Nichiren・Ikeda
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第十一章 人間の「生と死」のドラマ
「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)
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6 仏法の根底は「因果論」
池田 いわゆる“奇跡”ということは、仏法では説かれていない。
その説く根底は、すべて「因果論」であり、「因果倶時論」なんです。
屋嘉比 科学文明の世界にあって、いわゆる奇跡のみを唱える宗教は、どんどん取り残されて、バカにされるでしょう。
池田 そのうえで戸田第二代会長は、経文を引用し、「信心をしている場合は、たとえ横死のような場合があっても、現世の少苦、軽苦である」とまで断言されていた。
当時は、若い私どもにはなかなか理解しがたかったけれども、長い信仰のうえから、大勢の人の姿を見てきて、昨今、私はその深い意味がよくわかるようになってきました。
ただ言えることは、鎌倉時代においても、正法を持った場合、その実証は当然明らかであった。
そのひとつの例として、大聖人は、当時大流行した疫病について述べておられる。
それは、「いかにとして候やらん彼等よりもすくなくやみ・すくなく死に候は不思議にをぼへ候」という御文です。
―― これは歴史的事実です。
池田 それにつけても、いまは、これだけ多くの人々が妙法を持つようになった。
なおかつ、全部が全部といってよいほど、真面目に信仰に励んできた人が守られてきたというのは、たいへんなことであると、私は思っております。
―― たしかに、そのとおりですね。
屋嘉比 ともかく今回の日航機の大事故は、仕事柄、多くの「生」と「死」に立ち会う私にとっても、本当に考えさせられることが多くありました。
池田 また、自分というものをみれば、あるときは疲れ、あるときは生きいきとしている。また、あるときは病気になり、死を感ずることもある。親友の死に、痛恨の思いにかられることもある。
また、あるときは、子供が生まれ、飛び上がらんばかりに喜ぶ(笑い)。また、後輩の結婚式を見て喜ぶ。また今度は、親戚の訃報を聞いたりする。
本当に、瞬間、瞬間が、「生」と「死」の変化の人生と思います。
まさに人生は、凡夫であるわれわれが、常に「生と死」のドラマを演じゆく、宿命的な舞台といえますね。
―― そのとおりです。素晴らしい言葉です。
池田 ところで、屋嘉比さん。こうした事故や、さまざまな偶然と思われる出来事にも、なんらかの法則を見いだそうと、一歩踏みこんで思索している学者はおりますか。
屋嘉比 スイスの偉大な精神病理学者、カール・ユング博士は有名ですね。
―― ほかにはおりますか。
屋嘉比 この問題を、ユングと共同執筆した、ノーベル物理学者のパウリ博士は、よく知られています。
また、ドイツの哲学者のショーペンハウアーなどもおります。
池田 これは古くは、ヒポクラテスも同じようなことを言っていた。最近では、亡くなった世界的ジャーナリストの、アーサー・ケストラーなんかも本を出しておりますね。
屋嘉比 その他、ニューサイエンスの思潮で有名な、デヴィッド・ボームなども、こうした方面への研究にもふみだそうとしているようです。
池田 具体的には、どんな研究ですか。ユングなどは、「意味のある偶然の一致」といった原理を提起しているようですが。
屋嘉比 「共時性」の原理ともいいます。詳しくは略させていただきますが、偶然にしては、あまりにも意味深い偶然と考えざるをえない現象に出合うことがある。これらの偶然と思われる現象の間に、内的法則、連関性を見いだそうとしています。
池田 博士の研究は、最近、ますます注目されているようですね。
屋嘉比 そうです。すでに、十九世紀のショーペンハウアーは、違う人同士の運命の糸を、意外な形で結び合わせるものがあると考えた一人です。
池田 するとユングなどは、哲学ではなく、心理学の立場から、それらを一歩進めた研究となっているわけですか。
屋嘉比 そう思います。
池田 私は、よくわかる気がします。
じつは、このユングにしろ、またショーペンハウアーにしろ、東洋の仏教に、たいへんな関心をもっていた。
ショーペンハウアーなどは、みずから“仏教徒”と言っていたほどですからね。これはまさに、“意味のある偶然の一致”と私は考えております。(大笑い)
屋嘉比 こうした動きは、ひとつの時代の流れであることは間違いない、と私は思います。
7 「宗教」とは生命根本の教え
屋嘉比 いつかうかがいたかったのですが、「宗教」という言葉は、いつごろから使われたのでしょうか。
池田 よくわかりませんが、まあ一般的には、明治の初期とされております。
屋嘉比 すると、英語の「リリジョン」(religion)を翻訳したことからでしょうか。
池田 そうです。なにかの本で読んだ記憶がありますが、翻訳には、たいへん苦慮したようですね。
屋嘉比 たとえば、どういう……。
池田 当初、福沢諭吉などは、「宗旨」とか「宗門」と訳していたようです。
屋嘉比 すると、だれが「宗教」としたのでしょうか。
池田 のちに文部大臣になった森有礼が、明治六年に『明六雑誌』に書いた「宗教」という論文が初めてのようです。
―― その雑誌は、当時の啓蒙思想家の集まりであった明六社が出したものです。
この明六社を中心に、洋行帰りの西周とか、中村敬宇とかいった論客が集まって、文明論を真剣に交わしたようです。
池田 私は、中村敬宇はよく知っておりますが、西周はあまりよく知りません……。
―― 西周という人は、「哲学」とか、「主観」「客観」とか、「演繹」「帰納」といった用語をつくったことも知られています。
池田 中村敬宇は、東洋哲学を探究した人です。
幕末のころでしょうか、たしかイギリスに留学している。そして帰国してからは、当初、盛んに西欧思想を訴えはじめたのではないでしょうか。
―― そのとおりです。
池田 しかし晩年は、たいへん「法華経」に魅了され、サンスクリットの勉強までやっているようですね。
―― それは『史談会速記録』に載っていると、なにかで読んだことがあります。
この中村敬宇は、東大の教授になったときに、学生の試験答案を見ることが、いちばんの楽しみだったようです。これは、自分が教えた以外の答案があるか、ないかということを楽しみにしていたのでしょう。
池田 その話は、有名ですね。なぜ私が知っているかというと、私の恩師、戸田第二代会長が、よくこの話を、試験のたびに言っておられたからです。
屋嘉比 ユニークな先生ですね。
池田 中村敬宇は、答案用紙に、自分の知らないことを書いていれば、点数をたくさんあげたということなんです。つまり、いわゆる権威でなくして、深い境涯と、子弟を思う慈愛からの発露なんでしょうね。
屋嘉比 ロマンがありますね(大笑い)。いまは、そのようにおもしろい教授には、なかなかお目にかかれませんね。(爆笑)
ほかにまだだれか、そのようなエピソードはありますか、先生……。
池田 そうですね。忘れ得ぬひとつのエピソードがあるんです。第五十九世堀日亨上人のことなのです。
日亨上人は、たいへんな碩学であられた。第二代会長、戸田先生もたいへん尊敬され、日亨上人も、戸田先生を大事にしてくださった。
―― お二人が談笑なさっておられる場面も、たいへん懐かしい写真になっておりますね。
池田 ある日、御書の監修をお願いするために、戸田先生とともに、私たちもお訪ねいたしました。
当時、御隠尊で、伊豆の畑毛であったと思います。
さまざまな懇談のときに、笑みを含められながら、「わしは、宗門のある教学試験のときに、百点満点のところ、百二十点をつけてあげたことがあるのじゃ」とおっしゃった。皆が大笑いをして、だれかが、その理由を尋ねた。
上人は即座に、「その答案には、わしの知らないことを、しっかりと書いておったのじゃ」と答えられた。あのお言葉は、おもしろさのなかに、深い意味を思わせ、皆の心に残ったものです。
屋嘉比 学者の一人として、傲慢さを叩かれ、はっとするお話です。
ところで仏法では、「宗教」という言葉は、いつごろから使われたのでしょうか。
池田 いや、これはもともと、仏法をさす言葉ともいわれております。
屋嘉比 一般的にも、宗教というのはたくさんある。そのなかで、仏法を中心とした場合、宗教という言葉の意義づけは、どういうふうに解釈すればよろしいのでしょうか。
池田 宗教の「宗」とは、「おおもと」「根本」という意味にとらえられています。
―― 原則として、辞典でもそうなっています。
池田 ほかには、「尊」であるとか、「主」であるとか、さらには「要」であるとか、とらえています。
屋嘉比 すると、人間の根本……。
池田 そのとおりです。人間にとって、生命にとって、根本の教えということになります。