んだならば、こうしたせっかくの長所が行きすぎて、あれこれと悪だくみを企てて他人を陥れるようになるだろうと考えられたのです。
 ただし、こうした戒めは、中国社会で支配的な地位を占めた人々が、被支配者の反抗を防止するために言い出した言葉にすぎず、現実を反映した表現ではありません。
 『水滸伝』は、悪との闘争に敢然と赴くように鼓舞してくれます。『三国志』は、忠勇と奸悪、正しいことと間違っていること、その両者の区別を明らかにしてくれます。
11  宋江の言葉にみる中国独特の秩序感覚
 池田 『三国志』と『水滸伝』を貫いているものは、「王道感覚」であるというのが、私の率直な印象です。
 すなわち「覇道」でもなく、「奇道」でもない。人間の社会には、それが成り立っていくための、いわば黄金律のような秩序感覚がある。それは中国においては、主に儒教を中心として持ち伝えられてきたわけですが、この二つの書物の底流にも、その秩序感覚が一貫して流れているように思えます。
 少し身びいきになるかもしれませんが、吉川『新・水滸伝』では、諸豪がずらりと勢揃いした場で宋江が、朝廷の天子の招きあらば、一命に代えて奉公するという意味の詩を吟ずるくだりがあります。
 それを聞いて李逵などは、「くそおもしろくもない」と怒りだすのですが、それを宋江がなだめる場面が印象的です。
 「ともあれ宋朝の御代はこんにちまで連綿と数世紀この国の文明を開拓してきた。その力はじつに大きい、然るにもしその帝統がここで絶えるようなことにでもなったら、それこそ全土は支離滅裂な大乱となり、四民のくるしみは、とうてい、今のようなものではなかろう」(『新・水滸伝』講談社文庫)
 戦乱と国土の分裂、そこに必然的に起こるであろう民衆の苦しみをいとい、平和にして秩序ある、文明的な生活を求める。何ごとをなすにも、そう意識して行動しなければならない。世の悪と対決するといっても、無秩序でアナーキーな「乱臣賊子」とはなるまい――この宋江の言葉など、中国独特の秩序感覚というか、コスモス感覚を、巧まずして象徴しているように思えるのです。
 一般に、東洋思想がおしなべてアンチ・コスモスというか、カオス志向が強いのに対し、儒教を中心とする中国思想は、際立ってコスモス志向が強いことを特徴としています。私は、先にも触れましたように、そのプラス面、マイナス面を勘案しながら、端的にいえば、その美質を美質として継承していかなければならないと思っております。そこに中国文明が蓄えてきた人類的遺産があるといえるからです。
 金庸 なるほど。深く首肯できます。
 ともあれ、『三国志』といい、『水滸伝』といい、どちらも、たいへん大きな価値があります。読者に良い影響を与える好著です。特に若い皆さんには、ぜひとも読んでもらいたい作品ですね。
 池田 今の金庸先生の、青年への期待のお言葉をもって、私たちの文学対談の締めくくりとしましょう。
 金庸先生、一年間、本当にありがとうございました。先生との対談は、私にとっても大きな歴史として刻まれました。
 金庸 こちらこそ、ありがとうございました。まだまだ語り合いたいことが多くありますし、また池田先生と語り合えることを楽しみにしております。

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