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日蓮大聖人・池田大作

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南岳慧思と法華経

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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4  仏を見ること
 野崎 さて「法華三昧」を開悟した後の慧思は、まるで人が変わったように心境を一変し、法華弘通の活動を展開しています。『立誓願文』によれば、慧思三十四歳のころ、河南弘教の旅にのぼって衆と論議し、悪比丘のために毒せられた、という。実際、慧思自身は一命を取り止めたが、食中に毒を盛られた弟子三人が命を失っています。その熱烈なる正法弘通の如説行は、いやがうえにも法難の嵐を巻き起こしていきました。
 池田 それは、当時の中国仏教界の状況からしても、当然に予想されたところですね。南三北七の諸家は、あるいは華厳第一、あるいは涅槃第一と唱え、法華経は第二、第三の位置に貶められていた。そのなかにあって慧思は、ただ一人、『法華経』を根本とする旗印を高々と掲げたわけですから、幾多の難が競い起こるのも必然であった、と思われる。
 松本 いわゆる「安楽行」というのも、慧思の場合は、一般に言葉のもつ響きから感じるのとは違うものがありますね。彼は何度か悪比丘や悪論師から毒殺されそうになっていますし、さまざまな迫害を受けている。そのような諸難を覚悟して、あえて『法華経』を弘めようとするのであるから、とても安楽な修行とはみえない。むしろ、それは「折伏行」に近い布教法をとっています。
 池田 ですから、南岳大師の「法華三昧」というのは、単に坐禅入定するだけではない。彼が開悟した『法華経』の哲理を、経典に説かれたように実践する法華菩薩の如説行であった、ともいえます。その意味からも、彼が三十二歳前後に開悟した「法華三昧」は、慧思自身の開眼にとどまらず、中国仏教史を大きく転換する強靭な発条となった、といえるでしょう。
 また、さきほど野崎君が「まるで人が変わったように心境を一変し」と表現していたが、慧思は「法華三昧」を開悟したことによって、大小乗を問わず、仏法の一切が明らかに見えてきたのでしょう。『法華経』という仏法の最高峰に登りつめたので、その他の群小の峰々が眼下に展望できるようになった。それから以後、慧思が当時の大乗・小乗の禅師や論師を向こうにまわして、堂々の論陣を張ることになったのも、『法華経』の奥底を究めた確信によるものと思う。
 野崎 後に大蘇山を訪れた智顗に対し、慧思はただちに普賢道場を示し、四安楽行を説いたとされています。すなわち『法華経』の普賢菩薩勧発品第二十八に従って法華経を読誦する有相行と、安楽行品第十四に基づいて修禅する無相行とを、真っ先に新来の弟子に伝えている。自身の開悟した「法華三昧」というものに、絶対の自信をもっていたさまがうかがえますね。
 松本 しかも智顗は、そのように慧思から伝えられた「法華三昧」行を、文字どおり如法に実修したところ、二七日ということは二週間を経て、突如として身心豁然かつぜんとなり、定に入ったといわれます。ここで天台大師も、いわゆる「大蘇開悟」に達したわけですね。
 池田 南岳大師の一時円証にせよ、また天台大師の大蘇開悟にしても、そこで彼らは何を悟ったかといえば、それはわが身がそのまま仏身であるということですね。これは、日蓮大聖人の教えを学んだ私たちには、いかにも当然のことのように思われるかもしれないが、じつは深い哲理を含むものなのです。
 それまで、衆生は煩悩を断ずることなくして仏にはなれないもの、と考えられていた。そのため、一地から一地へと次第行を修し、難行苦行の果てに、ようやく仏道を成ずることができると思われていたわけでしょう。
 ところが南岳大師は『大智度論』に説かれる空定に入って、衆生身がそのまま如来身であり、凡種も聖種も無一不二にして、衆生が如来と同一の心性にあることを覚知した。それが「法華三昧」の境地であり、煩悩即菩提、無明即涅槃、一心具万行の世界であったのです。そこに、今まで見えなかった「仏」の地平が、ありありと見えてきたにちがいない。
 松本 なるほど、天台大師の『摩訶止観』を読んでも、そこに「仏を見る」とか「仏身をる」という言葉が何回も使われているのは、そのためですね。
 池田 そうです。「止観」というのは、まさに仏を見たてまつらんとし、衆生のなかに入って菩薩道を行ずるための、まず自己変革の法と捉えたい。ここに、後の禅宗のように、仏説の経典に依ることを排し、坐禅入定のみを事とする「禅」の修法を見ようとするのは、見当違いもはなはだしいと思う。
 たとえば『摩訶止観』に「よく一行三昧に入れば、のあたりに諸仏を見たてまつり、菩薩の位に上らん」(大正四十六巻11㌻)とある。すなわち、「法華三昧」にしろ「摩訶止観」にせよ、それは禅宗が唱えたような自己の心のみをすべてとしていく独善主義ではなく、あくまで一方には仏を求め、他方、民衆のなかに入って菩薩道を行ずるという実践と結びついたものであるわけです。
 つまり大乗仏教の精神は「上求菩提・下化衆生」という開かれた姿勢に立ったものである。「上は菩提を求め」とは、仏の悟りを得ようとする謙虚な求道の精神であり、「下は衆生を化す」とは、九界の衆生の大海のなかに入って民衆救済の実践に励むことであり、この両方をかねそなえて実践していくのが、仏法者のあるべき姿なのです。その根本精神を忘れて、独善的に自己のみに閉じこもり、坐禅や三昧行を修することは、仏法の精神を過つものといわなければならない。
 ともあれ、千五百年近くも前の中国と、現代とでは、時代の状況はもちろん、民衆の機根も違うであろうが、南岳大師や天台大師が四天下に向かって叫んだ「法華経の精神」だけは、見誤つてはならないと思います。
 松本 南岳大師・慧思は、すでに当時から″末法意識″に立っていたことは『立誓願文』などによっても明らかです。しかし、その学問的な考証については、ここでは省略します。
 その他、南岳大師とと慧思の法華経観については、天台大師が諮問した三三昧と三観智、すなわち一心三観の問題、天台大師に伝えた法華円頓の実体は何か、といった問題がありますが、それらは専門的な事柄に属しますので、また別の機会に検討してみたいと思います。
 野崎 天台大師の三大部を読んでも、どこまでが南岳大師の切り開いた部分で、それが後の天台家に伝えられたものか、また天台大師・智顗の独自の己証に帰せられるのは何か、そういった部分が判然としない面もありますね。
 池田 そうした教理的な掘り下げも必要ではあろうが、しかし細かい部分を詮索してみても、あまり意味はないと思う。南岳大師の場合でも、文字の解釈学に批判的だったのは、とくに当時の江南の仏教者が、仏法の根本精神を見失っていたからでしょう。そうした仏教を貴族階層の独占物と化することへの警告の意味をも込めて、彼は「法華三昧」の旗印を掲げたのではないだろうか。
 それから南岳大師と天台大師の関係ですが、結論として言えば「諸仏道同」の原理からしでも、究極の悟りは同じであって、そこに両者の違いを強いて探しだすこともないでしょう。仏は衆生の機根に応じて種々に法を説くといっても、悟りの内容は″妙法″そのものであることに変わりないわけです。

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