Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

第六章 恒久平和の提言  

「生命の世紀への探求」ライナス・ポーリング(池田大作全集第14巻)

前後
1  軍縮の時代
 池田 一九八七年十二月、ホヮイトハウスでレーガン大統領とゴルバチョフ書記長がINF(中距離核戦力)全廃条約に調印しました。その直後、私はソ連のアダミシン外務次官の来訪を受け、INF全廃条約等をめぐる米ソ首脳会談について、説明を聞きました。
 そのさいにも申し上げたのですが、INF全廃は、核兵器を初めて実質的に削減するという、軍縮史上、画期的な意義をはらんだものです。実際には、INFの数は全体の核兵器の量からすればわずかだとはいえ、一つの核兵器体系を全廃することに核超大国同士が合意した意義を、私は高く評価したわけです。
 先に、ケネディ大統領の言葉を引いておきましたが、核軍縮がどんなにむずかしいものにみえても、核兵器が人間のつくったものである以上、人間の手で廃棄できないわけがないというのが、私のかねてからの主張です。はからずもINF全廃は、事実としてこれを証明するものでした。それを、私は強調したかったのです。
 ポーリング 米ソ超大国間でINF全廃条約が調印されたことは、核兵器の管理と核戦争廃絶の目標に向かって、小さいが、有効な一歩を踏みだしたものと思います。この条約に関して、二つの核超大国に対して私が第一に言いたいことは、この条約によって米ソ両国の軍事予算がいちじるしく削減されたということではない、ということです。平和な世界ヘの真の前進は、現在の途方もない軍事予算が半減され、それがさらに半減され、ついに合理的に納得がいくところまで削減されたときに、初めて可能になります。
 池田 INF全廃が決定した背景の一つには、米ソ両国の経済的な要請があったといわれます。とくにソ連はペレストロイカを進めるうえで、経済的効果が、当面なかなか期待できないため、軍事費を削減してそれを民需にまわすことが不可欠になったという事情があるようです。
 しかし、私がもっと大事だと思うのは、先に「軍事費は最大の浪費」と申し上げたように、もはや軍備に野放図に金をそそぐことは割にあわないとの認識が、広がりつつある事実です。イラン・イラク戦争をはじめ地域紛争が和平に向かったのも、戦争がまったくの浪費であり、国民生活を圧迫し、破局に追い込むだけだという認識がようやく浸透したからではないでしょうか。
 その意味では軍縮は時代の大きな流れだといえます。
 ポーリング 軍事支出を減らすための条約を結ぶことが、アメリカとソ連の関係を良好にする最良の方法だと思います。経済面での交流は、かなり順調に進展しているようです。現在、両国間にはかなりの通商がおこなわれているのではないでしょうか。
 私が米ソ両国に望みたいのは、世界の発展途上国における戦争を支持しないという協定を結ぶことです。そうした協定が結ばれるまでには、かなりの時間がかかるかもしれません。アメリカを牛耳っているのは資本主義者であり、資本主義者は社会主義が世界中に広まるのを極度に憂慮しているからです。
 池田 アメリカにブッシュ政権が誕生し、一九九〇年にワシントンで米ソ首脳会談がおこなわれました。この会談で、戦略核兵器の大幅削減のメドが立ちました。米ソ間に最終合意が成立したのは、大きな成果といえましょう。
 ただし、戦略核が半減しても、核の脅威は依然として残りますし、次のステップを早急に進める必要があります。
 ポーリング 米ソ両国がとるべき次の措置は、現在の核兵器の量を半分に削減し、核兵器の開発、研究を中止し、核兵器の実験をすべて禁止する協定を結ぶことです。
 核拡散防止の協定もふくめて、同様の協定が他のすべての国とも結ばれなければなりません。
2  平和のために走る
 池田 これまでの米ソ首脳会談で、戦略核兵器の削減についてなかなか最終合意を得られなかった最大の理由は、SDI(戦略防衛構想)にアメリカが固執したためといわれます。
 これは、私がヘンリー・キッシンジャー博士との対談のさい強調した点ですが、核の脅威という軍事・安全保障上の不安を、SDIという新しいハイテク技術による兵器体系の開発で解決しようとする、いわば″ハードな発想″そのものに誤りがあり、限界があるということです。
 新しい兵器体系の開発にしのぎを削るのではなく、米ソが話しあいによって信頼を回復し、共存共栄の外交努力をする、それを国際世論がバックアップするという″ソフトな側面″での働きが重要だと思えてなりません。
 ポーリング 宇宙を軍事目的に利用すれば、偶発的核戦争の危険は増大します。SDIは、私の見解では、確固たる科学的原理にもとづくものではありません。それは、世界平和に対する重大な脅威であり、本来ならば人類の福祉のために使うべき多額の金の浪費をともないます。
 私が、富を浪費すべきではないと主張する理由の一つは、人類の大部分が貧しい暮らしをしており、あまり幸福であるとはいえないからです。多くの人々が飢餓や栄養失調に苦しんでおり、住居や衣服もみすばらしく、楽しい思いをする機会もありません。そうした状況があるのに、私たちが世界の富を現在のように膨大な軍事支出に浪費するのは、道義にもとることです。
 池田 おっしゃるとおりです。重大なポイントです。その意味でも、科学者の意見はたいへんに重要です。
 そこで創価学会インタナショナル(SGI)は、これまで世界各国と、民衆次元での、教育、文化の交流を進めてきました。
 また私も、私の立場なりに四十三カ国を訪問し、さまざまな分野の方々と意見の交換もしてまいりました。
 それは良質の文化、教育交流こそ、現代にあって最良の安全保障になると考えているからです。たしかに平和のために政治家同士が話しあうことは重要です。しかし、民衆同士の相互理解と心の絆を欠いた平和の取り決めがいかに脆いものであったかも、私どもは経験しています。
 ポーリング 私も妻も、数多くの講演をしました。講演をおこなったところは、米国内のすべての州、そして海外四十力国におよんでいます。これらの講演は、世界各国の平和運動に影響をおよぼす意義があったと思います。私が科学者だということが、私ども夫婦の平和運動において重要な役割を果たしたといっていいでしょう。
 というのは、私が核物理学や化学のみならず、生物学や医学に関してまで、十分な知識を入手しうる立場にいたからです。ですから、正直なところテラー博士やその他の人々に「ポーリングは問題を理解していない。彼の言うことには事実の裏づけがない」などと言えるはずはありません。世間は、科学者の考え方を尊重します。したがって、科学者が「自分の意見はこうなんだ」と強く主張すれば、多くの人々が、その科学者の言うことに注意をはらうようになるのです。
 池田 最近はとくにどんな点を、ポイントとして強調されていますか。
 ポーリング そうですね――世界平和に関する講演をざっと五百回はしています。あるいはもっと多いかもしれません。
 いちばん最近のはユーゴスラビアでのものです。まず「ビタミンと健康」という講演をし、次に世界平和について短い話をしました。また、「世界平和その他の諸問題に関する科学者の宣言」の作成にも参加しました。
 最近の講演では「なんらかの偶発事故でも起こらないかぎり、アメリカとソ連が交戦することはありえない」ということを指摘し、強調しています。両国の首脳が理性をたもち、さまざまなシステムが正常に働いているかぎり、戦争が起こることはないでしょう。
 それなのに、なぜ多くの金を軍備に費やさなければならないのか。両国が国際協定に合意するか否かは、軍事面に使われる金の額が減るかどうかで決まるでしょう。ですから私たちの努力は、軍事予算を削減させることに向けられなければなりません。そうした経済的な側面からの矛盾を、最近の講演では強調しております。
3  国連への期待
 池田 軍事費の増大は、浪費以外のなにものでもないという世論づくりが大切でしょうね。
 とともに、世界の平和確保の中心的機構としての国連の役割が、ますます重要なものになってきていると思います。東西の冷戦構造が崩壊し、国際的な多極化の流れのなかで、新しい政治的、経済的秩序をつくりあげるために、さまざまな課題はあるにせよ、国連を中心にしていくことが最も現実に即しているというのが、私の主張です。
 とくに最近、「平和」「軍縮」という課題とともに、「環境」や「人権」、「開発」や「教育」というテーマが大きな焦点になっております。こうした問題意識に立って、創価学会インタナショナルは、国連本部で「核兵器――現代世界の脅威」展につづいて「戦争と平和」展を開催しました。今後も国連の世界軍縮キャンペーン、世界人権キャンペーンに対しては、さらに強く支援をしていきたいと考えております。
 ポーリング 池田会長に同感です。私たちはュネスコや、国連平和維持軍を支援する必要があります。一九八八年度のノーベル平和賞が、国連平和維持軍に授与されたのはすばらしいことです。私はノーベル平和賞が機関に授与されることに、原則的には反対です。個人に授与するほうがよいと思います。しかし、今回の場合は良い例だと思います。
 国連の価値は、国際問題を広く討議する場を与えるところにあります。その機能をぞんぶんに発揮するよう、努力すべきです。その意味からも、五大国に拒否権が与えられ、大国の都合で討議が進まなくなることは残念なことです。同様なことが国際司法裁判所にもいえます。たとえばニカラグア問題で、裁判所の審議に参加を拒否する国が出てくることによって、平和への重要な機能が発揮できなくなるからです。
 私は、国連を支持します。国連は世界平和を達成し維持しようとする人類の戦いのなかで、重要な国際的活動を担っています。
 池田 博士はかつて、国連のなかに「世界平和研究機構」というような、大規模な研究機関を設置することを提案されていますね(前掲『ノー・モア・ウォー』参照)。この構想が示されて以来、三十年が経過しました。
 現在、こうした構想は、どのように生かしていくのがよいと考えられますか。
 ポーリング 私が大規模な世界平和研究センターの設立を提案したのは、一九五八年のことですが、そのときからこれまでに、平和への大いなる前進がなされました。この間、私が期待したような大規模な国際平和研究機関は設置されませんでしたが、現在では多くの国々ならびに民間の世界平和研究所があり、重要な貢献をしております。
 池田 世界の安全に対し、国連ははば広い問題解決の対応を迫られています。ソ連のチェルノブイリ原発事故以来、核エネルギーの管理について種々論議されておりますが、私はこれまで、核兵器の全面的廃棄と通常兵器削減に向かう前段階として、国連がイニシアチブ(主導権)をとり、まず、当面、核エネルギーの安全な管理が可能となる道を模索すべきいう提案をしてきました。
 第一段階として、核エネルギーを国連の監視下におき、その安全な管理にゆだねるということです。
 ポーリング 私は、原子力発電所には反対です。理由はいくつかあります。その一つは、これはあまり強調されていませんが、原発においてはウラン元素が破壊されるということです。
 現代の人間にいくらかの余分なエネルギーを提供するために、一つの元素を破壊するのは間違っていると思います。千年後あるいは一万年後の世界で、今はうかがい知ることもできない何かの目的のために、このウランという元素が必要になるかもしれないからです。
 原発に反対する理由はほかにもあります。たとえば、チェルノブイリ原発事故に類するものが他にも発生する危険性がありますし、核廃棄物をどのように処理するかという問題もあります。
 池田会長が提案されるように、核エネルギーを国際的に管理するのはいいことだと思います。核兵器および原発という二つの分野で、そうした管理が必要です。
 池田 問題は、原発に代わるエネルギー源をどこに求めるか、そしてそれが、長期的にみて十分納得できる手段であるというものでなければならないということです。これは、各国がおかれている条件の違いもあって、むずかしい側面があります。しかし、二十一世紀へ向けて、現在のエネルギー多消費型の文明のあり方の是非もふくめて、挑戦すべき課題だと思います。
 ポーリング 核エネルギーに代わりうるものとしては、たとえば太陽エネルギーがあります。この太陽エネルギーの研究に、もっとお金をかけるべきでしょう。
 太陽エネルギーは、エネルギー源としては最も望ましいものです。それをいくら使っても、地球表面の温度は変わらないからです。地球を暖める太陽光線を電気に変換して使うわけですが、やがてこの電気エネルギーは散逸して、熱エネルギーになります。このように、地表の温度には影響がありませんから、太陽エネルギーはエネルギー源として、まことに申し分のないものです。
 この技術的な問題の研究に、十分な資金をかけていません。太陽エネルギーは再生可能ですから、永久に使うことができます。これに対して石炭、石油、原子力の場合は、地球の有限な資源を使い果たしていることになるのです。
 現在、各国の対応は、それぞれ異なっております。多くの国々が原発に依存するようになっており、原発に多額の投資がおこなわれています。一方、アメリカでは、いくつかの建設し終わった、あるいは建設中の原発が、操業しないことになりました。猛烈な反対があるからです。
 私は声を大にして、次のように訴えたい。経済的に可能な範囲で、なるべく早く、現存の原発の操業を中止し、それ以外のエネルギー源に依存すべきです。たとえば熱エネルギーですが、地熱エネルギー──これは日本でとくにうまくいくと思います。今カリフォルニアでは、地熱から電気エネルギーを得ているのです――と、とくに太陽エネルギーが有望です。風力でもいいし、潮力や波エネルギーでもいいでしょう。
4  「平和省」の設置を
 池田 ところで、博士はかねてから、世界平和を実現するための「世界法」の重要性を強調されています。今後の世界の統合化への道筋として「世界連邦」のようなものをお考えでしょうか。
 ポーリング 世界法は、すべての国によって承認されなければならないと思います。各国は世界法違反があったと思われるときに、アメリカがこれまでに何度かしたように、出廷を拒否するのでなく、法廷に出頭する義務があるということが承認されれば、世界司法裁判所は現在よりはるかに有効に機能することができるでしょう。
 全能の力をもった世界政府を創設すべきだとは思いません。それよりも、基本的には自治権をもつ多数の国があるほうが、安全につながると思います。
 現在、人類は非常に多種多様ですが、この多様性が人生の豊かさを大いに増大させているわけで、それは可能なかぎり、最大限に維持しなければならないと思います。
 池田 問題は、国家主権の絶対性をどう相対化していくかが焦点ですね。博士がご指摘のように、世界政府的な体制への移行は、現実的ではないでしょう。そこで私としては、主権国家が最後の手段として戦争に訴える権利を否認する方向を考えたいのです。
 これは、日本の平和憲法の「交戦権の否認」をどう世界化していくかということであり、二十一世紀の平和秩序は、この延長線上に考えられなければなりません。
 これを具体的に進めないと、いくら「人類益」や「人類主権」の重要性を強調しても、絵にかいたモチになりかねません。
 また、過日、かねてより私の平和提言に注目してくださっているアメリカの一識者から手紙をいただきました。そこには一つの提案が書かれてありました。
 それは、従来の陸軍省や海軍省、国防省といったものではなく、平和に専念できる省庁として「平和省」といったものをつくる運動を、世界的に広げていってはどうか、というものです。
 私もこの意見には同感で、第三回国連軍縮特別総会へ寄せた提言のなかで、積極的にこれを推し進めたい意向を示しました。
 とくに、この提案を、平和憲法をもつ日本、軍隊を全廃したコスタリカ、南太平洋非核地帯条約を成立させた南太平洋の国々、軍縮に熱心な北欧諸国等で、真剣に検討していただきたいと要望いたしました。
 ポーリング 平和省を設置するというのはいい考えだと思います。私がかつて「アメリカの内閣に平和担当長官をおきたい」と述べたのも、まったく同じ考えからです。ですから、ご意見に賛成します。非軍事的な方法による世界平和の維持について大統領に勧告できる人、しかも、それをみずからの職務としたいと思う人が、ぜひとも必要です。
 あなたのご活動に協力していることを、非常にうれしく思っております。
 池田 ありがとうございます。
 ポーリング 平和担当大臣、または長官に研究してもらいたい点の一つは、十年ほどまえにマサチューセッツエ科大学のフィリップ・モリソン教授とその僚友たちが『防衛の値段』という本で示唆したことです。ボストン・グループと呼ばれるこのグループは、その本のなかで、アメリカの軍事予算を分析しました。
 彼らが到達した結論は、当時のアメリカの軍事予算総額二千二百五十億ドルを七百五十億ドル削減して千五百億ドルにしたとしても、十分にわが国の安全を維持できるというものでした。彼らは、何の役にも立ちそうにない兵器類の増強に、数十億ドルが浪費されていると指摘しました。
 最近ラジオで聞きましたが、B1爆撃機には問題があるそうです。それを改修するにはおそらく三十億ドルかかるだろうということです。思慮に富んだ分析者たちは、B1爆撃機はまったくお金の浪費だと考えています。そんなものに、なぜさらに三十億ドルも費やさなければならないのでしょうか。
 池田 大事な論点ですね。そのような説得力のある具体的な指摘が、なにより大切です。
 ポーリング ボストン・グループに話を戻しますが、前述したように、彼らは七百五十億ドル節約できると主張しました。また、軍事予算をそれだけ滅らしても失業者が増えることはないと論じ、それを具体的に裏づけました。彼らはこう言いました。
 「軍事費では多くの労働者を雇うことはできない。高度のテクノロジーに金がかかりすぎるからである。しかし、民間用品の製造の場合はそれほど高給を払わなくていいから、労働者の数も増やせる。したがって七百五十億ドルを民間用にまわせばたくさんの人々が雇われることになり、失業率は低下する。軍事費をそれだけ節約すれば、それだけ多くの人々が職にありつけるわけである」
 こうしたことこそ、平和担当長官が担当すべき活動であり、研究すべき課題でしょう。
 池田 各国とも、軍事費はますます負担になってきています。歴史を振り返ると、人類の進歩はかならず技術の革新にあらわれる。そして技術革新は、より殺傷力、破壊力の大きい兵器の出現というかたちをとってあらわれる。これをいかにストップさせるかがカギだと思います。
 さいわい米ソとも冷戦に終止符を打ち、軍事費を削減する方向へ動きだしました。この流れを絶対に逆流させてはなりません。
 ポーリング それから、言うまでもないことですが、軍事面ではアメリカがつねにリードをたもっているという点も、平和担当長官は知っておくべきでしょう。アメリカは、一九四五年に原爆をつくりました。ソ連の原爆製造は、四年後です。六〇年にアメリカは、多弾頭各個目標再突入ミサイル(MIRV)の建造を開始しました。ソ連はこの後を追いましたが、一九六五年になっても作業を終えることができませんでした。ソ連の弾頭はいまだに、アメリカのものよりも大型です。
 その理由は、小型の弾頭を目標まで、より正確に誘導する技術では、アメリカがリードしているからです。ソ連の国民総生産(GNP)に対する軍事予算の比率は、アメリカのそれの三倍です。というのは、わが国のGNPがソ連のGNPの三倍だからです。
 この事実からみて、ソ連はなんとか軍事費を削減したいと熱望しているはずです。その熱意は、アメリカにくらべてはるかに強いことでしょう。ですからアメリカが軍事費を削減しはじめれば、ソ連は喜んでその先例にならうことでしょう。
5  民衆運動の役割
 池田 近年、世界各地で、地域紛争に和平の動きが活発化しております。アフガニスタンからのソ連軍の撤退、イラン・イラク戦争の停戦、さらにはアフリカのアンゴラ内戦や西サハラ紛争も和平へ動きました。パレスチナ解放機構(PLO)がイスラエルの生存権を認め、PLOとアメリカとの間で会談がもたれたことは、中東問題にひとすじの明るい展望をもたらしました。
 こうした地域紛争が解決の兆しをみせているのは、米ソ関係が改善され、緊張緩和の波動が広がっていることと無縁ではないでしょう。
 今後、カンボジアや朝鮮半島にも緊張緩和の波がおよんでくれば、全体としてヨーロッパからアジアをふくめて「不戦」の流れともいうべきものが生まれる可能性は、十分にあると思います。しかし現状は、第三世界の紛争が内戦化しており、終息するまでにはなお多くの時間が必要であると思われます。
 ポーリング 世界では多くの紛争がつづいてきました。アメリカやソ連、その他の先進諸国は、こうした紛争を防止するために、ほとんど何もしていません。それどころか、アメリカや他の先進国によって戦争が助長され、ある場合には、ひきおこされてきたのです。
 米ソ両国をはじめ先進諸国が、小国に武器を供与、売却しない、戦争を支援しない、そして大国同士が相互に困らせることをしない、という政策をとらなければなりません。それ以上に、これらの国々は、戦争をなくし、安定した社会の建設を促進して、長期におよぶ紛争を解決し、世界の諸国の人々の運命を改善するために、一致協力して努力しなければならないと思います。
 核戦争の防止と戦争そのものの廃絶は、現在世界が直面している、すべての課題のなかで最重要のものです。私は、すべての個人、団体、都市、国家が、それぞれ可能な方法をすべて駆使して、この課題に取り組むべきだと思います。
 池田 核戦争が人類の絶滅をもたらす以上、核兵器を絶対に使用させないこと、そしてこれを一日も早く廃絶することが、まず第一に優先されなければなりません。
 一方、米ソが協調体制をとるようになり、現実には核戦争が起こる可能性は小さくなっているとみられます。
 そこで大事なことは、核兵器のみならず、通常兵器の軍縮に、早急に手をつけることです。テクノロジーの急速な進歩によって、現代兵器の破壊力は日一日と強大なものとなっており、この面でも軍縮は緊急の課題になっております。ヨーロッパを中心に、通常兵器の軍縮を進めようという機運が盛り上がっていることを歓迎したいと思います。
 ポーリング 池田会長をはじめ世界平和をめざす人たちが、戦争は悪徳であり、そのなかでも核戦争は極悪のものであると力説することは、意味のあることだと思います。もちろん、核兵器の使用だけが戦争の唯一の悪徳性ではありません。たとえば、古代、聖書に出てくる時代の戦争では、女性や子どもも容赦なく殺戮されました。古代パレステナの都市エリコが陥落したとき、イスラエル人は、その都市の住民を男女・子どもの区別なく全員、殺しました。このことは聖書に出ています。
 しかし、その後、兵士による戦争の時代になり、戦闘の犠牲者は、ときとして君主をもふくむ青年男子が主体となりました。これは、婦女子にとってかなり安全な時代といえましょう。アメリカの南北戦争のときも、殺されたのは兵士だけでした。
 しかしその後、第二次大戦の勃発によって、ふたたび無差別な殺数が起こります。むろん第一次大戦のときも、爆撃によるある程度の犠牲はありました。第二次大戦において英米両国は都市爆撃方針を採用し、その結果、アムステルダム、ハンブルク、ドレスデン等の都市が破壊され、男はもとより女性や子どもにいたるたくさんの住民が、爆撃の犠牲になりました。とくにドレスデンでは、空襲による火事嵐が発生し、被害は甚大をきわめました。これほどの悪徳がありましょうか。
 現代世界において、戦争が完全な悪徳としていまだに禁止されていないのは、本当に恐ろしいことです。戦争で恩恵を受ける者は、だれもいません。勝者ですら、然りです。このことは、世界平和をめざす努力のなかで、十分強調する必要があると思います。
 池田 私も博士の主張に、まったく同感です。兵器の破壊力がどんどん大きくなり、国家権力の強大化とあいまって、大規模な無差別殺戮が平然とおこなわれた。
 そうしたなかで人間が兵器を使うようにみえながら、実際には兵器に人間が使われる傾向が顕著になっていきました。核に収斂されていく近代戦争の歩みを振り返ると、その思いを深くせざるをえません。
 そこで大事なことは、地球的な規模で、民衆が主役の時代を早く到来させ、「民主の流れ」を確かなものにすることだと思います。今後は、解放された民衆のエネルギーを、いかにして「建設」のエネルギーヘ転化させていくかが課題です。
 博士ご自身も、著書『ノー・モア・ウォー』のなかで、長年の知友であるジョージ・キスチャコフスキー博士の言葉を引かれて「私たちの唯一の希望は、今までかつてなかった平和のための民衆運動が台頭してくることです」と述べておられますね。
 ポーリング 民衆は、政治家や権威者の虚偽の発言に惑わされなければ、世界平和の必要性を認識し、平和を達成するうえでのみずからの責任を自覚するでしょう。
 民衆に政治家を本来の正しい軌道に乗せる力があることは、最近十年にわたっていくどとなく証明されてきました。平和をめざす民衆運動は、ジョージ・キスチャコフスキー博士が述べているように、近い将来、平和実現の目標に向かって非常に重要な伸展をもたらすと思います。
 大事なことは、さまざまな平和団体による平和運動の活発な推進によって、政治に平和への圧力をおよぼしていくことです。その意味で、池田会長が、これからもいちだんと平和運動を進めていかれることは重要であると思います。平和実現のあかつきには、″こうした人たちの尽力があって、世界の平和があったのだ″と、初めて言えるようになるのです。
6  宗教者の平和運動
 池田 古代インドのアショーカ王、カニシカ王は、しばしば為政者の理想像として紹介されます。両者とも深く仏教に帰依し、仏教の慈悲の精神を根底に政治をおこない、歴史に特筆すべき平和国家を築き、豊かな仏教文化を栄えさせました。
 歴史上、異なる宗教同士の戦争によって多くの人命が失われた例を無視できませんが、徹底した平和主義のもとに、世界平和に尽力している宗教もあります。博士は、宗教者による平和運動をどうみておられますか。
 ポーリング 「歴史上、宗教戦争によって多くの人命が失われた」と述べられましたが、現在もそう言えるのではないかと思います。レバノンでは宗教戦争がおこなわれており、異なる六つもの宗教がたがいに争いをしています。それに北アイルランドの紛争があります。ここでは、プロテスタントの英国系住民が多数派として国を支配しており、少数派のカトリック系住民は富裕階級につかえるだけの貧者になっています。
 したがって、紛争の原因は主に経済的なものですが、部分的にはカトリックとプロテスタントの抗争という宗教的な面もあります。もちろん、カトリックとプロテスタントは、数世紀にわたって英国全土はもとより他の地域でも抗争をつづけてきました。
 一方で、徹底した平和主義のもとに、世界平和に尽力してきた宗教があるのも事実です。アメリカのプロテスタント系宗派を、世界平和のために尽力するよう説得するのはたいへんでした。今でこそ以前よりも努力しておりますが、それも、ほんのここ十年か二十年のことです。
 「宗教者の平和運動をどう評価するか」とのご質問ですが、総じて良いことだと思います。アメリカのクエーカー教徒は世界平和の活動をおこなっており、私ども夫婦も、オックスフォード平和会議の声明文を起草しなければなりませんでした。しかし、アメリカのクエーカー教徒は、共産主義者に世界平和の努力をさせるべきでないとの理由から、その会議を中止させてしまいました。
 この会議を組織した英国人が、ソ連に代表参加を要請していたのです。私と妻も会場に行っておりましたが、会議は突然、中止されました。クエーカー教徒は、ソ連からの参加者がいる平和会議に同席できないということでした。
 この場合、私が理解に苦しむのは、アメリカのクエーカー教徒の宗教的信条ではなく、その政治的な主張です。私ども夫婦は、平和をめざす人の集まりであれば、その人のいかんを問わず、ともに努力する、と言いました。そうするのは世界平和を必要と思うからですが、すべての宗教がかならずしもそうではありません。
 池田 たしかに、人類史を振り返ってみると、宗教の名のもとにおびただしい血が流されており、その宿痾が、現在もなお癒されていないということは、悲しい現実です。
 宗教は、人々の幸福と平和に貢献するのでなければ″無用の長物″というか″百害あって一利なし″の存在に堕してしまうでしょう。
 そのためにも、私はかつて、宗教の社会的役割を考えるさいに、「権威のための宗教」と「人間のための宗教」という、二つの物差しをもうけてみてはどうかと、提案したことがあります。
 ″神″であれ何であれ、絶対的権威の君臨のもと、人間はその支配下、従属下におかれるというパターンは、じつに数多くの宗教にみられます。そこにあっては、一つの宗教的権威の名のもとに、人間は手段化され、人間の生命など、いともかんたんに犠牲にされてきました。私は、一九八四年にペルーのリマにある宗教裁判所跡を訪れ、凄惨きわまる残骸の数々に接して、宗教のもつ恐ろしさに身の毛のよだつ思いをしましたが、そうした、人間に犠牲をしいる「権威のための宗教」は、人間社会の暗部をもたらしました。
 これからの宗教は、「人間のための宗教」でなければならないだろうと思います。人間こそ、原点であり、目的です。人間こそ、歴史創出の主役です。その人間の幸福と平和のために奉仕し、貢献していく以外に、宗教の存在意義はありえないといっても過言ではありません。
 したがって、「人間のための宗教」とは「平和のための宗教」と言いかえてもよいでしょう。その意味で、仏法のような、徹底した「人間のための宗教」が希求され、それが人間社会に大いなる貢献を果たしていくと考えています。
 そうした観点に立って、創価学会インタナショナルは世界百十五カ国のメンバーが、それぞれの国で、良き市民として、平和のために地道な活動を進めております。戦争をはじめ、あらゆる暴力を否定し、人類の幸福と世界の繁栄につくすことこそ、仏法者の使命にほかならないからです。
 私どもの行動に対して、たとえば、宗教者がソ連や中国などの社会主義の国に行って何をするのかという好奇の目もありました。しかし、社会主義の国も自由主義の国も、そこに人間がいることには少しも変わりはありません。
 いかなる国の人々であれ、「平和」を願望し「幸福」を求めています。同じ地球に住み、同じ願いをもつ人間として、私たちは深い友好と友情の絆を結んできましたし、そうした行動がますます大切になっていると思います。
7  絶対平和主義について
 ポーリング 私は、仏教者の運動を心から支持します。しかし、すでに述べたように、私は共産主義者のおこなう平和運動でも支持します。私は、すべての平和運動を支持するのです。一方で、私は絶対平和主義に対して疑問をいだいております。絶対平和主義者のいない社会で、絶対平和主義者に何ができるというのでしょうか。
 ナチスの例でいえば、ただヒトラーの言うなりになるだけということでしょうか。ヒトラーは世界制覇の野望をいだき、ドイツ系アーリア人以外の人種を抹殺しようとしました。白人であっても、特定の人種的系譜の白人以外は否定されたのです。こうした状況下で、絶対平和主義をつらぬくことができるでしょうか。
 第二次世界大戦中、私の教えた学生のなかに兵役拒否者がいましたが、アメリカ政府は彼らに対して寛容でした。そのなかの一人は、娘の友人でしたが、刑務所送りにされました。彼はユダヤ人の兵役拒否者で、多くの点で理想主義者でした。彼は魚をふくめていっさいの肉食をしない主義なので、服役中に餓死寸前になりました。当局が、彼を菜食主義者として認めようとしなかったのです。刑務所当局は、彼のすべての食事に肉を混ぜあわせて、彼が食べられないようにしたのです。
 彼は出所しましたが、徴兵に応じなかったので再逮捕され、また刑務所に送られるところでした。二度目の裁判を担当した判事は、彼を釈放しようと努力しました。彼に神を信ずるかと聞きました。それに対して彼は、「神の定義とは何か」と問いかえしました。たぶん、彼は神を信ずると答えていただろうし、私もそう思います。
 しかし、彼はいわば純粋主義者なので、神の定義をめぐって判事と論議をし、問題を混乱させてしまったのです。
 いずれにしても、最終的には、判事は彼にとって有利な判決をくだし、彼はふたたび刑務所に行かなくてすみました。
 また、もう一人の学生は、北カリフォルニアの森林で二、三年働きました。そこは良心的兵役拒否者が送られた、一種の木材伐採地のような場所でした。良心的兵役拒否者に対して、アメリカは適度に寛容でした。国は彼らを銃殺刑にせず、代案を与えました。私は二、三人の学生を説得して、戦争研究計画に私と共同で参画するようにしました。彼らが私とする研究は、敵との実際の戦闘からほど遠いものであり、彼らが良心のうえからそれを認めると言うまで、私は彼らと激論をかわさなければなりませんでした。
 今、私の手もとに、ドイツ人の友人から贈られた本が一冊あります。この本は彼の自伝ですが、私ども夫婦は、この人と一九二六年にドイツで知りあいになりました。彼は理想主義者で、天賦の才能をもったバイオリニストでした。また同時に、物理学者で数学者でもありました。
 彼は平和主義者でしたが、従軍せざるをえず、戦争中どうしていいのかわからず、悩んだのです。とりあえず陸軍の対空砲火部隊に所属しましたが、戦争後、私にくれた手紙のなかで、幸運にも一機も撃墜することがなかったと述べていました。彼は以前、ある特定の工場の生産能率向上の方法、つまり、ある特定の生産技術工程改良の研究に従事しておりましたので、陸軍から生産工場へ配置転換になりました。そこで戦闘からまぬかれたわけです。
 しかし、もっと以前に、彼はたいへんな困難に直面しています。彼は優秀な人物で、当初は物理学の教授になる予定でした。だが、ナテスの台頭により、ドイツでは教授になるためにはナチス党員でなければならなかったのです。
 したがって、彼は、六十歳になるまで教授にならなかったと思います。生計を立てるのにひと苦労でした。彼は、工場の生産工程に関して助言をするコンサルタントとして働きました。彼は戦争のおかげでひどい目にあいましたが、無事に切りぬけることができました。もちろん、多くの人が戦争の犠牲になりました。
 池田 絶対平和主義の問題は、洋の東西を問わず、文明史とともに古く、困難な課題です。私としては、理論的に、まして個々の具体的な選択や実践のかかわってくる次元においては、是か非かの一本の線を引くことはできないと思います。
 たとえば、博士があげておられたようなケースで、一人の絶対平和主義者が、みずからの信念をつらぬいた結果、死を招いた場合、信条に殉ずるという生き方という点では筋が通っていますが、絶対平和主義の政治的実効性ということは、また別問題であるからです。
 ″ヒトラーを前にして、絶対平和主義者は何をなしうるか″との博士の問題提起の意味するところも、そこにあると思います。
 先に申し上げたように、絶対平和主義の是非に、画一的な線引きをすることは不可能だと、私は思います。しかし、実践的範例をさがすことは可能です。たびたび引きあいに出して恐縮ですが、その範例を、アインシュタインに求めてみたいと思います。
 ポーリング博士がおっしゃったように、ルーズベルト大統領に、原爆製造をすすめる手紙を送ったことが、戦後も、彼の良心を悩ましつづけてきたことは周知の事実です。第二次世界大戦が終わって七年ほどたったころ、アインシュタインは、日本の雑誌や新聞に、そのことへの″釈明″を寄せています。
 そのなかで――、
 「もちろん私は、このような試みが成功した場合、それが人類におよぼす恐るべき危険について知ってはおりました。しかし、ドイツがこの〔原爆製造という〕同じ問題の研究で成功を収めるかもしれない、と考えられたため、私としては、この処置をとらざるを得なかったのです。私は常に確信をもった平和主義者(uberzeugter Pazifist)ですが、この場合、私としては、他にどうすることも出来なかったのです」(金子務『アインシュタイン・ショック』河出書房新社)
 これと、まえに引用した広島への原爆投下を聞いたときの「Oh, weh!」(ああ、悲しい)の絶句をかさねあわせてみれば、ポーリング博士の「絶対平和主義者のいない社会で絶対平和主義者に何ができるのか」との問いかけに対する、ぎりぎりの選択の可能性、すなわち絶対平和主義の実効性の地平というものは、そうした恐ろしいジレンマに立たされたアインシュタインのような苦衷のなかにしか見いだせないと思っております。
 悲しく苦しい選択を迫られながら、アインシュタインが熱烈な平和主義者――彼の言葉で言えば「確信をもった平和主義者」として、絶対平和主義者ヘの憧憬をいだきつづけていたであろうことは″釈明″の次の一文からも、明らかであろうと思われます。
 「われわれの時代における最大の政治的天才ガンジーは、人間というものが正しい道を知り得た場合に、いかなる〔偉大なる〕犠牲に耐えられるかということについて、実証してくれています。インド解放のためにガンジーがなした仕事は、確固たる信念に貫かれた意志というものが、一見絶対優位であるかに思われる物質的な力よりも強いということを立証してくれている、生きた証拠なのです」(同前)
 ポーリング ドイツに行ったとき、私は妻と、ウルムの大聖堂で語りあいました。ウルムはアインシュタインが生まれ、少年期を過ごしたドイツの町です。私ども夫婦はそこで、元市長夫妻と会いました。戦争当時、夫妻には二十歳前後の二人の子どもがミュンヘンにいましたが、反ファシスト文書を配布中につかまり、ギロチンの刑に処せられた、とのことでした。ドイツ当局は、アメリカよりも冷徹でした。
 ノーベル化学賞の受賞者に決定したとの知らせを受けたとき、私は旅券を持っておりませんでした。新聞等では、はたして国務省はポーリング教授がノーベル賞受賞のためストックホルムヘ行くのを許可するだろうか、という論議がおこなわれました。結局、私を行かせることになりました。
 私の旅券発行に関する上院の調査会で、次のようなやりとりがおこなわれました。担当の上院議員の「ポーリング教授は以前に旅券の発行を拒否されているのに、今回どうやって入手したのか。抗議でもあったのか」との質問に、担当の国務次官補は「ある種の自然発生的抗議」があったことを認めました。それは、国務省が旅券を発行し、私に送付したほうがよいとの決定をくだしたことを意味します。そこで上院議員は、かさねて次官補の発言の真意をただしました。
 「あなたはアメリカ国務省が外国の何かの委員会、つまり外国人のある委員会に、一アメリカ市民に旅券を発行するかどうかを決定させるのを許したと言うのか」と。
 この種のことについては、ソ連のほうがアメリカよりも冷徹です。ロシア人がノーベル賞を受賞したとき、授賞式に行かせませんでした。サハロフ氏のときもそうでした。先に述べたように、ドイツもアメリカより冷徹でした。処刑してしまったのですから。アメリカ当局は、そういうことをしませんでした。でも、たしか一人、処刑された人がいましたね。ドイツ駐留のアメリカ軍兵士で脱走したので処刑されましたが、脱走者はただ一人だったと思います。彼は他の兵士のみせしめにされたのです。アメリカ合衆国陸軍からですら、脱走するな、とのことです。
 イスラエル人は、アラブ人よりも冷徹です。イスラエル国内の両者の紛争で、これまでに百人以上のアラブ人が、警察によって殺されました。もう一人死んだ警官がいたと思いますが、これは、仲間の警官の偶発的発砲によるものでした。イスラエル人は、戦闘の習性が身についています。日本にも、別の戦闘様式の長い歴史があると思います。
 むかしは、各国それぞれの戦闘様式があったと思います。コロンブスのアメリカ大陸到達以前から現地に住んでいたアメリカインデイアンには、部族間の戦闘がありました。平和を好むある部族のことを、書物で読んだことがあります。その部族自身は戦闘を好まず、好戦的な他の部族から来る戦闘要員を、つねに確保していたということです。
 池田 たしかに、それぞれの民族には、それぞれの戦闘様式の歴史があると思います。しかし、国家権力が強大な軍事力、警察力を一手に握り、他国と対峙するばかりか、国内に対してもすみずみにまで統制の網の目をめぐらせ、君臨するようになったのは、なんといっても近代国家になってからのことでしよう。ジヨージ・オーウェルが描くところの『一九八四年』の不気味な世界は、近代国家の権力の性格を背景としなければ、考えおよぶところではありません。
 しかし、さしもわがもの顔に人類史の主役の座に君臨してきた国家にも、ようやくかげりが見えだしていることも事実です。わが国の著名な政治学者の丸山真男氏は、それを「超国家化」「下国家化」(『後衛の位置から』未来社)という二つの言葉で述べています。
 つまり、従来の国際関係というものは、なんといっても国家対国家の関係でした。人間というよりも、外務省や大使館などの機関が基軸をなす、いわば「国家の顔」を表にしての関係でした。しかし、科学技術や交通・通信手段の発達、それにともなう国際交流の活発化は、二つの方向で注目すべき変化を生みつつあります。
 一つは「超国家化」であって、首脳会談などの活発化、常態化は、国家という機関を上に超えながら、そこに「人間の顔」をクローズアップさせつつあります。「下国家化」とは、いうまでもなく学術、芸術、スポーツ、観光などをとおしての民間外交の加速度的な活発化です。そこでも、国家を超えて「人間の顔」が、しだいに生彩を放ってくることは間違いないでしょう。
 いずれにしても、人類史の主役は、あくまで人間でなければならないのですから、いつまでも国家に鼻綱を引きまわされているのではなく、「人間の顔」を取り戻さなければなりませんね。
8  世界のなかの日本
 池田 本年中(一九九〇年)には米ソ戦略兵器削減条約調印のメドがつきましたし、欧州通常戦力交渉の年内調印でも米ソが合意しました。もはや、軍備に野放図に資金をそそぐことは割にあわないとの認識が、広がりつつあるのは事実です。その意味で、軍縮は時代の大きな流れになりつつあるといえます。
 軍縮の流れを加速化するうえで、日本が果たすべき役割は大きいと思います。ご存じのように日本は今″経済大国″といわれております。豊かだといわれても、実際に日本に暮らしている国民は、実感がうすい面もあるわけですが、世界からは責任分担を要求され、日本が世界にどういう面で貢献していけばいいかが、模索されています。
 日本は広島、長崎の悲惨な被爆体験をもっている国ですし、まず第一に世界の平和のために貢献する具体策を提示する必要があります。と同時に、世界は″精神の空白″を埋める″新たな生きるための哲学″を求めております。この面で、大乗仏教の豊かな伝統を誇る日本が果たす責務は大きいと感じております。
 ポーリング 日本は、科学技術の進歩と経済の急速な発展により、世界で最も重要な国の一つになりました。過去五十年間に、日本人の健康状態は大幅に向上しました。五十年前、日本人の平均寿命は、現在とくらべて相当短かったという記事を読んだことがあります。日本が第二次世界大戦以後、軍事的にはたいして発展しなかったという点で、日本は戦争のない世界建設へ向けて、すでに出発しています。現在、日本で軍事力が年々ある程度、増大しつつあることも承知しています。
 日本の四半世紀にわたる繁栄のいくぶんかは、大規模な軍事力を維持するための一〇パーセントから二〇パーセントにもおよぶ、過大な経済的負担が日本になかったということに起因するものだと思います。ここでいうパーセントは対GNP(国民総生産)比の負担率です。日本が経済的な犠牲をはらってまで大規模な軍事力を構築しなければならない理由など、まったく見あたりません。中国が日本を攻撃するような危険がありましょうか。まったくないと思います。
 現代社会では世論の力が非常に大きくなっているので、いかなる大国も、領土拡張や侵略にあえて乗り出すのには、相当の抵抗を感じると思われます。中米のコスタリカは軍隊をもたない国であり、他国もこれに見習うべきですが、もし日本が軍備放棄の政策を採用すれば、世界にとってもっとすばらしいお手本になると思います。
 池田 日本の将来を見通された卓見です。二十一世紀の指針としてうかがっておきます。
 ポーリング 日本は大規模な軍事力に頼らず、核兵器を開発しないという政策を継続すべきだ、というのが、私の意見です。日本は、世界平和樹立への戦いで指導的立場に立つことができると思います。
 いずれにしても、日本が「世界不戦」実現へ向かって各国の先頭に立てれば、すばらしいことです。この道こそが世界が進むべき道であると、池田会長が考えておられることを確信しております。

1
1