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日蓮大聖人・池田大作

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南岳慧思と法華経

「私の釈尊観」「私の仏教観」「続・私の仏教観」(池田大作全集第12巻)

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3  法華三昧とは何か
 そこで次に、では南岳大師が開悟したという「法華三昧」とは何か、という問題に移っていきたいと思います。
 野崎 『法華経安楽行義』を読むと、「法華三昧」というのは『法華経』に説かれた奥底にあるものを悟るための、当時の一つの修行法といえる面がありますね。
 菩薩が『法華経』を学ぶためには、一つは「無相行」といって、禅定に入って衆生の本性を観察する安楽行を修すること。もう一つは「有相行」といって、散心に『法華経』を読誦し専念する行を修すべし、と述べています。これを慧思は、『法華経』の安楽行品第十四と普賢菩薩勧発品第二十八の文から引き出してきたわけですね。
 池田 その「法華三昧」というのは、慧思の場合、具体的には三七日、すなわち二十一日間を期限として『法華経』を読誦し、そこに説かれる諸法実相、中道一実の妙法を諦観する修行ともいえるでしょう。しかし私は、それだけではないと思う。
 というのは、この「法華三昧」という語が『法華経』のなかにみえるのは、妙音菩薩品第二十四と妙荘厳王本事品第二十七であるといわれるそこでまず妙荘厳王本事品のほうをみると、そこには「浄眼菩薩は法華三昧に於いて、久しく巳に通達せり」(妙法蓮華経並開結654㌻)とある。これでみるかぎりは、『法華経』の奥底に通達するための修行法ともいえるが、妙音菩薩品のほうは、妙音が「久しく己にもろもろの徳本を植えて、無量百千万憶の諸仏を供養し親近したてまつりて、悉く甚深の智慧を成就し」(前出609㌻)た結果、法華三昧等の十六の三昧を得た、とありますね。
 ですから『法華文句記』に「実道所証の一切は皆法華三昧と名づく」(大正三十四巻186㌻)ともあるように、菩薩が『法華経』を如説修行して得られる実証そのものを「法華三昧」と名づけたと考えられる。
 松本 ただ、『法華経』を読むかぎりでは、いったい「法華三昧」とは何をさし、どのようにして得られるのか、ほとんど説かれていませんね。
 池田 やはり仏の悟りというのは、そう簡単にわかるものではない。経文にみえないということも、究極の悟達の境地は言葉では表現しえないからでしょう。それは「言語道断・心行所減の境地」ともいわれるし、法性の淵底に実在するもの、すなわち″諸法実相″にして、″円融の三諦″たる妙法そのものだからです。
 野崎 『法華経』は文上にとらわれるのではなく、文底から読みきらなければならないというのも、そのためですね。
 池田 そうです。ただし、ここで勘違いしてはならないのは、では文字を立てずに仏が見えるかといえば、けっしてそうではないあくまで究極の原理は『法華経』の文の底に秘沈されているのであって、『法華経』によら、なければ悟達は得られない、ということです。
 妙楽大師は『法華文句記』において「脱は現に在りと難も具さに本種を騰す」(大正三十四巻156㌻)と言っている。すなわち三世の諸仏は、みな『法華経』によって成仏というか、悟達したわけだけれども、それは文底にある「久遠の本種」(久遠本来の成仏の種子のこと)をあげることによっているのです。
 野崎 慧思が「法華三昧」を開悟したというのも、そのように『法華経』に肉薄していった結果、文底に秘沈された久遠の本種を、忽然と覚知したということですね。
 池田 簡単に言ってしまえば、要するに久遠を思い出したということです。私の恩師戸田城聖先生も、生前よく「久遠を思い出した」と言われていた。それは、戸田先生の『小説・人間革命』にも描写されているように、獄中において唱題を重ね、白文の『法華経』を読み進めるにつれ、ある日突然に、先生は霊山における法華経の会座を思い出された。このことは、あるいは不思議なことのように思われるかもしれないが、わが生命に「仏」を覚知したことと、まさに一つのものなのです。
 松本 後に大蘇山を訪れた智顗が、まず最初に慧思から言われたことは「昔日、霊山に同じく法華を聴く、宿縁の追う所にして今、復た来る」(大正五十巻191㌻)ということですね。これは南岳大師が、新来の弟子智顗を尊敬した言葉であるとか、激励の意味であるとか、親愛の情をとめた発言であったとか、さまざまに解釈されていますが、やはり慧思も、そして「大蘇開倍」以後の智顕も、生命の奥底から霊山の法華聴者であったことを確信した言葉ですね。
 池田 そう思います。なぜなら、後に天台も「霊山の一会、厳然として未だ散らず」という有名な言葉を発しているからです。
 ここで一言、誤解のないために言っておけば、末法当今の菩薩の仏道修行としては、なにも南岳の「法華三昧」や、天台の『摩訶止観』に説かれる修行を必要とするものではない、ということです。
 野崎 それは、強いて霊山の儀式を思い出すまでもない、という意味に通じますね。
 池田 そうです。末法今時においては、日蓮大聖人が「霊山一会・儼然未散」(霊山の一会、儼然として未だ散らず)の儀式を借りて、その内証の境地を三大秘法の御本尊として図顕されているからです。私たちは、その御本尊を受持することによって、受持即観心で「直達正観」つまり直ちに仏道を成ずることができ、そのまま霊山の会座につながっていることになるのです。
4  仏を見ること
 野崎 さて「法華三昧」を開悟した後の慧思は、まるで人が変わったように心境を一変し、法華弘通の活動を展開しています。『立誓願文』によれば、慧思三十四歳のころ、河南弘教の旅にのぼって衆と論議し、悪比丘のために毒せられた、という。実際、慧思自身は一命を取り止めたが、食中に毒を盛られた弟子三人が命を失っています。その熱烈なる正法弘通の如説行は、いやがうえにも法難の嵐を巻き起こしていきました。
 池田 それは、当時の中国仏教界の状況からしても、当然に予想されたところですね。南三北七の諸家は、あるいは華厳第一、あるいは涅槃第一と唱え、法華経は第二、第三の位置に貶められていた。そのなかにあって慧思は、ただ一人、『法華経』を根本とする旗印を高々と掲げたわけですから、幾多の難が競い起こるのも必然であった、と思われる。
 松本 いわゆる「安楽行」というのも、慧思の場合は、一般に言葉のもつ響きから感じるのとは違うものがありますね。彼は何度か悪比丘や悪論師から毒殺されそうになっていますし、さまざまな迫害を受けている。そのような諸難を覚悟して、あえて『法華経』を弘めようとするのであるから、とても安楽な修行とはみえない。むしろ、それは「折伏行」に近い布教法をとっています。
 池田 ですから、南岳大師の「法華三昧」というのは、単に坐禅入定するだけではない。彼が開悟した『法華経』の哲理を、経典に説かれたように実践する法華菩薩の如説行であった、ともいえます。その意味からも、彼が三十二歳前後に開悟した「法華三昧」は、慧思自身の開眼にとどまらず、中国仏教史を大きく転換する強靭な発条となった、といえるでしょう。
 また、さきほど野崎君が「まるで人が変わったように心境を一変し」と表現していたが、慧思は「法華三昧」を開悟したことによって、大小乗を問わず、仏法の一切が明らかに見えてきたのでしょう。『法華経』という仏法の最高峰に登りつめたので、その他の群小の峰々が眼下に展望できるようになった。それから以後、慧思が当時の大乗・小乗の禅師や論師を向こうにまわして、堂々の論陣を張ることになったのも、『法華経』の奥底を究めた確信によるものと思う。
 野崎 後に大蘇山を訪れた智顗に対し、慧思はただちに普賢道場を示し、四安楽行を説いたとされています。すなわち『法華経』の普賢菩薩勧発品第二十八に従って法華経を読誦する有相行と、安楽行品第十四に基づいて修禅する無相行とを、真っ先に新来の弟子に伝えている。自身の開悟した「法華三昧」というものに、絶対の自信をもっていたさまがうかがえますね。
 松本 しかも智顗は、そのように慧思から伝えられた「法華三昧」行を、文字どおり如法に実修したところ、二七日ということは二週間を経て、突如として身心豁然かつぜんとなり、定に入ったといわれます。ここで天台大師も、いわゆる「大蘇開悟」に達したわけですね。
 池田 南岳大師の一時円証にせよ、また天台大師の大蘇開悟にしても、そこで彼らは何を悟ったかといえば、それはわが身がそのまま仏身であるということですね。これは、日蓮大聖人の教えを学んだ私たちには、いかにも当然のことのように思われるかもしれないが、じつは深い哲理を含むものなのです。
 それまで、衆生は煩悩を断ずることなくして仏にはなれないもの、と考えられていた。そのため、一地から一地へと次第行を修し、難行苦行の果てに、ようやく仏道を成ずることができると思われていたわけでしょう。
 ところが南岳大師は『大智度論』に説かれる空定に入って、衆生身がそのまま如来身であり、凡種も聖種も無一不二にして、衆生が如来と同一の心性にあることを覚知した。それが「法華三昧」の境地であり、煩悩即菩提、無明即涅槃、一心具万行の世界であったのです。そこに、今まで見えなかった「仏」の地平が、ありありと見えてきたにちがいない。
 松本 なるほど、天台大師の『摩訶止観』を読んでも、そこに「仏を見る」とか「仏身をる」という言葉が何回も使われているのは、そのためですね。
 池田 そうです。「止観」というのは、まさに仏を見たてまつらんとし、衆生のなかに入って菩薩道を行ずるための、まず自己変革の法と捉えたい。ここに、後の禅宗のように、仏説の経典に依ることを排し、坐禅入定のみを事とする「禅」の修法を見ようとするのは、見当違いもはなはだしいと思う。
 たとえば『摩訶止観』に「よく一行三昧に入れば、のあたりに諸仏を見たてまつり、菩薩の位に上らん」(大正四十六巻11㌻)とある。すなわち、「法華三昧」にしろ「摩訶止観」にせよ、それは禅宗が唱えたような自己の心のみをすべてとしていく独善主義ではなく、あくまで一方には仏を求め、他方、民衆のなかに入って菩薩道を行ずるという実践と結びついたものであるわけです。
 つまり大乗仏教の精神は「上求菩提・下化衆生」という開かれた姿勢に立ったものである。「上は菩提を求め」とは、仏の悟りを得ようとする謙虚な求道の精神であり、「下は衆生を化す」とは、九界の衆生の大海のなかに入って民衆救済の実践に励むことであり、この両方をかねそなえて実践していくのが、仏法者のあるべき姿なのです。その根本精神を忘れて、独善的に自己のみに閉じこもり、坐禅や三昧行を修することは、仏法の精神を過つものといわなければならない。
 ともあれ、千五百年近くも前の中国と、現代とでは、時代の状況はもちろん、民衆の機根も違うであろうが、南岳大師や天台大師が四天下に向かって叫んだ「法華経の精神」だけは、見誤つてはならないと思います。
 松本 南岳大師・慧思は、すでに当時から″末法意識″に立っていたことは『立誓願文』などによっても明らかです。しかし、その学問的な考証については、ここでは省略します。
 その他、南岳大師とと慧思の法華経観については、天台大師が諮問した三三昧と三観智、すなわち一心三観の問題、天台大師に伝えた法華円頓の実体は何か、といった問題がありますが、それらは専門的な事柄に属しますので、また別の機会に検討してみたいと思います。
 野崎 天台大師の三大部を読んでも、どこまでが南岳大師の切り開いた部分で、それが後の天台家に伝えられたものか、また天台大師・智顗の独自の己証に帰せられるのは何か、そういった部分が判然としない面もありますね。
 池田 そうした教理的な掘り下げも必要ではあろうが、しかし細かい部分を詮索してみても、あまり意味はないと思う。南岳大師の場合でも、文字の解釈学に批判的だったのは、とくに当時の江南の仏教者が、仏法の根本精神を見失っていたからでしょう。そうした仏教を貴族階層の独占物と化することへの警告の意味をも込めて、彼は「法華三昧」の旗印を掲げたのではないだろうか。
 それから南岳大師と天台大師の関係ですが、結論として言えば「諸仏道同」の原理からしでも、究極の悟りは同じであって、そこに両者の違いを強いて探しだすこともないでしょう。仏は衆生の機根に応じて種々に法を説くといっても、悟りの内容は″妙法″そのものであることに変わりないわけです。

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