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日蓮大聖人・池田大作

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「観心本尊抄」講義  

講義「諸法実相抄」「生死一大事血脈抄」(池田大作全集第24巻)

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47  宇宙に遍満する仏界の生命が我が身に
 「一身一念法界に遍し」の原理は、現代の自然科学の着目した一個の生命の広がりを、直観的に更に宇宙大に拡大してとらえたものであります。仏法のこの発想は鋭く、限りなく人間の可能性を謳い上げたものであります。自然科学が到達した人間の潜在力の解明は、今や地球的規模をも超えるに至っているといえる。
 しかし、仏法の説いているのは、更に広く、法界遍満であります。これほど広く強大なものはない。それを我が一身に涌現した存在を「自受用身」と言うのであります。
 我々が成就するところの自受用身とは「自ら受け用いる身」であります。これを「御義口伝」においては「ほしいままに受け用いる身」と読まれている。仏身とは、自らを自由自在に回転させ、大宇宙をも揺り動かす生命のことであります。
 「我即宇宙」は、決して抽象の世界のことではなく、億劫の辛労を尽くす仏界の振る舞いにあっては、現実の荘厳な事実であると拝すべきであります。
 しかも、この原理によれば、我々の生命の中にも、仏身と同じ力が潜在していることは明瞭であります。あと必要なのは、大聖人と同じ生命を、いかにすれば我が生命の奥底から掘り起こすことができるかであります。
 そのために、大聖人は「観心の本尊」を御図顕してくださったのであります。所詮、「受持即観心」の義が成り立つのは、これを受持すれば観心になる、すなわち仏の悟達になっているという本尊、「観心の御本尊」を顕されたればこそであります。この「観心の御本尊」即三大秘法の大御本尊御図顕に、日蓮大聖人の生涯にわたる御苦闘があられたのであります。
 ゆえに、末法一切衆生のために、信仰の根本対象として大御本尊を建立された弘安二年十月、大聖人は、余は二十七年にして出世の本懐を遂げたと叫ばれたのであります。
 その間の大難は筆舌に尽くせぬものであり、しかも、対告衆たる純信の末法民衆の代表というべき、熱原の農民信徒の死身弘法の実証を機縁にされて、初めて御図顕されたのであります。まさに、弘安二年の大御本尊こそ、仏法の深遠の極理と御本仏の広大無辺の慈悲とが凝集された尊極の当体であり、末法万年の闇を照らす光源であります。
 以来、連綿幾星霜――。「日蓮が慈悲曠大ならば南無妙法蓮華経は万年の外・未来までもなが流布るべし」の御金言のままに、本門戒壇の大御本尊の御成光は、我が国をはじめ全世界の人々の生命を照らしつつあります。
 どうか皆さん方におかれては、各自の一生成仏のため、全人類の幸福と平和のために、信心を奮い起こし、勇気を持って行学の二道を進んでいっていただきたいことをお願いして、講義を終わらせていただきます。

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