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日蓮大聖人・池田大作

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精神の「よすが」への遡行  

「大いなる魂の詩」チンギス・アイトマートフ(池田大作全集第15巻)

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1  池田 あなたと私とは、ともに一九二八年生まれです。生まれ育った環境、社会の状況が異なるのはもちろんのことですが、あなたも「苦難の世代」と言われているように、互いに若くして第二次世界大戦を経験しており、価値観が大きく揺れ動く時代を生きてきたという点では共通しています。
 いうまでもなく、人間は、ソクラテスが強調しているように、たんに「生きる」ことではなく、「善く生きる」こと――すなわち、生きることの意味をつねに求めつづけています。価値観の混乱期であればあるほど、その希求は強く、とくに若い世代にあっては、渇きにも似た状況を呈するものです。我々の若いころが、まさにそうでした。そのころを顧みながら、私は学生や青年たちに、「何のため」という問いかけを決して忘れてはならないと、訴えつづけています。
 さて、いわば「同時代人」としてお聞きしたいのですが、みずからが何をなすべきであり、社会にいかに主体的にかかわっていくべきかを模索する時期にあって、あなたの精神の「よすが」となったものは、何だったのでしょうか。私にあっては、それは「人生の師匠」である戸田城聖創価学会第二代会長との出会いであり、仏法であったわけですが。
2  アイトマートフ そのように若いころ、社会へ主体的にどのようにかかわっていくかというようなことを、私は考えたことがないように思います。
 人間にとってあまりに厳しい無慈悲な時代がわが国を支配していました。私たちが生まれて育ち、絶対服従していた全体主義体制は、社会的問題を個人の立場から、少なくとも公然と判断することを許しませんでした。
 それのみか、人間は国家および権力の強制に完全に従属するという前提が、疑いをはさむ余地のない公理として存在し、大衆はそれを正常な秩序として、さらには革命の成果として受け入れていました。
 この公理は、かけがえのない人間はいないと宣言していました。そこに意味づけも弁解もできない私たちの宿命的な悲劇がありました。
 個人は私心なく奉仕すべき存在であり、イデオロギー的、政治的目的を達成するための手段にすぎませんでした。その他のものはすべて、精神的、道徳的伝統も、モラルも、血縁関係すらも、もしもそれらがいわゆる階級的利害の原則に一致しないならば、過去の遺物として、あるいはブルジョア個人主義の許されざる気まぐれとして、否定されました。
 実例はいくらでも挙げることができます。たとえば、昔からのしきたりによる葬式は政治的な未熟さとみなされ、そのために人々は迫害されました。そのような状況の中で、支配政党は無期限の独占的権力をもち、みずからを時代の知性であり、良心であり、栄誉であるとみなし、加えて、懲罰部隊でもありました。
 尊敬する池田先生、そのような状況の中では、あなたのおっしゃるような「師匠」は存在しえませんでした。
 私たちはそのように歴史に類をみない、力によって押しつけられた、不自然な「新世界」の原則に縛られて生きてきました。私がこのようなことを言うのは、どうして私が、あなたにとっての戸田城聖先生のような、私の精神的支柱となった師の名前を挙げることができないかを説明するためです。
3  しかし、それにもかかわらず、私の若い時代に、社会と、社会の精神的雰囲気を改革する上で決定的な役割を果たした数人の名を挙げたいと思います。
 それはニキータ・フルシチョフと、『ノーヴィ・ミール(新世界)』誌の編集長で、当時の困難な状況の中での発表を通じて私の本格的な文学の道を切り開いてくれたアレクサンドル・トワルドフスキーです。中央アジアの文化人の中では、私はカザフ文学の古典的作家ムフタル・アウエーゾフを感謝の念をもって思い出します。彼は私の文学の形成に直接にかかわりをもっていた人でした。
 もちろん、当時にあっても、みずからの生き方全体で誠実さ、気高さ、勇敢さなどの美徳を体現した立派な人はいました。それらの人々がそのような美徳を保持しながら、全体主義的な単一思想が支配し、忠君愛国的な騒ぎが荒れ狂う非人間的な環境の中で、どのようにして生き残ることができたかを考えると、ただただ驚きの一言に尽きます。というのも、彼らは雑草として引き抜かれ、一掃され、根絶されねばならないという狂った残忍な論理がまかりとおっていたからです。
 家庭内での密告をも含めて、あらゆる密告行為がしきりに奨励されていた時代のことですが、ある息子が自分の父親を政治的に疑わしい人間として公的機関に密告しました。その息子は英雄になり、真似るべき手本となり、その名前は、通りや、青年たちの作業部隊や、学校などにつけられました。しかし父親は銃殺されました。こういう事情があるからこそ、ソビエト文学の中の私たちの世代は、この悲劇に心の痛みを感ずるのです。
 ベロルシアの作家ワシーリ・ブイコフは、このテーマで、優れた中編小説『狩り出し』を書き、世界の読者に問いかけをしました。かつて、今から三十年以上も前に、私も最初の中編『面と向かって』でこの悲劇について語ろうとしました。
 これらの作品をとおして私もブイコフも、私たちが得た教訓を語ろうとしました。密告とそれに関連する出来事がいかに恐ろしい犠牲を生み、どれほどの高い代価を払わねばならなかったかという事実を語りたかったのです。
4  池田 たいへん痛ましい話ですが、よくわかるつもりです。ペレストロイカの時代を迎えて陽の目を見たソ連の小説は、日本でも数多く翻訳されておりますが、そのうちの一つに、ルイバコフの『アルバート街の子供たち』があります。その中で、正義感の強い硬骨漢の青年サーシャが、無実の罪――ご多聞にもれず、あなたのおっしゃる“密告”によってもたらされた――で流謫の身になった時、自問自答する印象的なくだりがあります。
 「そもそも道徳とはなんなのだろうか? レーニンは、プロレタリアートの利益にかなうものが、道徳的なのだと述べている。
 しかし、プロレタリアも人間であり、プロレタリアのモラルも人間のモラルであることには変わりない。雪のなかの子供を見捨てることは、非人間的な行為であり、つまり非倫理的な行為ということになる。他人の生命を犠牲にして、自分の生命を救うことも、非倫理的なことなのだ」(長島七穂訳、みすず書房)
 サーシャの言っていることは、じつに平々凡々とした人間にとって当然の“道”であるにもかかわらず、なおかつ、その平凡な道理を自問自答せざるをえなかったところに、全体主義的イデオロギーの猛威を、まざまざと見ることができます。
 結局、大切なことは、良識であり、人間としてごく常識的な道理の感覚でしょう。哲学は“常識の深化である”としたのはベルクソンですが、いかなる哲学であれ思想であれ、この良識を狂わせたり、くつがえしたりするようなことがあってはならない。むしろ、社会と民衆の共有する精神的価値である良識を磨ぎすますことこそ、哲学者や思想家の使命でなければならないと思います。
 わが国でも、ソ連ほどではありませんが、とくに言論界や教育界を中心に、偏ったイデオロギーの旋風が巻き起こった時期がありました。しかし、そうした中にあっても、良識は決して死なず、心ある人々は、目立たない所で、孜々として人間の“良識の畑”を耕しつづけてきました。人間が人間であるかぎり、狂信的イデオロギーなど、早晩、馬脚を現してくるものです。
 アレクサンドル・トワルドフスキー
 一九一〇年―七一年。旧ソ連の詩人、社会活動家。
 ムフタル・アウエーゾフ
 一八九七年―一九六一年。
 ベロルシア
 白ロシア。現ベラルーシ共和国。
 ワシーリ・ブイコフ
 一九二四年―。
 ルイバコフ
 一九一一年―。
 レーニン
 一八七〇年―一九二四年。ロシア革命の指導者としてソ連邦を創設。
 ベルクソン
 一八五九年―一九四一年。フランスの哲学者。具体的生は概念によってではなく直観によって把握できるとした。
5  アイトマートフ そのとおりです。私にとっての大きな幸運は、子どものころに、全体主義の思想を心の中では受け入れていなかった人々に会ったことです。その人々は私に勇気を授け、どんなことがあろうともつねに人間でありつづけるように教え、人間としての高貴さ、人間的尊厳を何にもまして大事にするように教えてくれました。
 そのような人々の中に、村の小学校の先生がいました。彼が「君は自分の父親の名前を言うとき、決して眼をふせてはいけないよ」と私に毅然とするよう励ましてくれたことは絶対に忘れられません。というのは、私の父親のトレクル・アイトマートフは一九三七年に弾圧され、処刑されて、私たちの家族は辺ぴな村落に身を隠すことを余儀なくされていたからです。
 振り返ってみますと、あのような時代背景のもとで、思ったことを口にして恐れず、私に対しては処刑されたわが父を堂々と誇りにせよと教えさとしてくれた、そんな人間がいたこと自体、信じがたいことのように思えてきます。今の私には彼の言葉がよくわかりますが、当時は言葉の温もりを感じただけで、深い意味は理解できていませんでした。
 これは私にとって忘れ得ぬ体験であり教訓となりました。実際私は多くの人々から生き方を教えられたのです。それはかならずしも言葉で語られたことばかりとはかぎりません。むしろ庶民の知恵、懸命に働き生きる人の英知は、その人の生きざまをとおして表現されています。でも、本人は自分がだれかに何かを教え示しているなどとは想像すらしていないものです。
 そう考えてきますと、私にも「人生の師匠たち」がいたと言えるのですね。わが故郷で出会った高潔な精神をもった人々、わが師匠たちに深く頭をたれたいのです。彼らこそが、今もなお私の精神の「よすが」を成していると言えます。
 人間はまさに原点に立ち返る遡行が大切なのですね。もしかすると、立ち返るというよりも、いかなるときも原点を忘れない、見失わないと言うほうがより正確かもしれません。
 つまり、不遇の時に思い出すだけではなく、むしろ幸福の時、そしていやな言い方かもしれませんが、栄誉に陶酔している時、そのような時でも、自分がだれで、どこから来たのかを忘れないこと、打算も理由もなしに無条件に自分を愛し、育ててくれた人々への感謝を忘れないことだと思います。
6  もう一つ、言いたいことがあります。私たちの世代は、何とか真の文化と精神性をみずからの生き方にしたいと願いました。ところが私たちの血液にはイデオロギーという恐ろしい毒がまわっているため、それを願い実行しようとすることは筆舌に尽くせぬ葛藤と痛みをともなうのです。これは多くの人がみずからの体験をとおして知っていることです。
 それゆえに、このイデオロギーの呪縛を解いて人間らしく生きるためには、ぜひ、人生の師と呼べるような存在が必要不可欠なのでしょう。私自身、人々をこの呪縛から解くことに全生涯をかけてきたつもりです。余命知るよしもありませんが、残された私の人生も、当然そのために捧げられるものと思っています。
 考えてみれば、私は本当に幸せです。これまでも、そして現在も、私は、私に強く生きよと励ましてくれる人々に巡り会ってきたからです。それだけに、私の同年代の多くの人々が今なおスターリン主義のイデオロギー的影響から抜け出ることができなくて、すでに時代遅れとなった古いドグマにかたくなにしがみついているのは、悲しいことです。
 私が人との出会いにおいて幸福者であった分、こんどは私も、現代の若者がこの複雑で矛盾に満ちた世界の中で正しい道を見いだせるように、力の限り援助したいと思っています。私の記憶に間違いがなければ、愚か者は自分の過ちに学ぶが、賢人は他人の過ちに学ぶ、と言ったのはビスマルクだったと思います。
7  池田 あなたの作風を彷彿させる、すがすがしい話です。私が十九歳の時、戸田城聖先生に初めてお会いした時、質問したのは「正しい人生とは」「本当の愛国者とは」「天皇をどう考えるか」の三点でした。
 青春の一時期を軍国主義、ファシズムに踏みにじられた迷える一青年が、行きつくべくして行きついた疑問ですが、考えてみると、最初の「正しい人生とは」にしても、たとえばプラトンの大著『国家』八巻の副題が「正義について」とされているように、有史以来の難問なわけです。
 私は、そのことを直観的にでしたが気づいていました。それだけに「それは、難問だな」の一声に始まる恩師のよどみなき答えには、まったく目の覚めるような思いであり、昨日のことのように思い出されます。
 具体的な内容については割愛しますが、つねに笑みを浮かべながら、時折、ユーモアに富んだウイットをはさみ、その弁は、一点のよどみもありませんでした。
 かといって、難解な哲学用語や論理を駆使するわけでもなく、平易な、だれにでもわかる日常用語の中に深遠な哲理を包み込み、その上、断固たる確信の響きをたたえていました。
 私は、その包み込むような説得力に、内心深くうなずきながら、“この人ならついていける”と直覚しました。また、その直覚の正しさは、その後、恩師とともに歩んだ人生が、十二分に証明してくれました。
 私は、恩師をとおして社会を知り、民衆を知り、人間を知った――つまり、恩師という鑑を得ることにより、真実の人生を知ったのです。その意味から、恩師は私のすべてであった、と言いきれることは、私にとって最大の喜びであり、誇りなのです。
 ビスマルク
 一八一五年―九八年。ドイツの政治家。ドイツを統一し鉄血宰相と言われた。
 ファシズム
 第一次大戦後に出現した全体主義的で、対外的に侵略政策をとる、一党独裁、国粋主義の運動、政治体制。イタリアのファシスト党から始まった。
 プラトン
 前四二七年―前三四七年。ギリシャの哲学者。ソクラテスに師事。イデアが真の存在であるとした。

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