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日蓮大聖人・池田大作

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二十一世紀を担う世界宗教の条件 ″人生の再生″と新しきルネサンス

「二十世紀の精神の教訓」ミハイル・S・ゴルバチョフ(池田大作全集第105巻)

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10  「人間のための宗教」への指標
 池田 ここで、私は、一人の仏法者について言及したいと思います。
 大乗仏典を代表する法華経のなかに、常不軽という菩薩の姿が描かれています。彼は、社会状況が混迷を極める時代を生きました。その宗教的実践は、非常に特徴的なもので、すべての人に頭を下げ、礼拝したのです。
 傲慢な人々は、その行動を罵り、なかには石を投げ、棒で叩く人々もいました。しかし、彼は礼拝をつづけたのです。なにゆえか――すべての人々には、仏性があるからです。
 普通、宗教といえば、聖性を人間の外に想定するのが常です。キリスト教の全知全能の神にしても、人間を超越したところに″おわします″のです。
 それに対して、通常考えられている仏教は、″自己″のなかに聖性をみるわけです。しかし、大乗仏教の究極ではもう一歩進んで、″自己″とともに、″他者″のなかにも聖性をみるのです。
 ここに宗教の新しい一つのあり方、つまり「宗教のための人間」ではなく、「人間のための宗教」をめざす宗教の一つの究極がある、と確信します。
 ゴルバチョフ あなたが「内在的普遍」を強調されるのも、そのためですね。
 池田 そのとおりです。釈尊は「人間のための宗教」を打ち立てたのです。
 あるとき、釈尊は、病人のために藁のベッドを調え、体を拭いてあげ、汚物で汚れた衣を洗濯し干してあげた。そして、周囲の人に、「この方の面倒をよくみてあげてください。なぜなら、悩める人に奉仕することは、仏に仕えることと同じなのですから」と語るのです。
 また、釈尊はある人から、皮肉をこめて、「あなたの弟子には、まだ究極の境地にいたっていない人がいるのでは?」と問われたとき、「私は道を教える者にしかすぎません」と言いきっています。
 本来、仏教が説く「仏」とは、″聖なる境地″に安住した聖者然とした存在ではありません。「つねに怠ることなく勤め励む者であった」と教典に記されているごとく、闘いつづける人こそ「仏」だったのです。
 「仏」とは闘いによって、磨きぬかれた人格の人なのです。釈尊は、まさしくその人生をかけて、「宗教のドグマ化」にまっこうから挑戦しました。
 ゆえに、仏教にあっては、「仏」は「覚者」とされます。すなわち、みずから真理を覚り、他人にも覚らせて、覚りのはたらきが満ちている者のことをいいます。
 平易な言葉で言うなら、最高の人格形成へのあくなき意志といってよい。トルストイの宗教観に、仏教的なものがあるといわれるのは、そのあたりと響き合っているのかもしれません。聖性を徹底して「内在的普遍」の発現ととらえる点において――。
 懸命に生きる人々に、ひたむきなその人生に、その真心に、最高の敬意を表することができるよう、私自身、つねにみずからに言い聞かせています。そこに、信仰の実践の眼目があるからです。
 ゴルバチョフ よくわかります。名誉欲に抗する処方箋は、高尚なる魂に求める以外にありません。その意味で、無私無欲は聖性といえます。それは仏教の説くところであり、またキリスト教の説くところです。
 わがロシア正教の受難者たちも、この無私無欲をもって人々に奉仕し、信仰のために、祖国のために、みずからをいとわないという点で卓越していたといえます。
 このような聖者の一人に、徹底して悩める民衆のなかへ飛び込み、悩みや苦しみを共有しながら、救済の手を差し伸べようとしたセルギー・ラドネシスキーがおります。
 このような人々は、みずからの精神性によって、一人一人の人間に希望と信仰を蘇らせるのみならず、一国、一民族の精神の復興を可能にしていくものだと思います。
 池田 すばらしい発言です。総裁の志向性は、宗教というより、精神的、道徳的進歩のための価値観にあると思います。宗教も、この点に貢献できるか否かで、淘汰されていくでしょう。
 多くの川がやがて大海をつくるように、一人一人の″人生の再生″と″人間の革命″があってこそ、新しきルネサンスの潮流は流れ始めると、私も信じています。

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