Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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第十一章 人間の「生と死」のドラマ  

「生命と仏法を語る」(池田大作全集第11)

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5  池田 ここで仏法上大切なことは、法華経「勧持品」に「数数擯出せられ」とある。「数数」とは、二度流罪にあうという意義です。
 大聖人は、伊豆と佐渡の二度の流罪という迫害を受けられ、末法の御本仏として、この経文を身をもって読まれたという事実なんです。
 ―― 仏法上、こうした大迫害を受けられた方は、ほかにはおりませんね。
 池田 そう思います。大聖人は、「今までもきて候はふかしぎ不可思議なり」とまで仰せである。
 屋嘉比 「竜の口の法難」のことは『「仏法と宇宙」を語る』で詳しく語られており、それを読んで感銘をうけました。
 池田 「小松原の法難」ひとつみても、大聖人は重傷を受けていらっしゃる。
 屋嘉比 どういう難……。
 池田 後に、大聖人御自身が、このときの模様を、こう記されております。
 少々長くなりますが、「今年も十一月十一日安房の国・東条の松原と申す大路にして、申酉の時・数百人の念仏等にちかけられて候いて、日蓮は唯一人・十人ばかり・ものの要にふものは・わづかに三四人なり、あめごとし・たち太刀いなづまのごとし、弟子一人は当座にうちとられ・二人は大事のにて候、自身もられ打たれ結句にて候いし」とあります。
 屋嘉比 これは、明確なる歴史書ですね。
 大聖人のお怪我は、どんな具合だったのでしょうか。
 池田 定説としては、東条景信の太刀で、右の額に深手の傷を受けられたようです。
 そこで、その傷を治癒された後にも、四寸の傷痕が残るほどであったといわれております。
 屋嘉比 ああ、そうでしょうね。
 池田 そればかりか、左手を骨折されております。不思議なのは、かりに右手を骨折されておられたならば、数々の重大な御指南書をお残しになることができなかったわけです。
 屋嘉比 ましてや、一歩間違えば、命にかかわる重傷となりますね。
 池田 また、佐渡におられたときのご様子については、「今年・今月万が一も脱がれ難き身命なり、世の人疑い有らば委細の事は弟子に之を問え」との仰せからも、その状況が推察されます。
 ―― そうですね。
 池田 しかし、「種種の大難・出来すとも智者に我義やぶられずば用いじとなり」という有名な「開目抄」の一節がある。
 これが、御本仏としての根本の御精神であったわけでしょう。
 屋嘉比 なるほど。
 池田 屋嘉比さんがおっしゃったとおり、歴史的にみても、それなりの変革や物事を成した人々には、迫害や難は必ずある。
 これは、人間世界の避けられない現実の姿といってよいでしょう。
 ―― キリスト教であっても、難と迫害の連続であった。キリストも殺されておりますね。
 池田 しかし、釈尊も天台も、難はあった。また大聖人の場合、大難の連続であられたが、結論は、殺されていない、ということに意義があることを申しあげておきます。
 屋嘉比 すると仏さまにとっての難とは、どういう意義があるのでしょうか。
 池田 仏法上、仏が出世の本懐を遂げるための、重大な契機になっているのです。
 屋嘉比 すると、釈尊の場合は……。
 池田 いま、申しあげたように、釈尊の晩年は、最愛の弟子の一人である目連が竹杖外道に殺されている。また、舎利弗の病死。さらに、一族同胞の虐殺等が相次いだ。
 七十歳を越え、老いた釈尊にとってはこれほどの悲劇はない。
 だがそうした難のなかにあって、七十二歳にして初めて、みずからの本懐たる「法華経二十八品」を説かれたともいわれております。
 屋嘉比 すると大聖人の場合は……。
 池田 熱原の法難を機縁として、「一閻浮提総与」の「大御本尊」を御図顕されておられる。
 ですから、よく世間では、難を忍んだから偉いといいますが、そうではないのです。
 一切衆生を救済せんとされんがために、難に耐えられ、「法」を説いてくださったという意義を知らねばならないのです。その大慈大悲をしのばねばならないでしょう。
 ―― 有名な、「余は二十七年なり」とは、この事実をさしているわけですね。
 池田 そのとおりです。
 ですから、「大御本尊」の願主は、「弥四郎国重」とあるんです。
 屋嘉比 わかりました。
 池田 それにつけても、私が思いおこすお言葉があります。
 それは、私が青年時代に読んだ、第六十五世日淳上人の、「妙法の行者には災難がこないとか命が延びるとかもいひ得ない。(中略)信仰は活命である。善につけ悪につけ信仰にゐてこそ其の中に無限の意味を発見することができる」(『日淳上人全集』下巻)という一節です。
 つまり簡単に言えば、いくら妙法を信じていても、災難がないとはいえない。また、必ずしも命が延びるともいえない場合がある。
 ―― たしかに、私ども凡夫の眼では、また現象面だけでは、判断できないものもありますね。
 池田 要するに、信仰は、瞬間、瞬間を最大に生きゆくための活力であり、源泉であるという意味にもとれますね。
 ですから信心しぬいていくことが肝要であって、そのうえのさまざまな現象は、すべて深い意義があることを知らねばならない。
 それこそ、信心の真髄となりゆくとの御指南と、私には感じとれますね。
 屋嘉比 皮相的に論じがちな現世利益論を、さらに深い次元でとらえられておりますね。
6  仏法の根底は「因果論」
 池田 いわゆる“奇跡”ということは、仏法では説かれていない。
 その説く根底は、すべて「因果論」であり、「因果倶時論」なんです。
 屋嘉比 科学文明の世界にあって、いわゆる奇跡のみを唱える宗教は、どんどん取り残されて、バカにされるでしょう。
 池田 そのうえで戸田第二代会長は、経文を引用し、「信心をしている場合は、たとえ横死のような場合があっても、現世の少苦、軽苦である」とまで断言されていた。
 当時は、若い私どもにはなかなか理解しがたかったけれども、長い信仰のうえから、大勢の人の姿を見てきて、昨今、私はその深い意味がよくわかるようになってきました。
 ただ言えることは、鎌倉時代においても、正法を持った場合、その実証は当然明らかであった。
 そのひとつの例として、大聖人は、当時大流行した疫病について述べておられる。
 それは、「いかにとして候やらん彼等よりもすくなくやみ・すくなく死に候は不思議にをぼへ候」という御文です。
 ―― これは歴史的事実です。
 池田 それにつけても、いまは、これだけ多くの人々が妙法を持つようになった。
 なおかつ、全部が全部といってよいほど、真面目に信仰に励んできた人が守られてきたというのは、たいへんなことであると、私は思っております。
 ―― たしかに、そのとおりですね。
 屋嘉比 ともかく今回の日航機の大事故は、仕事柄、多くの「生」と「死」に立ち会う私にとっても、本当に考えさせられることが多くありました。
 池田 また、自分というものをみれば、あるときは疲れ、あるときは生きいきとしている。また、あるときは病気になり、死を感ずることもある。親友の死に、痛恨の思いにかられることもある。
 また、あるときは、子供が生まれ、飛び上がらんばかりに喜ぶ(笑い)。また、後輩の結婚式を見て喜ぶ。また今度は、親戚の訃報を聞いたりする。
 本当に、瞬間、瞬間が、「生」と「死」の変化の人生と思います。
 まさに人生は、凡夫であるわれわれが、常に「生と死」のドラマを演じゆく、宿命的な舞台といえますね。
 ―― そのとおりです。素晴らしい言葉です。
 池田 ところで、屋嘉比さん。こうした事故や、さまざまな偶然と思われる出来事にも、なんらかの法則を見いだそうと、一歩踏みこんで思索している学者はおりますか。
 屋嘉比 スイスの偉大な精神病理学者、カール・ユング博士は有名ですね。
 ―― ほかにはおりますか。
 屋嘉比 この問題を、ユングと共同執筆した、ノーベル物理学者のパウリ博士は、よく知られています。
 また、ドイツの哲学者のショーペンハウアーなどもおります。
 池田 これは古くは、ヒポクラテスも同じようなことを言っていた。最近では、亡くなった世界的ジャーナリストの、アーサー・ケストラーなんかも本を出しておりますね。
 屋嘉比 その他、ニューサイエンスの思潮で有名な、デヴィッド・ボームなども、こうした方面への研究にもふみだそうとしているようです。
 池田 具体的には、どんな研究ですか。ユングなどは、「意味のある偶然の一致」といった原理を提起しているようですが。
 屋嘉比 「共時性」の原理ともいいます。詳しくは略させていただきますが、偶然にしては、あまりにも意味深い偶然と考えざるをえない現象に出合うことがある。これらの偶然と思われる現象の間に、内的法則、連関性を見いだそうとしています。
 池田 博士の研究は、最近、ますます注目されているようですね。
 屋嘉比 そうです。すでに、十九世紀のショーペンハウアーは、違う人同士の運命の糸を、意外な形で結び合わせるものがあると考えた一人です。
 池田 するとユングなどは、哲学ではなく、心理学の立場から、それらを一歩進めた研究となっているわけですか。
 屋嘉比 そう思います。
 池田 私は、よくわかる気がします。
 じつは、このユングにしろ、またショーペンハウアーにしろ、東洋の仏教に、たいへんな関心をもっていた。
 ショーペンハウアーなどは、みずから“仏教徒”と言っていたほどですからね。これはまさに、“意味のある偶然の一致”と私は考えております。(大笑い)
 屋嘉比 こうした動きは、ひとつの時代の流れであることは間違いない、と私は思います。
7  「宗教」とは生命根本の教え
 屋嘉比 いつかうかがいたかったのですが、「宗教」という言葉は、いつごろから使われたのでしょうか。
 池田 よくわかりませんが、まあ一般的には、明治の初期とされております。
 屋嘉比 すると、英語の「リリジョン」(religion)を翻訳したことからでしょうか。
 池田 そうです。なにかの本で読んだ記憶がありますが、翻訳には、たいへん苦慮したようですね。
 屋嘉比 たとえば、どういう……。
 池田 当初、福沢諭吉などは、「宗旨」とか「宗門」と訳していたようです。
 屋嘉比 すると、だれが「宗教」としたのでしょうか。
 池田 のちに文部大臣になった森有礼が、明治六年に『明六雑誌』に書いた「宗教」という論文が初めてのようです。
 ―― その雑誌は、当時の啓蒙思想家の集まりであった明六社が出したものです。
 この明六社を中心に、洋行帰りの西周とか、中村敬宇とかいった論客が集まって、文明論を真剣に交わしたようです。
 池田 私は、中村敬宇はよく知っておりますが、西周はあまりよく知りません……。
 ―― 西周という人は、「哲学」とか、「主観」「客観」とか、「演繹」「帰納」といった用語をつくったことも知られています。
 池田 中村敬宇は、東洋哲学を探究した人です。
 幕末のころでしょうか、たしかイギリスに留学している。そして帰国してからは、当初、盛んに西欧思想を訴えはじめたのではないでしょうか。
 ―― そのとおりです。
 池田 しかし晩年は、たいへん「法華経」に魅了され、サンスクリットの勉強までやっているようですね。
 ―― それは『史談会速記録』に載っていると、なにかで読んだことがあります。
 この中村敬宇は、東大の教授になったときに、学生の試験答案を見ることが、いちばんの楽しみだったようです。これは、自分が教えた以外の答案があるか、ないかということを楽しみにしていたのでしょう。
 池田 その話は、有名ですね。なぜ私が知っているかというと、私の恩師、戸田第二代会長が、よくこの話を、試験のたびに言っておられたからです。
 屋嘉比 ユニークな先生ですね。
 池田 中村敬宇は、答案用紙に、自分の知らないことを書いていれば、点数をたくさんあげたということなんです。つまり、いわゆる権威でなくして、深い境涯と、子弟を思う慈愛からの発露なんでしょうね。  
 屋嘉比 ロマンがありますね(大笑い)。いまは、そのようにおもしろい教授には、なかなかお目にかかれませんね。(爆笑)
 ほかにまだだれか、そのようなエピソードはありますか、先生……。
 池田 そうですね。忘れ得ぬひとつのエピソードがあるんです。第五十九世堀日亨上人のことなのです。
 日亨上人は、たいへんな碩学であられた。第二代会長、戸田先生もたいへん尊敬され、日亨上人も、戸田先生を大事にしてくださった。
 ―― お二人が談笑なさっておられる場面も、たいへん懐かしい写真になっておりますね。
 池田 ある日、御書の監修をお願いするために、戸田先生とともに、私たちもお訪ねいたしました。
 当時、御隠尊で、伊豆の畑毛であったと思います。
 さまざまな懇談のときに、笑みを含められながら、「わしは、宗門のある教学試験のときに、百点満点のところ、百二十点をつけてあげたことがあるのじゃ」とおっしゃった。皆が大笑いをして、だれかが、その理由を尋ねた。
 上人は即座に、「その答案には、わしの知らないことを、しっかりと書いておったのじゃ」と答えられた。あのお言葉は、おもしろさのなかに、深い意味を思わせ、皆の心に残ったものです。
 屋嘉比 学者の一人として、傲慢さを叩かれ、はっとするお話です。
 ところで仏法では、「宗教」という言葉は、いつごろから使われたのでしょうか。
 池田 いや、これはもともと、仏法をさす言葉ともいわれております。
 屋嘉比 一般的にも、宗教というのはたくさんある。そのなかで、仏法を中心とした場合、宗教という言葉の意義づけは、どういうふうに解釈すればよろしいのでしょうか。
 池田 宗教の「宗」とは、「おおもと」「根本」という意味にとらえられています。
 ―― 原則として、辞典でもそうなっています。
 池田 ほかには、「尊」であるとか、「主」であるとか、さらには「要」であるとか、とらえています。
 屋嘉比 すると、人間の根本……。
 池田 そのとおりです。人間にとって、生命にとって、根本の教えということになります。

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