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日蓮大聖人・池田大作

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二十一世紀を担う世界宗教の条件 ″人生の再生″と新しきルネサンス

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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9  拝金主義は現代文明の特徴的な欠陥
 池田 話を戻しましょう。キリスト教と共産主義ということで、もう少し申し上げれば、あなたは、″全知全能″であるはずの宗教が、なぜ宗教戦争という野蛮きわまりない行為を克服することができなかったのか、と設問されました。
 しかし、皮肉なことに、″全知全能″の宗教であるがゆえに宗教戦争が起こった、と私には思えてならないのです。
 ″全知全能″という点においては、キリスト教の「神」が演じた役割も、共産主義社会で「イデオロギー」が演じたそれも、瓜二つといってよいほど酷似していました。双方とも、めざしたものは″全知全能″による世界観の独裁であり、それは、政治や経済など形而下の次元にとどまらず、何にもまして思想、信条、良心など形而上の次元をも支配下に置こうとするものだった、といえましょう。
 世界観の独占と独裁を企て、人間の内面をも支配下に置こうとする者同士が共存しうるはずがなく、互いに排除しようと激しく対立し合うのは、当然の帰結であったのでしょう。レーニンの狭量が、激しい憎悪をもって目の敵にしつづけたのも、宗教もしくは宗教的イデオロギーでした。
 ゴルバチョフ よくわかります。そうした急進的な態度は、それがどのようなものであれ、同一の危険性をはらんでいるのです。
 池田 人類は、何度、悲劇を繰り返したことでしょう。そうした″神″や″イデオロギー″を特徴づけているのは、前に論じた「内在的規範」に対していえば、それがいちじるしく「外在的規範」であったということです。
 二十世紀における共産主義の失敗を、文明論的な流れに沿って考えるなら、私は、なによりも「外在的規範」の挫折ととらえたい。とはいえ、自由主義社会に、それに代わりうるものが用意されていたとは、とうてい言えません。
 イデオロギーのいかんを問わず、現代人の精神世界を支配しているのは、端的にいって、「拝金主義」の風潮だと思います。それは、かつての「神」や「イデオロギー」よりも、もっと原初的で、まがまがしい「外在的規範」といってよい。
 一九九四年、わが国の流行語大賞に、いじめられつづけた女の子の、「同情するならカネをくれ」という言葉が選ばれました(笑い)。これも、時代の一つの反映といえるでしょう。
 かつて、あなたとの会見の折にもふれましたが、ロシアの文豪チェーホフの名作『桜の園』には、傲慢な「魂なき富豪」と、富はなくとも「理想に生きる青年」が登場します。青年は叫びます。
 「人類は、この地上で達しうるかぎりの、最高の真実、最高の幸福をめざして進んでいる。僕はその最前線にいるんだ!」(神西清訳、『世界文学大系』46所収、筑摩書房)と。胸中にこうした高らかな理想をもった青年が、今のような社会で育まれるでしょうか。
 本年(一九九五年)三月、私は貴国の国際児童基金協会から「レフ・トルストイ国際金メダル」をいただきましたが、その授賞式で、リハーノフ総裁は、「拝金主義者が、不正な富の取り合いで殺し屋を使い、別の拝金主義者を殺害するという事件がほとんど毎日ともいえるくらい起こっている」と嘆いておられました。
 こうした「拝金主義」の風潮をどう思われますか。
 ゴルバチョフ 今、あなたが提起された問題は、最近、私もたいへん心配しています。
 現在、共産主義文明の危機、共産主義的メシアニズムの失敗について、盛んにいわれています。それはいずれも正しいでしょう。特別な共産主義文明、特別な共産主義的人間をつくろうとする試みは、結果を出せずに終わりました。
 しかし、だからといつて現代の西欧のブルジョワ文明が、未来に向かう精神の羅針盤を人間に与えうるわけではありません。現代の西欧文明は病んでいます。これについて、私はフランスやドイツ、アメリカで多くの優れた人々、知識人と対話をする機会がありました。
 あなたのおっしゃった拝金主義や商業主義、居候根性すなわち他力本願は、現代文明の最も特徴的な欠陥です。
 ヨーロッパに回帰し、現代文明の時流に乗ろうとする現代ロシアの試みは、今のところ、商業主義を横行させ、いちはやく金持ちになろうとする欲望を煽る結果しかもたらしていません。ですから、あなたと同じように私も、この拝金主義の風潮をたいへん懸念しています。
10  「人間のための宗教」への指標
 池田 ここで、私は、一人の仏法者について言及したいと思います。
 大乗仏典を代表する法華経のなかに、常不軽という菩薩の姿が描かれています。彼は、社会状況が混迷を極める時代を生きました。その宗教的実践は、非常に特徴的なもので、すべての人に頭を下げ、礼拝したのです。
 傲慢な人々は、その行動を罵り、なかには石を投げ、棒で叩く人々もいました。しかし、彼は礼拝をつづけたのです。なにゆえか――すべての人々には、仏性があるからです。
 普通、宗教といえば、聖性を人間の外に想定するのが常です。キリスト教の全知全能の神にしても、人間を超越したところに″おわします″のです。
 それに対して、通常考えられている仏教は、″自己″のなかに聖性をみるわけです。しかし、大乗仏教の究極ではもう一歩進んで、″自己″とともに、″他者″のなかにも聖性をみるのです。
 ここに宗教の新しい一つのあり方、つまり「宗教のための人間」ではなく、「人間のための宗教」をめざす宗教の一つの究極がある、と確信します。
 ゴルバチョフ あなたが「内在的普遍」を強調されるのも、そのためですね。
 池田 そのとおりです。釈尊は「人間のための宗教」を打ち立てたのです。
 あるとき、釈尊は、病人のために藁のベッドを調え、体を拭いてあげ、汚物で汚れた衣を洗濯し干してあげた。そして、周囲の人に、「この方の面倒をよくみてあげてください。なぜなら、悩める人に奉仕することは、仏に仕えることと同じなのですから」と語るのです。
 また、釈尊はある人から、皮肉をこめて、「あなたの弟子には、まだ究極の境地にいたっていない人がいるのでは?」と問われたとき、「私は道を教える者にしかすぎません」と言いきっています。
 本来、仏教が説く「仏」とは、″聖なる境地″に安住した聖者然とした存在ではありません。「つねに怠ることなく勤め励む者であった」と教典に記されているごとく、闘いつづける人こそ「仏」だったのです。
 「仏」とは闘いによって、磨きぬかれた人格の人なのです。釈尊は、まさしくその人生をかけて、「宗教のドグマ化」にまっこうから挑戦しました。
 ゆえに、仏教にあっては、「仏」は「覚者」とされます。すなわち、みずから真理を覚り、他人にも覚らせて、覚りのはたらきが満ちている者のことをいいます。
 平易な言葉で言うなら、最高の人格形成へのあくなき意志といってよい。トルストイの宗教観に、仏教的なものがあるといわれるのは、そのあたりと響き合っているのかもしれません。聖性を徹底して「内在的普遍」の発現ととらえる点において――。
 懸命に生きる人々に、ひたむきなその人生に、その真心に、最高の敬意を表することができるよう、私自身、つねにみずからに言い聞かせています。そこに、信仰の実践の眼目があるからです。
 ゴルバチョフ よくわかります。名誉欲に抗する処方箋は、高尚なる魂に求める以外にありません。その意味で、無私無欲は聖性といえます。それは仏教の説くところであり、またキリスト教の説くところです。
 わがロシア正教の受難者たちも、この無私無欲をもって人々に奉仕し、信仰のために、祖国のために、みずからをいとわないという点で卓越していたといえます。
 このような聖者の一人に、徹底して悩める民衆のなかへ飛び込み、悩みや苦しみを共有しながら、救済の手を差し伸べようとしたセルギー・ラドネシスキーがおります。
 このような人々は、みずからの精神性によって、一人一人の人間に希望と信仰を蘇らせるのみならず、一国、一民族の精神の復興を可能にしていくものだと思います。
 池田 すばらしい発言です。総裁の志向性は、宗教というより、精神的、道徳的進歩のための価値観にあると思います。宗教も、この点に貢献できるか否かで、淘汰されていくでしょう。
 多くの川がやがて大海をつくるように、一人一人の″人生の再生″と″人間の革命″があってこそ、新しきルネサンスの潮流は流れ始めると、私も信じています。

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