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日蓮大聖人・池田大作

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二十一世紀を担う世界宗教の条件 ″人生の再生″と新しきルネサンス

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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8  ロシアの歴史に学ぶ「理想主義の背理」
 ゴルバチョフ 理想のプロパガンダ(宣伝)は、たとえそれが、最も善良な意図によるものであったとしても、必然的に特殊な世界観を形成し、生きた現実から目を背けさせるものです。
 わが国のインテリゲンチア(知識人)、極左主義、すなわち革命極端主義は、未来を理想化しようとしました。ロシアが夢見た理想の社会を神格化しようとしたのです。ここにこそ、わが国の悲劇のすべての根源がありました。つまるところ、本当に人間の精神的成長を助け、人生をより意義深いものにする理念と、逆に暴力とば嚇を引き起こす夢想とを峻別していかなければなりません。
 池田 なるほど、理想主義には、そうしたマイナス面があることを見逃してはならないということですね。
 あなたが今あげられた革命極端主義は、おそらくキリスト教にもとづく一神教的な伝統がはらむ負の側面が、突出した形で表れてきたものだったといえるかもしれません。
 神と人間、神の世界と人間の世界が隔絶され、神や神の世界が理想主義的に尊崇されるあまり、かえって人間自身や社会に、多大な災いをもたらしてしまったという逆説的事情は、不幸なことに、歴史的にもしばしば見受けられるところです。
 ちなみに、一九九〇年、私は当時のソ連の非暴力研究所の求めに応じて寄稿した一文のなかで、理想を実現する手法において、徹底しているというか、極端に走りがちという点で、トルストイ主義とレーニン主義は、一見正反対であるにもかかわらず、奇妙なトーンの一致がみられることを指摘したことがあります。
 ゴルバチョフ そうですか。理想的未来を神格化するとき、必然的に現実への懐疑的な態度を生み、幾多の民衆が依って立つところのものを疑問視させてしまいます。われわれの経験が示すように、未来の神格化は、自国の国民が作り上げたものへの過小評価を生み、ついには、民族的ニヒリズムヘといたったのです。
 理想的未来の神格化は、正常な人間の欲求、わが国で軽蔑をこめて、「ありふれた日常生活」と名づけたものへの過小評価をもたらしてしまいました。
 池田 あなたが、以前に「エリート意識」「思い上がり」「排他的絶対性の主張」とおっしゃった点ですね。
 仏教とくに大乗仏教では、むしろ、現実の日常のなかに理想をとらえます。日蓮大聖人は、「智者とは世間の法より外に仏法をおこなわ」と記しています。この対談の文脈に寄せていえば、仏法の理想は、あくまで現実に即して、現実社会のなかで展開され、実現されねばならない、ということになるでしょう。
 そこから敷衍して、「たとえ仏教を知らなくても、民衆を助け、よい政治をする人がいたならば、仏教の智慧を含みもっていたのである」といつた、一般の宗教的常識からみれば、驚くべき大胆な発言があります。
 そこでは、仏教の世界と世俗社会とは、ほとんどオーバーラップしているといってよいのです。もとより、それは原理であって、現実の仏教がその原理どおりに展開されたかといえば、そうとはいえません。
 しかし、こうした原理的アプローチは、「神のもの(宗教的な価値・世界)」と「カエサルのもの(世俗的な価値・世界)」をたて分けるキリスト教伝統の原理的アプローチとは、明らかに異なりますね。
 ゴルバチョフ そう思います。前世紀、理想主義者たちが知識界を支配していた時代、生活のなかで繰り返される日常茶飯を憎まずして″真の革命家″にはなれない、と多くの人が深く信ずるようになりました。この点で、バクーニンと、ネチャーエフの『革命家の教理問答書』などは、典型的ともいえます。そのなかで、彼らが考える献身について述べています。
 「革命家は死すべく運命づけられた人間である。彼には自分自身の利害もなければ、感情も愛着も財産もなく、名前すらない。彼のうちなるすべては、たった一つの特別な利害、唯一の思想、唯一の情熱――すなわち革命によって占められている」「自らに対してきびしい革命家は、他に対してもきびしくあらねばならぬ。肉親の情、友情、恋愛、感謝そして名誉といった、あらゆるかよわく柔弱なる感情は、革命の事業の唯一の冷たい感情によって、自らのなかに抑圧せねばならぬ」(『革命家の教理問答書』外川継男訳、『パクーニン著作集』5所収、自水社)
 ここにすべての悲劇があります。私たちが社会主義的実験の悲劇をもって償ってきた教訓なのです。
 池田 かつてこの対談で、「自由の背理」について論じましたが、ロシアの近・現代史からわれわれが学ぶべき教訓は、「理想の背理」、あるいは「理想主
 義の背理」ということでしょう。
 日本でも、太平洋戦争後の一時期、″革命前夜″と呼ばれる騒然たる時がありました。そうした風潮下で、青年たちは、革命のためには、家庭的な幸福など、日常茶飯のことは犠牲にされるべきだと、熱心に論じ合っていました。
 しかし、ロシアにおいてデカプリストやナロードニキ(人民主義者)以来の理想主義というものが、その美しい外貌とは裏腹に、どんなに狂暴な力を振るってきたか――日本人の想像を超えるものがあるでしょうね。
 ゴルバチョフ そうです。確かに、理想なくして生きていくことはできません。しかし、理想は全体主義、生命に対する暴力の危険性をはらんでいます。
 このことは、旧ソ連における共産主義的実験が終わった今、ようやく明らかになったのです。あまりにも重い代償です。この教訓は生かされなくてはなりません。
9  拝金主義は現代文明の特徴的な欠陥
 池田 話を戻しましょう。キリスト教と共産主義ということで、もう少し申し上げれば、あなたは、″全知全能″であるはずの宗教が、なぜ宗教戦争という野蛮きわまりない行為を克服することができなかったのか、と設問されました。
 しかし、皮肉なことに、″全知全能″の宗教であるがゆえに宗教戦争が起こった、と私には思えてならないのです。
 ″全知全能″という点においては、キリスト教の「神」が演じた役割も、共産主義社会で「イデオロギー」が演じたそれも、瓜二つといってよいほど酷似していました。双方とも、めざしたものは″全知全能″による世界観の独裁であり、それは、政治や経済など形而下の次元にとどまらず、何にもまして思想、信条、良心など形而上の次元をも支配下に置こうとするものだった、といえましょう。
 世界観の独占と独裁を企て、人間の内面をも支配下に置こうとする者同士が共存しうるはずがなく、互いに排除しようと激しく対立し合うのは、当然の帰結であったのでしょう。レーニンの狭量が、激しい憎悪をもって目の敵にしつづけたのも、宗教もしくは宗教的イデオロギーでした。
 ゴルバチョフ よくわかります。そうした急進的な態度は、それがどのようなものであれ、同一の危険性をはらんでいるのです。
 池田 人類は、何度、悲劇を繰り返したことでしょう。そうした″神″や″イデオロギー″を特徴づけているのは、前に論じた「内在的規範」に対していえば、それがいちじるしく「外在的規範」であったということです。
 二十世紀における共産主義の失敗を、文明論的な流れに沿って考えるなら、私は、なによりも「外在的規範」の挫折ととらえたい。とはいえ、自由主義社会に、それに代わりうるものが用意されていたとは、とうてい言えません。
 イデオロギーのいかんを問わず、現代人の精神世界を支配しているのは、端的にいって、「拝金主義」の風潮だと思います。それは、かつての「神」や「イデオロギー」よりも、もっと原初的で、まがまがしい「外在的規範」といってよい。
 一九九四年、わが国の流行語大賞に、いじめられつづけた女の子の、「同情するならカネをくれ」という言葉が選ばれました(笑い)。これも、時代の一つの反映といえるでしょう。
 かつて、あなたとの会見の折にもふれましたが、ロシアの文豪チェーホフの名作『桜の園』には、傲慢な「魂なき富豪」と、富はなくとも「理想に生きる青年」が登場します。青年は叫びます。
 「人類は、この地上で達しうるかぎりの、最高の真実、最高の幸福をめざして進んでいる。僕はその最前線にいるんだ!」(神西清訳、『世界文学大系』46所収、筑摩書房)と。胸中にこうした高らかな理想をもった青年が、今のような社会で育まれるでしょうか。
 本年(一九九五年)三月、私は貴国の国際児童基金協会から「レフ・トルストイ国際金メダル」をいただきましたが、その授賞式で、リハーノフ総裁は、「拝金主義者が、不正な富の取り合いで殺し屋を使い、別の拝金主義者を殺害するという事件がほとんど毎日ともいえるくらい起こっている」と嘆いておられました。
 こうした「拝金主義」の風潮をどう思われますか。
 ゴルバチョフ 今、あなたが提起された問題は、最近、私もたいへん心配しています。
 現在、共産主義文明の危機、共産主義的メシアニズムの失敗について、盛んにいわれています。それはいずれも正しいでしょう。特別な共産主義文明、特別な共産主義的人間をつくろうとする試みは、結果を出せずに終わりました。
 しかし、だからといつて現代の西欧のブルジョワ文明が、未来に向かう精神の羅針盤を人間に与えうるわけではありません。現代の西欧文明は病んでいます。これについて、私はフランスやドイツ、アメリカで多くの優れた人々、知識人と対話をする機会がありました。
 あなたのおっしゃった拝金主義や商業主義、居候根性すなわち他力本願は、現代文明の最も特徴的な欠陥です。
 ヨーロッパに回帰し、現代文明の時流に乗ろうとする現代ロシアの試みは、今のところ、商業主義を横行させ、いちはやく金持ちになろうとする欲望を煽る結果しかもたらしていません。ですから、あなたと同じように私も、この拝金主義の風潮をたいへん懸念しています。
10  「人間のための宗教」への指標
 池田 ここで、私は、一人の仏法者について言及したいと思います。
 大乗仏典を代表する法華経のなかに、常不軽という菩薩の姿が描かれています。彼は、社会状況が混迷を極める時代を生きました。その宗教的実践は、非常に特徴的なもので、すべての人に頭を下げ、礼拝したのです。
 傲慢な人々は、その行動を罵り、なかには石を投げ、棒で叩く人々もいました。しかし、彼は礼拝をつづけたのです。なにゆえか――すべての人々には、仏性があるからです。
 普通、宗教といえば、聖性を人間の外に想定するのが常です。キリスト教の全知全能の神にしても、人間を超越したところに″おわします″のです。
 それに対して、通常考えられている仏教は、″自己″のなかに聖性をみるわけです。しかし、大乗仏教の究極ではもう一歩進んで、″自己″とともに、″他者″のなかにも聖性をみるのです。
 ここに宗教の新しい一つのあり方、つまり「宗教のための人間」ではなく、「人間のための宗教」をめざす宗教の一つの究極がある、と確信します。
 ゴルバチョフ あなたが「内在的普遍」を強調されるのも、そのためですね。
 池田 そのとおりです。釈尊は「人間のための宗教」を打ち立てたのです。
 あるとき、釈尊は、病人のために藁のベッドを調え、体を拭いてあげ、汚物で汚れた衣を洗濯し干してあげた。そして、周囲の人に、「この方の面倒をよくみてあげてください。なぜなら、悩める人に奉仕することは、仏に仕えることと同じなのですから」と語るのです。
 また、釈尊はある人から、皮肉をこめて、「あなたの弟子には、まだ究極の境地にいたっていない人がいるのでは?」と問われたとき、「私は道を教える者にしかすぎません」と言いきっています。
 本来、仏教が説く「仏」とは、″聖なる境地″に安住した聖者然とした存在ではありません。「つねに怠ることなく勤め励む者であった」と教典に記されているごとく、闘いつづける人こそ「仏」だったのです。
 「仏」とは闘いによって、磨きぬかれた人格の人なのです。釈尊は、まさしくその人生をかけて、「宗教のドグマ化」にまっこうから挑戦しました。
 ゆえに、仏教にあっては、「仏」は「覚者」とされます。すなわち、みずから真理を覚り、他人にも覚らせて、覚りのはたらきが満ちている者のことをいいます。
 平易な言葉で言うなら、最高の人格形成へのあくなき意志といってよい。トルストイの宗教観に、仏教的なものがあるといわれるのは、そのあたりと響き合っているのかもしれません。聖性を徹底して「内在的普遍」の発現ととらえる点において――。
 懸命に生きる人々に、ひたむきなその人生に、その真心に、最高の敬意を表することができるよう、私自身、つねにみずからに言い聞かせています。そこに、信仰の実践の眼目があるからです。
 ゴルバチョフ よくわかります。名誉欲に抗する処方箋は、高尚なる魂に求める以外にありません。その意味で、無私無欲は聖性といえます。それは仏教の説くところであり、またキリスト教の説くところです。
 わがロシア正教の受難者たちも、この無私無欲をもって人々に奉仕し、信仰のために、祖国のために、みずからをいとわないという点で卓越していたといえます。
 このような聖者の一人に、徹底して悩める民衆のなかへ飛び込み、悩みや苦しみを共有しながら、救済の手を差し伸べようとしたセルギー・ラドネシスキーがおります。
 このような人々は、みずからの精神性によって、一人一人の人間に希望と信仰を蘇らせるのみならず、一国、一民族の精神の復興を可能にしていくものだと思います。
 池田 すばらしい発言です。総裁の志向性は、宗教というより、精神的、道徳的進歩のための価値観にあると思います。宗教も、この点に貢献できるか否かで、淘汰されていくでしょう。
 多くの川がやがて大海をつくるように、一人一人の″人生の再生″と″人間の革命″があってこそ、新しきルネサンスの潮流は流れ始めると、私も信じています。

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