Nichiren・Ikeda
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第十一章 人間の「生と死」のドラマ
「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)
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7 「宗教」とは生命根本の教え
屋嘉比 いつかうかがいたかったのですが、「宗教」という言葉は、いつごろから使われたのでしょうか。
池田 よくわかりませんが、まあ一般的には、明治の初期とされております。
屋嘉比 すると、英語の「リリジョン」(religion)を翻訳したことからでしょうか。
池田 そうです。なにかの本で読んだ記憶がありますが、翻訳には、たいへん苦慮したようですね。
屋嘉比 たとえば、どういう……。
池田 当初、福沢諭吉などは、「宗旨」とか「宗門」と訳していたようです。
屋嘉比 すると、だれが「宗教」としたのでしょうか。
池田 のちに文部大臣になった森有礼が、明治六年に『明六雑誌』に書いた「宗教」という論文が初めてのようです。
―― その雑誌は、当時の啓蒙思想家の集まりであった明六社が出したものです。
この明六社を中心に、洋行帰りの西周とか、中村敬宇とかいった論客が集まって、文明論を真剣に交わしたようです。
池田 私は、中村敬宇はよく知っておりますが、西周はあまりよく知りません……。
―― 西周という人は、「哲学」とか、「主観」「客観」とか、「演繹」「帰納」といった用語をつくったことも知られています。
池田 中村敬宇は、東洋哲学を探究した人です。
幕末のころでしょうか、たしかイギリスに留学している。そして帰国してからは、当初、盛んに西欧思想を訴えはじめたのではないでしょうか。
―― そのとおりです。
池田 しかし晩年は、たいへん「法華経」に魅了され、サンスクリットの勉強までやっているようですね。
―― それは『史談会速記録』に載っていると、なにかで読んだことがあります。
この中村敬宇は、東大の教授になったときに、学生の試験答案を見ることが、いちばんの楽しみだったようです。これは、自分が教えた以外の答案があるか、ないかということを楽しみにしていたのでしょう。
池田 その話は、有名ですね。なぜ私が知っているかというと、私の恩師、戸田第二代会長が、よくこの話を、試験のたびに言っておられたからです。
屋嘉比 ユニークな先生ですね。
池田 中村敬宇は、答案用紙に、自分の知らないことを書いていれば、点数をたくさんあげたということなんです。つまり、いわゆる権威でなくして、深い境涯と、子弟を思う慈愛からの発露なんでしょうね。
屋嘉比 ロマンがありますね(大笑い)。いまは、そのようにおもしろい教授には、なかなかお目にかかれませんね。(爆笑)
ほかにまだだれか、そのようなエピソードはありますか、先生……。
池田 そうですね。忘れ得ぬひとつのエピソードがあるんです。第五十九世堀日亨上人のことなのです。
日亨上人は、たいへんな碩学であられた。第二代会長、戸田先生もたいへん尊敬され、日亨上人も、戸田先生を大事にしてくださった。
―― お二人が談笑なさっておられる場面も、たいへん懐かしい写真になっておりますね。
池田 ある日、御書の監修をお願いするために、戸田先生とともに、私たちもお訪ねいたしました。
当時、御隠尊で、伊豆の畑毛であったと思います。
さまざまな懇談のときに、笑みを含められながら、「わしは、宗門のある教学試験のときに、百点満点のところ、百二十点をつけてあげたことがあるのじゃ」とおっしゃった。皆が大笑いをして、だれかが、その理由を尋ねた。
上人は即座に、「その答案には、わしの知らないことを、しっかりと書いておったのじゃ」と答えられた。あのお言葉は、おもしろさのなかに、深い意味を思わせ、皆の心に残ったものです。
屋嘉比 学者の一人として、傲慢さを叩かれ、はっとするお話です。
ところで仏法では、「宗教」という言葉は、いつごろから使われたのでしょうか。
池田 いや、これはもともと、仏法をさす言葉ともいわれております。
屋嘉比 一般的にも、宗教というのはたくさんある。そのなかで、仏法を中心とした場合、宗教という言葉の意義づけは、どういうふうに解釈すればよろしいのでしょうか。
池田 宗教の「宗」とは、「おおもと」「根本」という意味にとらえられています。
―― 原則として、辞典でもそうなっています。
池田 ほかには、「尊」であるとか、「主」であるとか、さらには「要」であるとか、とらえています。
屋嘉比 すると、人間の根本……。
池田 そのとおりです。人間にとって、生命にとって、根本の教えということになります。