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日蓮大聖人・池田大作

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第2回本部幹部会 信心の「心」は富士のごとく

1988.3.4 スピーチ(1988.1〜)(池田大作全集第70巻)

前後
1  ″歴史の地″富士宮
 全国各地から代表が集い合っての本部幹部会である。遠いところ、寒いところ、本当にご苦労さま、と申し上げたい。
 きょう、この広宣会館にお集まりの皆さまは、各地、各方面のリーダーの方々であり、どちらかといえば″話をする″ほうの人である。あまり″話を聞く″方々ではない。
 しかし、ある意味で、人の話に耳を傾ける姿勢に、その人の「人格」が表れるといってよい。私も多くの人の姿を見てきたが、話を熱心に聞こうとする人、ふとした一言を胸中に刻み、大切にしている人は、心温かな深き境涯の人である。反対に、人の話を受け入れる余裕のない狭量きょうりょうの人は、往々にして人間性も浅はかであり、やはり成長が止まっている人である。真心の言葉も、いかに大事な話も、すべて硬い心のカラで、はね返してしまうからだ。
 各地の会員の依怙依託えこえたくである皆さま方は、どうか、心広々とした″聞き上手″の指導者であっていただきたい。
2  先日、こんな話を聞いた。入信を控えたある婦人が、総本山が静岡県の富士宮市にあると聞いて、先輩の婦人部に「富士宮とは、どんな所ですか」とたずねた。その婦人部は、「富士山が見える」とか、「白糸の滝がある」とか、答えたらしい。だが、それでは実感がわかないし、「何とかもっと教えてほしい」と懇願した。聞かれた方は、一瞬、困ったが、さすがに賢明な婦人部である。″富士宮は重要な地域だから、池田先生に手紙を出せば、きっと話してくれるわ″と考えついた。このご婦人は、まことに知恵のある立派な方と称賛したい。
 ゆえに、きょうは富士宮を中心とした話を少々させていただきたい。私が入信した当時の、今から三十〜四十年前に、富士宮の方々からうかがった話なので、間違い、記憶ちがいもあるかもしれないが、ご了承願いたい。
 「富士宮」の名は、全国浅間(せんげん)神社の総本社である富士山本宮浅間神社の所在地であることに由来する。「富士の宮(神社)」の意である。もともとは「大宮おおみや」と呼ばれていた。
 御書にも「当時はくわんのう勧農と申し大宮づくりと申しかたがた民のいとまなし、御心ざし・ふかければ法もあらわれ候にや」と仰せである。
 ――今は農繁の時であり、また大宮づくりもあって、民の忙しい時である。御志が深いので前代未聞の法もあらわれているのであろう――と。
 駿河に住んでいた西山入道に与えられた「宝軽法重事」の一節だが、この「大宮づくり」とは、富士宮の浅間神社の社殿造りのことである。この御文で大聖人は、農繁期と大宮造営とが重なった繁忙はんぼうの間も、求道の心を忘れなかった西山入道の「志」をたたえられている。そこで、深き信心に立つ西山殿には、末法の偉大な法がくっきりとあらわれていることだろうと、御抄を結ばれているのである。
3  昭和十七年六月一日に市制がしかれた富士宮は、現在、人口約十二万人。広大な富士の裾野(すその)に抱かれた自然豊かな景勝地である。実は、源頼朝や、織田信長、徳川家康らともゆかり深い″歴史の地″でもある。
 天正十年(一五八二年)、甲州・武田氏を平定した凱旋がいせんの将・信長は、帰路を駿河にとった。富士の裾野に出た信長は、白糸の滝を見た後、大宮(現・富士宮)に入った。そこに陣中見舞に訪れたのが、家康である。のちに天下人となる両雄が、ここに相まみえた――。まさに、歴史のロマンの天地である。
 「白糸の滝」は、その名にふさわしく、いかにも叙情的じょじょうてきで、女性的な美観を見せてくれる。源頼朝は、この名瀑めいばくに感嘆し、「の上に いかなる姫が おわすらむ をだまき流す 白糸の滝」とうたったという。
 私の恩師・戸田先生も、昭和二十七年、大石寺で「白糸の 滝にも似たる 君なれば やさしく強く 清らかにぞある」とんでいる。
 美しき「白糸」のながめは、いつの世も、見る者の詩心を豊かに潤してくれるのだろうか。
4  ところで、以前にも触れたことがあるが、戦国時代、武田信玄は駿河攻略の折、大石寺に多大な損害を及ぼした。その子・勝頼の代になって、武田氏は、あっけなく滅亡するが、それも、厳しき仏法の因果のあかしにほかならないであろう。
 この大宮の町は、武田氏支配のもとで、栄え、繁栄していた。が、その後、家康が富士川を利用しての交通を開いたことから、陸路は急速に衰退すいたいし、大宮もさびれた。はからずも、武田氏と運命をともにしたことになる。
 その後、さまざまな変遷へんせんはあったものの、今日、富士宮は、かつてない繁栄の時代を迎えようとしている。むろん、それは広宣流布の輝かしい前進と日蓮正宗創価学会の発展に符節を合わせたものである。大法の興隆と国土の繁栄――「依正不二」の法理を、あらためて胸に刻む思いである。
 上野郷を流れる精進川しょうじんかわは、富士のわき水を水源とするだけに、水は極めて清澄であり、水量も豊富である。この川の岩石に生ずる水苔みずごけを採って海苔のりにしたものが″川のり″で、今も、この地方の名産になっている。
 南条時光は、しばしば、この″川のり″を、大聖人に御供養していたことが、御書に見られる。また後年、日興上人は、香り高いせりを好まれ、弟子達にも、よく摘(つ)ませたと伝えられている。その日興上人が開山された総本山大石寺も、ほどなく、開創七百年の佳節を迎える。
5  富士宮の地は、古来「駿河国するがのくに」と呼ばれた地域の、ほぼ中央部に位置する。
 日本地名大辞典(角川書店)によれば、「駿河」の名の由来は、大化改新の後、旧「珠流河するが国」を継承し、好字二字で「駿河」としたという説、また、富士山・愛鷹あしたか山麓さんろくに自生するヤマトリカブトのアイヌ語「スルグラ」に起源をもつ等の説がある。さらに、富士川の流れが速く、″するどい″川であったことに由来するとの説もある。
 富士川といえば、日本三大急流の一つであり、そうした考えも、納得できる。
6  正法の深き縁とどめる駿河の地
 正嘉二年(一二五八年)二月より、大聖人は、岩本・実相寺(現・富士市)で、一切経の閲覧えつらんを開始された。
 「中興入道消息」には、そのことについて次のように仰せである。
 「去ぬる正嘉年中の大地震・文永元年の大長星の時・内外の智人・其の故をうらなひ占考しかども・なにのゆへ・いかなる事の出来すべしと申す事をしらざりしに、日蓮・一切経蔵に入りて勘へたる
 ――去る正嘉年間の大地震や文永元年の大長星の時、内道外道それぞれの智人達が、こうした変事の起こる理由を占ったが、なぜ、こうしたことが起きるのか、これから先、どのようになっていくのか、分からなかった。その時、日蓮は、一切経蔵に入り、仏の所説のうえから変事の原因と未来を考察した――と。
 つまり、大聖人は、正嘉の大地震をはじめ、打ち続く災禍を前に、その根本原因を明らかにし、抜本的な対治の法を、一切経のなかに探っていかれたのである。
 その折、近郊の四十九院で修学中の伯耆公ほうきこう(日興上人の幼名)が、大聖人の尊容に接し、弟子入りされている。駿河は、師弟が劇的な出会いを果たした、まことに仏縁深き地となっている。
 相次ぐ天変地夭ちように嘆き、苦しむ民衆の姿に、大聖人は、御本仏の大慈大悲の御境界から、一切衆生の救済に当たられる。そして、そのさい、まず一切経を閲覧され、正しき経典にのっとり、災厄さいやくの根本原因を極められた。
 次元は異なるが、何事であれ、物事を正しく把握し、究明しようとする深き探究心が大切である。特にリーダーには、不可欠の要件といってよい。
 私達の周りには、″わかかっているようでわかかっていない″ことが、意外と多いものだ。富士宮のことも、その一例とはいえまいか。なじみの深い土地でありながら、実はあまり知らない。私達には、こうしたことが少なくない。
 なかでも、最も恐ろしいのは、信心が″わかっているようでわかっていない″ことである。
 たとえ一時は、御本尊の功徳に歓喜し、確信をつかんだように思えても、時とともに惰性に流され、純粋な信心を失っていく。また、幹部として活躍しているようにみえても、いつの間にか「慢心」と「邪心」を起こし、清らかな信心の世界である学会を見下し、いばりちらすようになる。こうした姿こそ、まさに信心が″わかっているようで″、全然″わかっていない″者なのである。
 賢明な皆さま方は、こうした徒輩の本質を鋭く見破っていかなくてはならない。とともに、まず自らが正しき信心を貫いていくために、どこまでも「求道」と「探究」の大道を歩み抜いていただきたい。
7  さて、大聖人は文永二年(一二六五年)、南条時光の父・兵衛七郎がなくなったとき、はるばる上野郷(現・富士宮市)の南条邸を弔問されている。
 「春の祝(いわい)御書」では「さては故なんでうどの南条殿(中略)よわひ寿盛んなりしに・はかなかりし事わかかなしかりしかば・わざとかまくら鎌倉より・うちくだかり御はかをば見候いぬ」――故南条兵衛七郎殿は、まだよわいが盛んであるのに亡くなってしまったことから、その別れを悲しく思ったので、わざわざ鎌倉からうち下って、御墓をみさせていただいたのである――と後年、述懐されている。私は、この御抄を拝するたびに、大聖人の大慈大悲に心を熱くする。
 ところで大聖人が南条邸を訪問されたとき、時光はわずか七歳であったという。その幼い心に、一信徒の死に対しても、御自ら墓参にこられた大聖人の大慈悲の御姿は深く刻み込まれたにちがいない。その折の大聖人との出会いが、時光の将来を決定づけ、富士方面の弘教、熱原法難での同志の外護、さらには日興上人の大石寺開創に尽力するなど大信徒として活躍する淵源えんげんとなったと私はみたい。
 私どもは幼稚園児や小学校低学年の″幼年部″ともいうべき子供達に、一人の人間として、大人として接していかねばならない。その姿の中から、子供達は、人間の心、広布と信心の精神を鋭く、くみとっていくのである。
 私は幼い子供達に会ったとき「二十一世紀をよろしくお願いします」と、深く頭をさげて語りかけている。その姿を見て周りの人達は、ふざけやユーモアと思って、笑っている。しかし、私の心は、いつも真剣である。純真な子供達の心には、そうした思いは必ず刻み込まれていくにちがいないからだ。
8  地域で信頼、尊敬される人に
 また、駿河するがは、「富士山」を抜きにして語ることはできない。
 富士山について「万葉集」には、「不尽山ふじのやま」「布士能高嶺ふじのたかね」「不尽嶺ふじのね」「布士能嶺ふじのね」「不尽能高嶺ふじのたかね」などとある。「常陸国ひたちのくに風土記」には「駿河の国福慈ふじやま」と記されている。
 さらに「不二山」ともいって、「二つとない山」「唯一の山」という意味も込められている。
 また「地名語源辞典」(山中襄太著)には富士山は「噴火」とか「火」を意味するアイヌ語に由来するともいわれ、マレー語の「素晴らしい」「すてき」を意味する言葉を語源とするとの説もある(安田徳太郎氏)。一般には「山容の秀麗」にかかわった名前とする説がとられている。
 東京の各地にも「富士見」という名前が残っているように、昔は、各地から「富士山」を眺望ちょうぼうすることができた。特に東海道を、尾張、三河(ともに今の愛知県)、遠江とおとうみ(今の静岡県の西部)と長い道のりを歩み、駿河湾に入ってくると、広く明るい景観が眼前にひろがる。そして、駿河湾上に白く雪をいだいた富士を仰ぐとき、人々はその秀麗で気高い雄姿に「あー、富士山だ」としばし見とれたにちがいない。
 その意味で、富士山をながめた人々が一様に″ああ、いいな富士は″との思いをいだくように、皆さま方は地域の人々から″ああ、あの人は素晴らしいな″と感嘆される存在であってほしい。日本一の山である富士のごとく、何かで他の人よりも抜きんでた、人間的にも信頼され、尊敬されるお一人お一人であっていただきたい。
9  壮麗なる富士の美しさを、万葉の歌人・山部赤人やまべのあかひとは次のように詠った。
 「田子たごの浦ゆ うち出でて見れば ま白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける」
 これはあまりにも有名な歌であるが、この歌の「田子の浦」の位置についてはいろいろ議論がある。それは、今日「田子の浦」と呼ばれる地域は、吉原の海浜かいひんあたりであるが、当時はもっと西の、由比・蒲原かんばらあたりの弓状の海浜をさしたという。いずれにしても、富士宮からさほど遠くない海浜ぞいからながめる富士山は、絶景であったと思われる。
10  富士山は「大日蓮華山」ともいわれ、大聖人と縁深き山である。
 また、大聖人は身延に入られるさいは、富士の南側となる駿河路を歩まれている。そして身延から池上への道は、北の甲斐路かいじをとられ、あたかも富士山を一周されるような形となっている。
 さらに、立教の地・清澄山(千葉・房州)からも富士山が遠望されており、折にふれ大聖人は富士をごらんになっておられたにちがいない。
 そして「霊山浄土に似たらん最勝の地を尋ねて戒壇を建立す可き者か」と仰せになり、日一期弘法付嘱書で「富士山に本門寺の戒壇を建立せらるべきなり」と御遺命されたように、富士山はつねに大聖人の胸中に深く刻まれていたものと拝する。
 また戸田先生は、″富士″について、幾首かの歌を詠(よ)まれている。昭和二十八年七月、総本山大石寺で、詠まれた次の歌もそうである。
 「いつみても 富士の高嶺は よきものぞ 君の心も かくてあれかし」
 いつ見ても素晴らしい富士の高嶺、君の心もつねに富士のごとくあってほしい、との戸田先生の慈愛が、しみじみと感じられる歌である。
11  仏法の道理は現実のなかに脈動
 さて御書に「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」――仏法というのは道理である。道理というものは主君のもつ権力にも必ず勝つのである――と仰せであるが、「道理」について、少々ふれておきたい。
 「道理」の「道」については、中国最古の字書の『爾雅じが』に「一達、これを道とふ」とある。「一達」とは「一通」という意味で、「道」とは「一本道(一直に通っている)」の意となる。そして、「とおりみち」「わけ、ことわり」「もと、根元」「はたらき、妙用」など多くの意味がある。
 また「理」とは字義は「玉の筋模様」という意といわれる。「おさめる」「ただす、ととのえる」「通ずる、達する」「すじ」などの意がある。
 こうしたことから一般的に「道理」とは(1)事物のことわり。物事のりくつ。すじみち。わけ(2)人の必ず行うべき正しい道。道義――ととらえられている。
 そして「道理に向かうやいばなし(正しい道理には刃向かうことはできない)」とのことわざや、荀子じゅんしの著した「修身へん」に「道義重ければすなわち王公を軽んず(自分の身の行いが道義にかなっているという自信があれば、たとえ王公貴人にも屈することはない)」とあるように「道理」にかなったことがいかに大きな力をもつかが分かる。
12  仏法上では「道理」は次のようにとらえられている。
 まず宗教批判の原理の一つである「三証(文証、理証、現証)」のうちの理証のこと。
 また、この宇宙にさまざまな法がある。それらの諸法が成立し存在していくうえでよりどころとなることわりのことをいう。
 解深密経や瑜伽論ゆがろんなどでは、この道理を四種に分別している。
 (1)観待かんたい道理(相待道理)……諸法は「長」とか「短」とかいうように、互いに相対する関係で存在しているという道理。
 (2)作用さゆう道理(因果道理)……因縁によって生じた一切の事物には、それを成就させる作用がそなわっているということ。
 (3)証成しょうじょう道理……現量(現実に量り知ること)や比量(すでに知られている事柄を基にして、未知の事柄を推理、判断すること)、聖教量(聖者の教えによって量り知ること)によって証明され成立した道理のこと。
 (4)法爾ほうに道理……宇宙の森羅万象(すべてのもの)に本来存在する自然の道理。
 こうした意味から″仏法は道理なり″とは、仏法は生命の実相を解明した法理であり、それを基盤として実践的な指導原理を指し示すものといえよう。したがって、仏法は生活の根本法であり、人間活動のすべての領域にわたっての指導原理なのである。
 つまり、仏法を根本とするとき、生活も、人生も、また社会にあっても、一切の苦難の道を開き、所願満足の人生となっていくことができる。
 ゆえに、主君の勘気かんき(とがめ)を受けて苦境に陥った四条金吾に対して、「仏法と申すは道理なり道理と申すは主に勝つ物なり」と仰せになって、仏法の勝利、金吾の勝利を強く訴えられているわけである。
13  法華経法師功徳品には「諸の所説の法、其の義趣に随って、皆実相と相違背せじ。し俗間の経書、治世の語言ごごん資生ししょうの業等を説かんも、皆正法に順ぜん」(もろもろの説かれた法は、その意義や内容に随って、すべて実相と違背しない。もし世間の経書や、世を治めるための言葉、経済的な営みなどを説いても、みな正しい法にしたがうだろう)とある。
 大聖人は、この法華経の文とともに、天台がこれを受けて述べた「一切世間の治生産業は皆実相と相違背せず」(世間の日常生活のすべてのことはみな実相と違背しない)との文を、諸御抄で引かれている。
 さらに「十法界の依報・正報は法身の仏・一体三身の徳なりと知つて一切の法は皆是れ仏法なりと通達し解了する是を名字即と為す」――十法界の依報正報のすべてのものの本体は、法身の仏の体にそなわった三身の徳であると知って、一切の法は皆これ仏法であると通達し、解了する位を名字即とするのである――と。
 また「仏法やうやく顛倒しければ世間も又濁乱せり、仏法は体のごとし世間はかげのごとし体曲れば影ななめなり」――仏法がこのように次第次第に顛倒(てんどう)したので、世間もまた濁り乱れてしまった。仏法は本体であり、世間法はその影のようなものである。体が曲がれば影はななめになってしまう――と仰せられている。
 世間のさまざまな「法」、つまり政治、経済、教育、文化等のあらゆる学問や実践法を学び、大切にしていくのが仏法の在り方である。ただ仏法のみを研さんすればいいというのは偏頗へんぱないき方である。
 この大聖人の仰せ通りに、仏法を根本としながら、世間の諸法を大事にしてきたところに学会の強さ、今日の大発展の原動力がある。
 仏法は現実の社会に生き生きと脈動していく大法である。どうか皆さま方は″仏法は道理なり″を胸中に、社会のあらゆる事柄に通達していく努力をしながら、社会をリードしていける妙法の指導者となっていただきたい。
14  ″慢の心″を「心の師」とするなかれ
 次に申し上げたいことは、有名な「心の師とはなるとも心を師とせざれ」との経文についてである。何度も学んだ文であるし、大体わかっていると思う方も多いかもしれない。しかし、くわしく聞いてみると、あいまいな場合が多々ある。先ほども少し触れたが、大切なことは、このような、わかったつもりでいて、その実あいまいなことを一つ一つ明確にし、また掘り下げていくことである。
 この経文は、六波羅蜜(はらみつ)経の巻第七に次のようにある。
 「常に心の師とは為(な)るとも心を師とせざれば卒暴(そつぼう)有ること無し調伏(ちょうぶく)したる象の如(ごと)し」(大正八巻)と。つまり――いかなる時にも、自らの心の師となって、悪心を師としないので、(心に振り回されて)にわかに軽はずみな行動をしたりすることがない。あたかも狂暴な象を訓練して、おとなしく従えさせているように、自分の心をコントロールしている――というのである。
 六波羅蜜経では、菩薩が修行すべき六つの行(波羅蜜)を説いているが、この文は、そのうち精進しょうじん波羅蜜を説いて、菩薩が怠ることなく仏道修行に精進していくべきことを強調したなかに出てくる。
 すなわち十四夜の月が、なお完全なる満月へと向かっていくように、菩薩も途中で退したり、慢じることなく、十五夜の月のごとく円満にして完全なる仏の境界を目指して努力していかねばならない。その時には、十種の素晴らしい功徳を自然に得ることができる。そのひとつが、この「常に心の師とは為るとも」うんぬんの徳用なのである。
 いってみれば、修行の完成に向かって、どこまでも、どこまでも自己に挑戦していく――その真面目まじめで謙虚な精進行のなかに、自然のうちに、自分自身をコントロールできる徳が備わってくると説いたのが、この経文である。仏道修行は「法」が中心である。「自分」が中心ではない。「法」が師である。わがままな自分の「心」を師としてはならない。
15  この信心の肝要を見失わせる最も恐ろしい障害の一つが「慢心」である。
 慢心の人は、心が定まらない。落ち着きなく、常に縁に紛動ふんどうされては、あちらこちらと心が揺れ動いている。ゆえに、すぐに、いばる心、疑いの心、見えの心、逃避の心等々が出てきて、ぐるぐると振りまわされている。まさに″心を師″とした状態である。振り回されたあげく、最後は退転のコースに入ってしまうことが余りにも多い。
 慢心の人の根底には、自己の才知や学歴、社会的地位、また自分流の考え方等への自負と執着が多々ある。信心と全く関係のない、そうした小事にとらわれて、根本の信心を失うことは愚かである。また誤りである。
 経文にあったように、人間の「心」とは、ある意味で、″狂暴な象″のようなものである。その荒れ狂う動物的な自己中心の心を、どう律し、どう正しき「法」にのっとってコントロールし、開花させていくか。ここに「信心」の必要なゆえんがある。また正しき方向を指し示す信心の「指導」と、信心の「組織」の重要性がある。
 これまでの退転者・反逆者は、みな自らの悪心を″師″とし、正しき信心の指導にも耳を傾けられなくなってしまった。信心とは、この「悪心との戦い」である。なかでも、自らの「慢心との戦い」である。とくに幹部の皆さまは、この一点を改めて、よくよく銘記していただきたい。
 日達上人も、この「心の師とはなるとも心を師とせざれ」の経文を、繰り返し講義され、強調しておられた。
16  家庭は夫人の信心が大切
 さて大聖人は多くの御書の中で、この経文を引き、指導しておられる。信心の要(かなめ)中の要に通ずる経文であったからであると拝する。
 その一つに「兄弟抄」がある。ご承知のように、池上宗仲むねなか宗長むねながの兄弟に与えられた書であり、父の猛反対に屈することなく信心を貫いていくよう激励されている。
 その長文の御指導を結ぶに当たり、大聖人は最後に、兄弟のそれぞれの夫人に対して指導されている。これは、一家において夫人の信心が、きわめて大切であるゆえと拝されよう。
 「人の御前達は此の人人の檀那ぞかし女人となる事は物に随つて物を随える身なり夫たのしくば妻もさかふべし夫盗人ならば妻も盗人なるべし、是れひとえに今生計りの事にはあらず世世・生生に影と身と華と果と根と葉との如くにておはするぞかし、木にすむ虫は木をむ・水にある魚は水をくらふ・芝かるれば蘭く松さかうれば柏よろこぶ、草木すら是くの如し、比翼と申す鳥は身は一つにて頭二つあり二つの口より入る物・一身を養ふ、ひほく比目と申す魚は一目づつある故に一生が間はなるる事なし、夫と妻とは是くの如し此の法門のゆへには設ひ夫に害せらるるとも悔ゆる事なかれ、一同して夫の心をいさめば竜女が跡をつぎ末代悪世の女人の成仏の手本と成り給うべし」と。
 すなわち――二人の夫人達は、この宗仲・宗長にとっては大事な支えである。(中略)この法華経の法門のためには、たとえ夫に殺されるようなことがあっても後悔してはならない。夫人たちが力を合わせて夫の信心をいさめるならば、竜女のあとを継いで末法悪世の女人成仏の手本となられるでしょう――との厳しき仰せである。
 たとえ殺されるほどの迫害が夫からあったとしても、信心を貫いていきなさい。決して夫を″師″としてはならない。自身の悪心に従ってもならない。むしろ夫を正しい信心の軌道に乗せてあげ、導いてあげなさい、との御指導である。
 次いで「此くの如くおはさば設ひいかなる事ありとも日蓮が二聖・二天・十羅刹・釈迦・多宝に申して順次生じゅんじしょうに仏になし・たてまつるべし」――このように信心を貫くならば、たとえどのような事があっても、日蓮が二聖・二天・十羅刹女・釈迦・多宝に言って、あなた方お二人とも未来、順次に生まれるたびに、必ず成仏させてあげましょう――と。
 信心強盛に、本当に大聖人の仏法を実践しきるならば、そのことでどんな迫害にあおうとも、安心しなさい。永遠に成仏の境界を得ることは間違いない。必ず大聖人が守りぬいてあげようとの御約束である。これを確信しきるところに信心の「心」がある。
17  そして大聖人は「心の師とは・なるとも心を師とせざれとは六波羅蜜経の文なり」と続けておられる。
 この経文を、二人ともよく覚えておきなさいよ――との大慈大悲の御指導と拝する。
 夫人の信心が大事である。夫を″矢″、妻を″弓″とすると、矢の方ばかり見ていても、どちらに飛ぶかは、弓の方向しだいで大きく左右されるものである。
 これまでの退転者等もみな夫人の信心に多くの問題があった。また、かつて、あまり信心強盛な女子部は避けて、信心はともかく、みめかたちの良い人と結婚したいという風潮も一部にあった。
 しかし、二十年、三十年という長い目で見た場合には、夫人の信心が弱い家庭は、どうしても盤石になっていない。反対に、信心の薫陶を受けた、しっかりした夫人の場合には、年とともに一家全体が福徳に包まれている。ご主人も安心である。
 もちろん夫人をどう成長させるかは夫によるという側面も重要である。その上で、大聖人が同抄の最後に、夫人二人に対して、懇切(こんせつ)に、また厳愛の指導をなされている意味を、よくよく拝さねばならないと私は思う。
 ともあれ、私どもは正しき御本尊をたもった。自行化他の正しき実践も学んだ。そしてさらに、大切なものは何か。それは、信心の「心」である。その心を律するための要(かなめ)ともなる指針が、この「心の師とは・なるとも心を師とせざれ」の経文である。
 多くの人々をリードしていく幹部の皆さまは、まず自らの心を正しくリードしていかなければならない。そうした意味をこめ、少々述べさせていただいた。
18  人間勝利へ不断の精進を
 いよいよ春三月を迎えた。これからの季節は草木もグングン伸びゆく、生命の躍動する時期である。
 なかには病身で春を迎える方もおられると思うが、必ず乗り越えていくとの確信に立って、どうか焦らずに回復に努めていただきたい。私もその方々の一日も早い回復を御本尊に祈念申し上げている。
 さて、皆さまもよくご存じの「むしろ三枚御書」は戸田先生も大変好きな御書であった。そして「御書全集」の巻頭に大聖人の御真筆が掲載されている。
 その「莚三枚御書」に「そもそも三月一日より四日にいたるまでの御あそびに心なぐさみて・やせやまい痩病もなをり・虎るばかりをぼへ候」――さて、三月一日から四日まであなたと楽しく過ごしたことで私の心も慰められ、せる病もよくなり、虎を捕るばかりに元気になった。――との一節がある。
 この御書の御執筆の年代も、与えられた人も明らかではない。
 しかし堀日亨上人は、弘安五年(一二八二年)の春三月にしたためられ、南条時光に与えられたものと、ほぼ断定されている。この年、時光は二十四歳。まさに現在の青年部にあたる若き信徒への御手紙といえよう。そして、この年の十月十三日に、大聖人は御入滅されている。
 この御手紙をいただく前に若き時光は、熱原法難(一二七九年)以来の辛労も重なったのであろう、命にかかわる重病に陥った。大聖人御自身も、身延に入山(一二七四年)されてからは食糧も乏しく、過酷な環境の中で、お体もすぐれず、病気がちであられた。
 しかし、大聖人は御自身の病気を顧(かえり)みられることなく、この前途ある青年・時光の蘇生を祈られている。さらに、大聖人の御心を体して日興上人も時光を見舞い、激励にあたられた。自らはどうなってもよい。後世を託す一青年を救わんとされた大聖人の御心――やがて時光は一命をとりとめ、見事に回復する。大聖人のお喜びはいかばかりであったか。
 この御文は、生命力の蘇(よみがえ)った時光の姿を御覧になった大聖人の喜びあふれる御言葉とも拝される。
 いずれにせよ、大聖人は、春三月はじめの一人の門下との出会いによって御自身が「心なぐさみて」「やせやまいもなをり」とまで仰せくださっている。
 さらに「虎とるばかりをぼへ候」――妙法の功徳ですっかり元気になったあなたの姿を見て私もまた、虎を捕るばかりに元気になりましたよ――との仰せに、大聖人の限りない御慈愛と、仏法のうるわしい師弟の姿が感じられてならないのである。
19  次元は異なるが、戸田先生はかつて次のように言われたことがある。
 「私は若いときには、いろいろなものを楽しみました。芝居も浪花節も、あるいは料理屋の遊びも、楽しいと思ったこともありますが、いまでは、そんなものは、ちっとも楽しいとは思いません。(中略)私のうれしいことは、皆さんのなかで、本当の功徳をうけた人の話を聞いたときが、いちばんうれしいのです」と。
 私も、会員の皆さま方の幸せの姿を見るとき、また青年達の成長と活躍の姿を見るとき、これに勝る喜びはない。
 ″会員の功徳の実証″を自らの最大の喜びとされた戸田先生の精神。これこそ大聖人の仏法の精神に通じるものであると思う。そして学会は、この戸田先生の会員をどこまでも慈(いつく)しむ心に象徴されるように、美しくも麗しい「心」の世界の縮図なのである。
 現代社会の生命のオアシスともいうべき、美しき心の世界である学会を、どこまでも大切にし、さらに拡大しゆく皆さま方であっていただきたい。
 三月は卒業をはじめ転勤や転居など何かと身辺の移動が多い季節でもある。すべてが新しい前進の始まりとなるこの春花の三月、若々しい気持ちで晴れやかな出発をされんことを念願し、私のスピーチとしたい。

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